第21話 運命
突如として目が覚める。
全身が寝汗で濡れていた。内容は覚えていないが、悪夢にでもうなされていたのだろう。
母、アグリッピナの夢に。
隣りで眠るオクタヴィアを起こさないようにそっと、寝台から這い出す。
無理やり奪おうとしたルキウスを、彼女はその場で許してくれた。優しく抱きしめて、添い寝をして宥めてもくれた。
心苦しさは否めなかったが、その後の記憶がぷつりと途絶えていることを見ると、すぐに寝ついてしまったのだろう。
そんな自分を、彼女はどんな思いで眺めていたのか。
ため息が唇から零れ落ちた。
次の間まで足を向ける。やけに喉が渇いていた。水差しを手にして、ふと手を止める。
背後に生まれたのは、紛れもない殺気。
けれど、辺りを見渡してもただ夜の暗がりが広がるばかりだった。
訝しく思い――不意に、恐怖が沸き上がる。
夕方に浮かんだ、フリアエの存在を思い出したのだ。
まさか。咄嗟に浮かんだのは、否定だった。
そのような非現実的なことがあるはずもない。そう言い聞かせる傍らで、恐怖は膨らんでいく。
もしかしたら、あまりにも邪悪なルキウスの所業に、神々が憤怒したのかもしれない。
古代以来、人間世界に干渉してこなくなった神々をすら動かすほどのことを、やってしまったのではないか。
自分でもわかるほど頼りない足取りで、部屋を出て行く。
神々がルキウスを罰するというのであれば、仕方のないことだ。それだけのことをしたのは、間違いない。
ただ、オクタヴィアを巻き込むわけにはいかなかった。
ふらつきながらも走るルキウスの耳に、けたたましい女の笑い声が聞こえてくる。
一人、二人、三人――ああ、やはりフリアエだ。
逃げなければ。
夜着を羽織ることも、サンダルを履くことすら忘れ、ルキウスは回廊を走る。
フリアエ達は残虐で容赦はないが、正しい者には牙を剥かない。ルキウスが離れれば、清らかなオクタヴィアにまで危害を加えることはないはずだ。
少しでも遠くに――少しでも。
床の冷たい感触が、素足を通して体の隅々まで伝わってくる気がする。
ふと目を落とすと、床に自分の物ならぬ影を見つけた。
そしてすぐ近くに迫る、何者かの気配。
もはや声だけではない。ハッと振り向いた目には、長髪を振り乱した、有翼の女神達の姿が映っていた。
おそらくは、幻覚のはずだ。だがその可能性すら浮かばなかった。ただひたすらに逃げるだけで、精一杯だったのだ。
――ルキウスはきっと、狂いかけていた。
親殺し。
それほどの重大な罪を犯すには、ルキウスの神経は細すぎた。正常すぎた。
母がいないと確信した時から、罪の意識に苛まれ続け――とうとう、その緊張に精神が耐えられなくなったのだろう。
どれくらい進んだのかもわからない。気がつくと、別荘を抜け、隣接したルキウスの守護神、アポロン神殿にまで来ていた。
星は、雲に隠されて見えない。明かりといえば、わずかに洩れる月明りだけだ。
月光に照らし出され、アポロン像が雄々しく立っている。
このような時でなければ、美しい光景だったのかもしれない。
けれど今のルキウスには、そのほの明かりでさえも、恐怖を募らせるばかりだった。
「あ――あぁ……」
もう、進むことさえできなかった。掠れた呻きを洩らし、頭を抱えて蹲る。
幻の女神達はその周りを囲み、打撃を加えた。身体的な苦痛はない。だがその一撃一撃が、確実に精神を痛めつける。
――少しずつ、正気を蝕んでいく。
何処か遠くで、カツカツと床を蹴る音が聞こえた。
自分は、このまま死ぬのだろうか。
目を閉じた瞬間、体が横倒しにされる。同時に、肩への鋭い痛みも。
冷え切った体に、流れ出した血液が熱い。
女神は、直接人間にも手を下すのか。
先程までとは違い、身体に覚えた痛みに目を開ける。
「母上――」
そこにいたのは、アグリッピナだった。
怒りの形相も露わに、短刀をルキウスの肩に突き立てている。
そのようなはずがない。お前自身が母を殺したではないかと、微かに残った正気が訴える。
けれど、フリアエもいた。そう狂気が反論する。
あれだけルキウスを苦しめていたフリアエが、アグリッピナの出現と共に姿を消していた。
そこにおかしさを感じ取れるほどのまともさは、ルキウスには残っていなかった。
「しくじったか」
低く呟く男の声は、目前のアグリッピナから発せられた。
異様な光景だった。
舌打ちを一つ吐き捨てて、アグリッピナは短刀を引き抜く。溢れ出した血液が、ルキウスとアグリッピナ、双方の頬を濡らす。
それをぺろりと舐めとる舌の赤さが、やけに鮮やかだった。
「本当は存分にいたぶってやりたいところだが――」
男の声で囁きながら、アグリッピナは再び、ルキウスを石畳へと押さえつける。短刀が、頭上に掲げられていた。
「せっかくの好機だ。逃す手はない。一気に片を付けてやる」
感謝しろ。告げる言葉はただ、耳を素通りする。
母上に殺されるのであれば、仕方がない。
なにより、一気に殺してくれるという。痛みも一瞬で終わるのであれば、むしろ褒美ではないか。
これ以上、苦しまなくてすむ。
やけに静かな気分で、振り上げられた短刀を見る。その向こうには、そびえ立つアポロンの神像があった。
最後に見た光景が、月光にきらめく刃とは風流なことだ。
奇妙な満足感に、ゆっくりと瞼を閉じる。
けれど、不意にオクタヴィアの姿が脳裏に浮かんだ。
ルキウスが死ねば、彼女はどうなるのだろう。
オクタヴィアのことだ。ルキウスの死を、嘆き悲しむに決まっていた。
それでもきっと、すぐに次期皇帝の地位を欲する者に狙われる。帝国を手中に収める、その道具として結婚を余儀なくされるだろう。
その男は、オクタヴィアに優しくしてくれるだろうか。――幸せに、してくれるだろうか。
オクタヴィアと、ブリタニクス。二人とした約束を守れず、他人の手に委ねなければならないとは。
無念さに襲われ、ふと、疑問を覚える。
いつまで経っても、胸にも首にも、一向に痛みが訪れないのだ。すぐに片を付けると、宣言されたはずなのに。
目を開けたそこに、ルキウスは見知らぬ男の顔を見た。
驚いて飛び上がり、そこにこそまた、驚かざるを得ない。
馬乗りになられ、肩を押さえつけられていたはずだ。なのになぜ、こうも簡単に体を起こすことができたのか。
目の前では、二人の男が争っている。
一人は先程、ルキウスの目に飛び込んできた若い男。もう一人は初老の、小柄な男だった。
いずれも、知った顔ではない。
「早く逃げなさい!」
愕然と座り込んでいたルキウスに、青年が叫ぶ。
「させるか」
声を上げたのは、初老の男。どうやらその男がルキウスに向かってくるのを、青年が防いでいるようだった。
初老の男の手には、血に濡れた短刀。
母上ではなかったのか。
幻と現実の狭間で、頭が混乱する。
否、これも現実とは思えない。母殺しのルキウスを、守ろうとする者がいるなどとは。
逃げることもできず、茫然と彼らの争いを眺めている。ある程度の体術を心得ているルキウスから見ても、二人は強かった。
特に青年の方は、屈強な体格からも戦士ではないかと思える。
だが初老の男もまた身軽で、何より素手の青年に対し、彼は短刀という得物を持っている。
「早く! 人を呼んで来るんだ」
青年の怒号に、ルキウスはやっと我に返る。ハッと立ち上がり、彼らに背を向けて走り出した。
目的地は、神殿の奥。そこには警備兵達が控えているはずだ。彼らを呼べば、刺客の一人くらい、簡単に捕らえてくれる。
せめてそれまでは、持ちこたえてほしい。
必死の思いで、ルキウスは真っ直ぐ神殿へと走って行った。
警備兵を説得するのに、時間はいらなかった。彼らもルキウスの顔は、当然知っている。刺客に狙われた、そう言うだけでよかった。
兵士達を連れ、先程の場所に戻った時、勝敗は既に決していた。青年が男をねじ伏せた格好で、ルキウス達を待っていたのだ。
命じるまでもなく、兵士達は青年から男を受け取り、常備しているのだろう縄で手際よく縛り始めた。
男が、ルキウスに罵声を浴びせている。
人殺し、この悪魔め――本来であれば、心臓を突き刺されるほどの痛みに襲われるはずの言葉が、耳を素通りしていく。
ただ、呆けたように青年を見上げていた。
視線に気づいたのだろう、彼はにこりと人好きのする笑顔を向ける。それから自分のトゥニカの袖に歯を当てて裂くと、ルキウスの肩の傷へと巻き付けた。
「出血は多くないが、傷は深そうだ。すぐにでも医者に診てもらった方がいい」
さらに、羽織っていた
「後はお願いします」
兵士の一人に声をかけて軽く頭を下げると、そのまま歩き出した。
その後ろ姿をただ見送りかけ、けれどハッとする。
「――あの」
呼びかけに、青年は足を止めた。ゆっくりと振り返る仕草が、やけに優雅に映る。
「お名前を」
問いかけに、青年は一瞬、困惑した表情をする。それから苦笑にも似た、柔らかな微笑みを滲ませた。
ただ、それだけだった。
彼は何も言おうとはせず、ゆっくりと歩み去る。
月の光に青く照らし出されたその姿が、ルキウスの目と胸に深い印象を焼きつけた。
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