第24話 再会
「
扉を叩く音で、ルキウスはハッと目を覚ました。
午前中の仕事を終え、いつの間にか眠っていたようだ。
オトが訪ねてきてから、三日が経つ。その間、ひとり悩むことで睡眠不足だったせいもあるのだろう。
それほど思い悩んでも、未だ結論が出ていない。気がつくとなぜか、ナポリで出会った青年の顔を浮かべてしまっているのだから、度し難い。
あれからすでに、半年以上が経過していた。肩の傷はすっかりふさがり、跡も残っていない。
なのに、名も名乗らなかった彼の面影が、頭から離れないのだ。
一体、私はどうしてしまったというのか。
自嘲の念に駆られたのも、一度や二度ではない。
「入れ」
警戒も抱かずに呼びかけたのは、誰だがわかっていたからだ。
片腕とも呼ぶべき男、ティゲリヌス。ルキウスにとっては秘書の立場にありながら、本人も非常に優秀な政治家である。
椅子に腰かけたままのルキウスを眺め、ティゲリヌスが嘆息した。
「お支度は……まだのようですね」
「支度?」
思いもよらぬ言葉に、首を傾げる。
ローマでは大体、午前中に仕事を終わらせ、午後は家族とのんびり過ごすのが通常だった。
皇帝とはいえ、例外ではない。緊急時や特別に忙しい時を除き、午後まで仕事を持ちこすことはほとんどない。
「今日はこれから、ペトロニウス殿との会食のご予定が」
お忘れか? つけ加えられて、あ、と間の抜けた声を上げた。
オトのことに気を取られていたとはいえ、主催者である自分が会食をすっかり忘れるなど、問題外である。
しかも相手はローマ有数の名士――ガイウス・ペトロニウスだと言うのに。
早くに亡くなった父の後を継いで元老院議員となり、見事な政治手腕をもってビュティニアの地方総督を務めた、若き英雄だった。
職務を終え、彼がローマに戻ったと聞いて、招待したのはルキウスである。
明るく奔放な性格ながら、反面、真面目で礼儀正しいとも聞き及んでいる。かのユリウス・カエサルをすら思わせるという彼に、ぜひ会ってみたいと思っていた。
楽しみにしていた、その会食の日を忘れるとは。
「すぐに支度をする。オクタヴィアは?」
「もうご用意されています。ペトロニウス殿もお見えで」
「そうか。急がねばな」
答えるが早いか慌てて立ち上がり、オクタヴィアの待つ私室へと急いだ。
ルキウスの支度は、ごく簡単なものだった。
オクタヴィアを従え、大広間へと向かう。ティゲリヌスは、安堵の表情を浮かべた。
「ペトロニウス殿は、中庭でお待ちです」
一礼と共に発せられた言葉に、ひとつ頷き返す。
誰かを呼びにやろうかとも思ったが、待たせたのはルキウスだ。非礼を詫びる意味合いも込めて、自分で行くことにした。
眩しいほどの光が、庭全体を包んでいた。青々とした木々が、輝いている。
そのほぼ中央に、人影があった。あれが、ペトロニウスなのだろう。
大柄な人物だった。ルキウスも、たとえ男だとしても中背と呼ばれる程度だが、彼の身長はさらに頭一つほどは高く見える。
こちらからは後ろ姿しか見えないが、広い背中は若さに満ち溢れているかのようだ。
光の中に佇む姿は、まるで絵画だった。美しい
自分が男であるならば、あのように生まれたかった――と。
「ペトロニウス殿」
詮無い願望を払拭するためにも、声をかける。
「申し訳ない。随分と待たせた」
「滅相もない」
突然の声――しかも口ぶりから、皇帝自身と知ったのだろう。彼の体が、ぴくりと驚いたように竦む。
だがすぐに振り返り、辺りに溢れる光すらかすむ程の眩しい笑みが刻まれた。
その顔に、愕然とする。
「皇帝のお仕事は想像を絶する物でしょう。私を誘って下さった、それだけでも身に余る光栄です」
聞き慣れた追従の言葉が耳を通り過ぎたのは、慣れのせいではない。
驚きのために、ただただ立ち尽くす。
もう、二度と会うことはないと思っていた。
ただ一度の偶然だと思っていたのに。
幻影に惑わされ、アグリッピナと見えた刺客に殺されていた所を救ってくれた、あの青年とこうしてまた出会うことになるとは。
遠く、ビテュニアの地からも名声が聞こえていた、ペトロニウス。
これは偶然か?
自問には、否と即答する。神が仕組んだ必然と思えたのは、期待のせいだろうか。
胸が、酷く高鳴る。
立ち尽くすルキウスの様子を訝しげに見ていた彼が、不意に、あっと声を上げた。
「あなたはあの時の――」
ペトロニウスも気付いたのだろう。呆然とした呟きに、黙って首肯する。
「あなたが、
確認するように呼ばれ、再び無言で頷く。
驚きのためだろうか。胸が、まるで見えない拳で叩かれているかのよに酷く高鳴っている。
話すことがままならぬほど、息苦しさもあった。
「肩のお怪我は、大丈夫ですか?」
「――痕もない。それよりも……」
ひとつ呼吸を整えて、続ける。
「何故あの時、あなたは名乗らなかった?」
彼はローマ有数の名士だ。ルキウスばかりではなく、市民にも知られたその名を出していれば、皇帝を救ったとしてさらに名声を上げることができる。
さらには恩賞や地位を与えられる可能性も、充分にあった。
それらを拒絶したに等しい行動は、不思議である。
「まさかあなたが皇帝とは。――では、もう隠している意味はないですね」
ルキウスの問いかけに、困ったような笑みが滲む。
知らなかったのか。考えた自分の、傲りに気づく。
ローマ市民ならば自分の――皇帝の顔を知っていて当然だと、どこかで考えていたのだろう。
しかしペトロニウスは、ずっとビテュニアにいた。知らないのも、無理はない。
「あの時、ビテュニアからローマへと帰る途中だったのです。けれど、どうしてもナポリに寄りたくなって――元老院には、内緒で」
いたずらめいた笑顔に、納得した。
確かに、ビテュニアからローマへの帰還路に、ナポリはない。彼がローマへと帰るのは、公務だ。道を逸れて寄ったのだから、知られたくないのも頷ける。
ペトロニウスの名が有名であればあるほど、困った事態に陥るのは目に見えていた。
「けれど、結果的によかったということでしょうか。皇帝をお守りすることができた。――その事実で、相殺として頂けると、非常にありがたい」
その物言いが、おかしかった。
皇帝の命を救ったのだ。本来であれば、相殺どころの話ではない。皇帝と知って報酬を望むのではなく、恩赦を希望するとは。
「わざわざ、言及するまでもない。むしろ、謝礼を受け取ってほしいくらいだが」
「滅相もない。罪に問われないだけで、充分です」
無欲なのか、とも思うが、彼の家は名門の貴族である。あって困るものではないが、すでに多く持っているから金品には興味がないのかもしれない。
――もしくは、皇帝ネロとの接点を持ちたくないからではないか。
不意に浮かんだのは、疑心だった。
運命的な再会に高揚していた気分が、一気に沈んでいくのを感じていた。
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