第48話 パウロ

 もう、泣くこともできなかった。

 悲嘆、苦悶、絶望――言葉で言い表すことなど、到底できそうにもない。

 ただ、疲れた。

 アウグスタが亡くなるまでの三日三晩、寝ずに傍についていた。憔悴は、心身ともに深い。


 けれど、行かなければならない。


 何かにとり憑かれたように、街中を歩く。

 変装はしていた。けれどオトと町に降りていた時ほど、念の入ったものではない。フード付きの外套を羽織り、顔を隠しただけだ。


 もっとも辺りは闇に包まれている。向かう先も、薄暗いと聞いていた。

 何より、皇帝が現れるとは思われない場所である。正体が知られることは、まずない。


 どれくらい歩いたのか。

 街外れにある古い館――その地下墓地で夜な夜な行われる集会に参加するのが、目的だった。


 ある宗教者達の集い。


 どの時代においても、新しい宗教というものは認められにくい。認められるまでの間に、幾多もの迫害を受けることも珍しくなかった。

 そのため信者達は、身を潜めながら、それでも地道に説教を行い、仲間を増やしていく。


 この宗教――クリストゥス信仰の者達も、その例に漏れない。


 特にこの者達は、多くのローマ人から奇異の目を向けられていた。信者達が互いを兄弟姉妹と呼ぶ事、その上で万人を愛せよと説く教えのせいで、近親愛者の集団との誤解を受けていたのだ。


 また、儀式の際に用いられる用語にも、問題があった。

 神の肉を食し、その血を飲むとの言い回しを使うので、人肉食とも思われていたのである。

 彼らにとっての神とは、神の子と自ら名乗ったナザレのイエス――血肉を持った人間だからだ。


 人々の非難の目を避けるために、このような地下墓地で集会を開くのだが、それがまた秘密の儀式を行っているのだという噂を呼び、悪循環となっていた。

 ルキウスは決して、噂を信じているわけではない。

 これは、オクタヴィアが信じた宗教だ。彼女が敬愛する神が、邪悪なはずなどなかった。


 だがルキウス自身は、信者ではない。彼らの生活習慣などはある程度知っているが、その神の教えは知らなかった。

 まして、信者達の考え方も把握できていない。


 それを、知りたかった。

 オクタヴィアが信じた神を知ることによって自分の知らなかった彼女を見つけられるかもしれない。本当の心を理解することができるかもしれないと思ったのだ。


 地下室は、思っていたよりも広かった。ただし明かりは少なく、部屋の中は薄暗い。中央に演説台と思われる盛り上がりがあり、信者達はそこを囲んでいる。

 ルキウスは中心から少し離れた、それでもさほど遠くはない所で、説教が始まるのを待っていた。


 まず驚いたのは、意外に信者の数が多いことだった。

 集まってもせいぜい二、三十人くらいだろうと思っていたのに、ここにいるだけで百を数えそうなくらいだった。

 結構広いと感じていた室内いっぱいに、人が入っている。

 これ以上入ると窮屈になる、と感じ始めていると、扉が閉められた。


 薄明りの中、密閉された空間にひしめく男女――その図は、異様だった。


 しばらく待っていると、一人の人物が演説台に現れる。髭を生やした、初老の男だった。

 髭だけではなく、頭髪にも白い物が混じっていた。小柄だが、そこそこ人目を惹きつける、堂々とした風貌である。


 けれど、ルキウスが抱いたのは不快感だった。

 薄いランプの明かりを照り返す瞳に、なにか不吉な思いがした。


 男は、自らをパウロと名乗った。

 その名は知っている。――犯罪者、という認識で。


 元はクリストゥス信仰者達を迫害していたと聞く。確か、ユダヤ教の司祭をしていたのではなかったか。

 ユダヤ教徒にとって、自らを神の子と名乗るイエスは、許されざる罪人だった。

 それを信仰する者も、多神教者と同じように罰を課さなければならない。


 その観点から言えば、クリストゥス者達の迫害を行ったパウロの行動は適切だった。

 だが彼は、ある日突然、改宗したのだ。


 ある日、いつものように棒を片手にクリストゥス者達を追い回していたパウロの前に、その時にはすでに他界していたはずのイエスが現れ、言った。


 何故あなたは、神の子を迫害するのか。


 奇跡を目の当たりにし、あっさりと改宗したらしい。

 最初、パウロの立場は半端なものだった。

 クリストゥス信者から見れば血腥い迫害者、ローマやユダヤから見れば、寝返った裏切り者。


 けれど今では、イエスの奇跡をその目で確認した、最後の生き証人として尊ばれている。


 もっともルキウスの――皇帝の目から見るのならば、パウロはやはり反逆者に他ならない。

 そもそも、イエスこそが犯罪者であった。

 イエスが生まれたのは、ユダヤのナザレ地方。ユダヤ人のマリアから生まれた、正真正銘のユダヤ人だった。

 けれどその宗教の教えをことごとく破り、ユダヤ教会から背徳者として手配される。

 挙句、弟子の一人に裏切られて捕まり、ローマの裁判を受けて死刑とされた反逆者。


 その結果は、皇帝たるルキウスの視点で考えるのならば当然と思えた。

 ローマの方から見ても、ユダヤの宗教から見ても、イエスは犯罪者だった。

 彼の犯したもっとも重い罪は、自らを神の子だと名乗ったことらしい。ユダヤ人にとって唯一の神、ヤハウェの元で、人間は皆平等だとの教えを無視し、更には神を冒涜する行為として責められたのだ。


 しかし、ユダヤの古い予言ではメシア――救世主が現れるとも言われていた。

 だからこそイエスを信仰する者達は、彼を救世主メシア、ラテン語表記でクリストゥスと呼ぶのだと。


 基本的なことを伝え、パウロは更に説明を続ける。


 イエスの行った偉業――一杯の葡萄酒と一欠片のパンを、ちぎっては与え、ついには百人近くいた民衆全員を満腹させた話や、死人すら蘇らせたという奇跡を。


 ルキウスは、思わず眉を顰める。

 他人の死を救い、民の空腹を癒せる程の偉人が、何故自らの危機を救えなかったのか。

 何故、弟子の裏切りにも気付かず、イエスの無害そうな人柄に同情を寄せた、ローマの将軍ピラトゥスの慈悲も叶わず、仲間であるはずのユダヤ人に死刑を望まれたのか。

 疑念に対する弁解なのか、パウロは続けた。


「イエスの贖罪の仕上げは、ご自身の命を神に捧げる事であった。我々が贖罪の儀式で羊を屠るように、イエスは自らの肉体を犠牲としたのだ。人間達の犯す罪を一身に集め、その滅びによって神が、我々を祝福して下さるように」


 パウロの言葉に、おお、とどよめきが起こった。――歓喜の声が。


 これが、オクタヴィアの信じた神の子の話か?

 吐き気すら込み上げてくる。


 他者の――しかも自分達の代表者と崇めた者の命を犠牲にしてまで、自らの幸せを願うのか。

 オクタヴィアも、そうだったのか。彼女も、罪を他人になすりつけようとしたのか。


 考えて、すぐに頭を振る。

 違う、彼女は逆だ。

 ルキウスの罪を被り、そして死んでいった。まさに、彼女が信じた神の子と同じように。


 そう考えると、反逆者としていい印象のなかったイエスに対しても、同情も湧く。

 父と信じていた神に見捨てられ、守ってきた民にすら裏切られた、悲しき英雄の姿が脳裏に浮かんだ。

 もしかしたらイエスは、社会と宗教に挟まれた被害者なのかもしれない。


 パウロの説教は続いて、具体的な教えを並べ始めた。

 主なるヤハウェ、その一人子イエス以外を神と崇めてはいけない。

 崇拝の対象として、いかなる像を作ることも許されない。神は人の目に見えず、見えない物を模ることなどできないのだから。それを崇めるのは、他神を崇拝するのと同じである。

 主の名をみだりに唱えてはならない。安息日を心に留め、聖別せよ。

 父や母を敬わなければならない。人を殺すことは罪。

 姦淫も、盗みも許されない。偽証してはいけない。隣人の物を欲しいと感じる、その心だけでも罪である。


 これを信じるならば、ルキウスは罪にまみれた人間ということになる。ヤハウェなど信じず、ローマ古来の神々、その姿を模った神像に祈りを捧げていた。

 緊急時には日曜日でも仕事をしなければならなかったし、人を介してではあるが、実の母を殺害した。

 ――もっとも、この点は法的にも罪ではあるが。


 けれど、もっとも信じられなかったのは、自殺を禁じていることだった。


 ローマにおいて罪人――とくに死に値する罪を犯した人間が、もっとも潔いとされるのが自決だった。

 昔からの慣習が身に沁みついているルキウスには、不可解な決まりである。


 また、オクタヴィアの死因でもあった。

 だからこそ彼女は、自分が地獄に落ちるべき罪人だなどと言ったのだろうか。


「何か、お尋ねになりたいことはありますか?」


 儀式の際の注意事項などを並べ、やがてパウロはそう民に呼びかけた。

 誰も、声を上げない。こういう、一方的な説教が常なのだろうか。

 手を挙げたのは、ルキウスただ一人だった。

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