第41話 出産
オクタヴィアがローマを出てから、早六ヶ月が経とうとしていた。
オクタヴィアが産気づいたと知らせを受けた時、ガイウスは驚きを隠せなかった。一日いちにちは非常に長く感じられたというのに、もうそのような時期なのかと。
この間、ガイウスはルキウスの元を訪れるのをやめなかった。
決して会いたいとは思えない。淡々とした会話を重ねるだけの気まずい空気は、苦行にも等しかった。
オクタヴィアに、ルキウスの様子を知らせてほしいと頼まれていなければ、まず間違いなく疎遠になっていただろう。
逆恨みで自分を流刑にした夫を、彼女は未だに心配している。ルキウスの言動を記した手紙への返信には、オクタヴィアの溢れんばかりの愛情がにじみ出ていた。
あれほどまでに情が深く、いじらしい女性は他にいない。だからこそ、皇帝の非情な仕打ちが許せなかった。
全てを暴露したい衝動に駆られたことも、一度や二度ではない。けれどその度に思い出すのだ、オクタヴィアとの約束を。
黙っていることが、オクタヴィアを窮地に追い込むのはわかっていたけれど、あの想いを裏切れなかった。
――それにしても、遅い。
オクタヴィアが産気づいたとの知らせは、昨日の朝に届いた。今はもう、昼を回っている。いくら出産に時間がかかるとはいえ、遅すぎはしないか。
体の弱いオクタヴィアのこと、難産に苦しんでいるのかもしれない。そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
意味もなく立ち上がり、辺りを見渡した目に、かつてルキウスが感嘆し、褒め称えた調度が映る。ルキウスがここを訪れたのは、あの一度きりだった。
あれから、一年も経っていない。なのにもう、大昔のような気がしていた。
あの時と比べると、ルキウスは人が変わったかのようだった。妻を愛し、親友オトの件で悩んでいた、繊細な美青年。
まるでか弱い女性にさえ、見えた。
ビテュニアにいる頃、入ってくる皇帝ネロに関する噂は悪いものが大半だった。
オトとは男色に耽り、政治はセネカに任せ、あまつさえ母を殺した悪辣な男。
だが実際に会ったルキウスは、礼儀正しく、賢明であろうとする善良な青年に見えた。その姿を見ると、美貌故に妬まれ、悪意の中傷に晒されているだけではないかと疑ったものだ。
けれど今のルキウスは、出会う前に想像していた通りの、冷酷な皇帝だった。
相変わらず容姿は美しいけれど、感情の見えない冷淡な眼差しを向けられるだけで、背筋に悪寒が走り抜ける。
出会った頃から時間を重ね、本来であればより身近に皇帝を感じ、
「ペトロニウス様――!」
コツコツと、ノックの音に被る大きな呼び声に、ガイウスは弾けるように反応した。
「生まれたのか」
扉を開けると、相手が口を開くよりも先に問いかける。
正式の発表など待っていられない。ガイウス自身が、自費で雇った密使だった。
頷く相手に、まずは無事に生まれたと知りホッと胸を撫で下ろす。
「それで――オクタヴィア様は?」
赤子の誕生以上に、重要な事柄だった。
出産に危険は付き物である。命を落とした女性は、少なくはない。まして体の弱いオクタヴィアを、心配せずにはいられなかった。
質問に、使者は表情を硬くする。その反応が、悪い予感を肯定しているかのようで、まさか、と思わず呟く声が掠れた。
「いえ、お亡くなりになったわけではありません。ただ――かなり、衰弱されているようです。産後の肥立ちによっては、あるいは……」
もたないかもしれない。
言い辛そうな声音が、無言の内に語っていた。
このまま、死なせるわけにはいかない。
使者に礼金を握らせると、ガイウスは足早に館を後にした。
勿論、向かう先はルキウスの宮殿である。
ガイウスが執務室に訪れた時、すれ違いに出て行ったのは、ティゲリヌス――皇帝の側近で、警察としての最高権利を与えられた男だった。
彼がもたらしたのは、オクタヴィア出産の知らせだろう。ならばこれは、あくまで公務の報告にすぎないということか。
それほどまでに、無関心なのか。
「やあ、ガイウス」
後ろ手に扉を閉め、部屋に入るガイウスを振り返りもしない。立ち上がったまま、窓の外を眺めている横顔が見えた。
目元にはやはり、表情がない。ただ、口元にだけは冷たい笑みが刻まれている。
美しい立ち姿は、まるで氷の彫像だった。
この美術品を人間に戻すのが、自分の役目だ。オクタヴィアのためにできる、おそらくは唯一の。
いざとなれば、全てを話すことも辞さない。
ガイウスはようやく、覚悟を決めた。
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