第23話 報酬
ローマでのルキウスは、ひたすら政務に打ち込むようになった。
留守を任せたティゲリヌスは、優秀ではあったがそれでもルキウスと同程度とはいかない。半年の間にたまった仕事を片付けるのは、骨が折れた。
もっとも、おかげでくたくたに疲れ果て、夢も見ずに眠れるのは救いではあったけれど。
また、仕事を理由に、オトを徹底的に避けるようにもなった。
彼はルキウスを解放してくれた、恩人である。
同時に、アグリッピナを直接手にかけた男だ。オトを見れば、母殺しの罪をより強く思い出すのは、必然だった。会いたいはずがない。
謝礼として、金は送った。一生遊んで暮らせるほどの額はあっただろう。
けれどオトは何度も、話をしたいと使いを寄越してきた。納得いかないのも当然だとわかっていながら避け続ける自分は、非道なのだろう。
それでも遠くへ追いやる、まして消すなどとは考えられない。罪の意識がそうさせるのではなく、友として過ごした日々を忘れ難く思う気持ちもまた、本当だったから。
その迷いが、今の事態を招いたのだ。
勢いよく、執務室の扉が開かれた。
このような真似をするのは――オト以外にいない。
「どうした、急に」
憤然とした表情のオトを前に、平静を装って問いかける。
「どうした、ではないだろう!」
乱暴な足音と共に近づき、強く机を叩きつける。
ダン! と響いた音が、耳障りだった。眉を顰めて、オトを見上げる。
「もう少し静かにできないか」
「できないな」
元々、よく響く声の持ち主である。大きく荒げた声は、耳を覆うほどだった。
実際、そろそろではないかと思っていたのだ。ふと、苦笑する。
ルキウスから見てオトは、触れたくはない腫れ物だった。
けれど、オトからは?
オトは、ルキウスのために犯罪者にまでなったのだ。なのに一方的に金を送りつけただけで、半年もの間、音沙汰もない。使者を送っても拒絶される。
業を煮やして押しかけてくるのが、むしろ当然の反応だった。
「どういうつもりだ」
姿勢を倒し、不自然な体勢でルキウスを見上げ、顔を覗きこんでくる。
低い声は、明らかに相手を脅すためのものだ。
予測できていた態度に、怯むはずもない。冷然とした表情を作って、無言で見つめ返す。
「何故、連絡をよこさない。おれへの恩を、忘れたわけではないよな?」
「勿論だ。謝礼は送っただろう」
「金など、いらん」
鼻に皺を寄せ、吐き捨てる。
睨み据えてくる視線にわずかに怯んだのは、恐怖ではなくあまりの真剣さに圧されたためだった。
「――おれがほしいものは、わかっているだろう。お前だ」
熱を帯びた、囁きだった。
出会ってからすでに、五年の歳月が過ぎようとしている。その間、事ある毎にオトは訴えてきた。
だから予想はできていた。きっと体を要求されるだろうと。
ルキウスは、眉を顰める。
「それ以外に、だ。足りなかったと言うなら金を追加しよう。地位でも、名誉でも構わない」
「いらないと言った」
即座に否定される。
――おそらく、そうだろうとは思っていたけれど。
先程までの、乱暴な足取りとは違った。二人の間を隔てていた机を回り、近づいてくる歩調はゆっくりとしたものだった。
ルキウスも思わず、腰を浮かせる。
「わかっているだろう、おれの気持ちは」
柔らかな仕草で、手が伸ばされた。頬に触れられて、軽く身動ぎをする。
それだけで、精一杯だった。
見上げるオトの顔は、やはりどこまでも端正で――いつになく真摯な瞳が、まっすぐにルキウスを見つめている。
「――おれは、約束を守った」
静かに、それでいて熱っぽい口調が、続ける。
「その気になれば、いつでも力ずくで実行できた。だがそうしなかった。お前と、約束したからだ」
あれは、約束のつもりではなかった。脅しをかけたのだ。
けれどオトは、皇帝の脅しに怯えたからではなく、ルキウスとの約束だからと腕力に訴えることをしなかったのか。
「お前の頼みは、何でも聞いてきた。この手を、血で汚しても……」
前進するオトに押されるように、ルキウスの足も下がる。元々距離もなかったけれど、腰が机の縁に当たった。
もう、逃げ場はない。
「何故だかわかるか? ――お前に、惚れてるからだ」
今までに、何度も聞いた台詞だった。
軽い調子で言われれば、気持ちの悪いことを言うなと冗談めいて返す。真剣な様子であれば、ふざけるなと怒りの表情を向ける――いずれも、のらりくらりと避け続けてきた。
本気だったのかと驚く片隅で、わかっていた気もする。
おそらく最初は、「皇帝」への興味と権力へのすり寄りだったのだろう。
けれど付き合ううち、興味はルキウス本人へと向けられ、さらには愛情、愛着へとなっていったのかもしれない。
ただの、色欲だと思っていた。そうであってほしいと。
そうであるならば、ルキウスの方も拒むことに罪悪感は覚えずにすんだのに。
「――五年も、待った」
ルキウスの頼みに応えて、オトは罪を犯した。
オトは、望みを叶えてくれた。
ならばルキウスも、応えなければならないだろう。
義務感が、オトを拒むことを許さなかった。静かに、彼の唇を受け入れる。
初めてオトと口付けを交わした時、あまりのおぞましさに全身総毛立ったのを今でも覚えている。
だが今は違った。嫌悪感はない。――心地よさも、なかったけれど。
これならば、我慢できる。
抵抗の意思がないことを知ったのだろう。オトが体重を乗せてくる。押されて、机の上へと倒れ込んだ。
頬に、首筋にとくり返される口付けは、段々と熱を帯びてくる。
「ネロ……」
名を呼ぶ声、耳元に吐きかけられる息が、男臭い。腕、頬、腰――執拗に続く愛撫の荒々しさも、普段は感じない男っぽさがあった。
固く目を閉じ、ただ、耐える。
いよいよだ。
脱がされ、体がオトの目に触れれば、女であることは知られる。
オトは――驚くだろうか。
その後は、どうなるのだろう。
ルキウスが女と知っても、オトは裏切らない。少なくとも自分に対して、彼は誠実だった。
最初の頃恐れていたように、秘密を暴露され、皇帝の地位を失うことは、きっとない。
だが同時に、知ってもいた。一度でも受け入れてしまえば、二度と後戻りはできない。ずっと、関係が続くことを。
そうなったら、オクタヴィアは――ずっとルキウスを慕ってくれている彼女とは、どうなってしまうのか。
一抹の寂しさが浮かぶ。
彼女の顔を思い浮かべて、ふっと我に返った。
これだけ思考に時間を費やしたのに、未だルキウスは衣服を纏ったままだった。気が付けば、オトの手も止まっている。
どうかしたのだろうか。不意に目を開けると、どこか切なさを帯びたオトの瞳が目の前にあった。
「――抵抗、しないのか」
質問に、思わず笑ってしまう。
「した方がいいのか」
「そうではないが……お前らしくない気がして」
困惑気味の表情だった。
今まで散々拒絶してきたのだ。急に受け入れると言われれば、戸惑うのも無理はなかった。
笑声とため息、どちらともつかぬものが、唇から零れ落ちる。
「お前には感謝している。お前が望む報酬がこれだと言うならば、仕方がない。我慢できる」
「――我慢、か」
眉根を寄せた、険しい顔だった。口の端に滲んだ笑みに、自嘲の色が見える。
「力で奪い取るのは、違う」
肺が、空になるほどのため息だった。
オトの体が、離れて行く。え、と驚きに瞠った目前に、手が伸ばされた。
「言葉で脅し取るのも、だ」
差し出された手を握ると、やんわりと引き上げられる。決して強引ではなく、それでも、力強さがあった。
自分とはやはり、違う。男と女、本気で力ずくを狙ったならば、逃げられなかっただろう。
それはとりもなおさず、彼が待ってくれていた事実を証明していた。
「――忘れるな。おれはお前の味方だ。いつでも、どのような時でも」
握られていた手に、力が入る。真剣さを増した眼差しが、ルキウスの胸を突き刺した。
オトの言葉に、きっと嘘はない。五年の間に培われた確固たる信頼が、二人にはあった。
名残惜しそうに手を離したオトは、くっくっと喉を鳴らす。
「それにしても酷い奴だ、我慢だのなんだのと。自分に惚れている相手に、よく言ったものだ」
頬を撫でてくる手つきは、奇妙なほどに優しかった。端正な顔が刻む笑みも、優雅で柔らかく――どこか、悲しげに見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「待つよ、お前がその気になるまで」
口の端に苦みを残しながら、オトはすっと視線を横に逸らした。
「言っただろう。おれはお前に惚れている。体を重ねても、心が離れていくのであれば意味はない」
「――お前が望むような日は、永遠に来ないかもしれないぞ」
「それでも、だ」
吹っ切れたような顔付きは、逆に罪悪感を刺激した。
一層のこと、力ずくで奪えばいいのに。そうしたらオトを、憎むことができる。感謝も後ろめたさも、消すことができるのに。
「ではな。色良い返事、期待している」
ルキウスの頬に軽く口付け、くるりと背を向けた。あっさりとした退室が、むしろルキウスを悩ませる。
考えざるを、得なくなる。
――酷いのは、どちらだ。
ルキウスは、痛む胸をそっと押さえた。
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