第44話 拒絶

 見慣れた、優しい微笑みがそこに在った。

 言いたいことは、山ほどあったはずだ。

 まずは、謝らなければならない。足元に身を投げ出し、許しを請うて、傍にいさせて欲しいと懇願するつもりだった。

 力いっぱい、抱きしめたい。

 そう思っていたのに、近付くことすらできなかった。


「ごめんなさい」


 謝罪を口にしたのは、何故かオクタヴィアの方だった。

 小さな、か細い声。身体が弱っているだけではなく、心労を窺わせる。


「――申し訳、ございません。陛下がわざわざやって来て下さったというのに――今の私には、立ち上がる力さえもありません」


 寂しげに笑う顔が、辛かった。頭を振って見せる。


「違う。私は皇帝などではない。君の前では、ただのルキウスだ」


 他人行儀な物言いが、胸に突き刺さる。

 オクタヴィアにとって、ルキウスは非情な皇帝にすぎないのだろうか。あれほどまでに互いを大切にした事実は、想いは、既に過去になってしまったのだろうか。


「謝って、許されるものではない。わかっている。けれど私は――」


 震える足を、そっと前へと踏み出す。ちゃんと歩けているのだろうか。それさえもわからなかった。


「私は、知らなかった。君に裏切られたと、思い込んでいた。君になんら落ち度なく、どれだけ辛い想いをしたのかも知らず──」


 息が、詰まる。胸も痛い。


 そして――オクタヴィアの表情が凍り付く。

 悲痛な面持ちで、ルキウスを見上げていたが、すぐに目を伏せ、力なく笑った。

 けほんと、小さく咳き込む。


「――ガイウスに、お聞きになりましたの……?」


 問いかけに、言葉もなく頷く。

 ルキウスが事実を知るのは、オクタヴィアの本意ではなかったはずだ。

 けれど知らなければ、本当に取り返しのつかない事になっていただろう。

 オクタヴィアに罪を着せ、追放してしまったのと同じに。


 そっと、彼女の横で眠る赤子を覗きこむ。小さな寝息を立てる顔は、母に守られる安心に包まれているようだった。


「可愛い子だな」


 本心から言った。

 閉じられ、半円になった目元を飾る長い睫毛、生まれてまだ数日だというのに、しっかりと髪も生えそろい、ゆるやかに波打っている。


 その子は、オクタヴィアによく似ていた。


 ルキウスは、安堵に胸を撫で下ろす。父親――オトの面影が濃ければ、どうしても辛い過去を思い出してしまう。

 オクタヴィアだけではなく、きっとルキウスも。


「あなたの目にもそう見える? 良かった、私だけじゃないのね」


 けほ、とまた小さく咳き込みながら、オクタヴィアは目を細めて笑った。


 どうして、私は男ではないのか。

 かつて何度も浮かんだ疑問が、再び強くなる。


 ルキウスは、ガイウスへの恋情を自覚していた。

 だが同時に、今、はっきりと認識する。オクタヴィアに向けた想いもまた、恋だと。

 ルキウスの暴走は、相手がガイウスだと思っていたことだけが原因ではない。オクタヴィアを腕に抱く僥倖を得た男への、妬みもあったのだ。


 オクタヴィアに、気持ちを伝えることはできない。彼女が、同性の恋愛を嫌っていることは、誰よりも知っている。

 嫌われたくない。だから、伝えるわけにはいかない。


 けれど、もう二度と離さない。


「その子の、名前は?」

「まだなの。――あなたに、つけてほしくて」


 オクタヴィアの微笑みに、戸惑いを覚える。子どもに名前を付けるなど初めてだし、何より彼女が望んでくれるのが嬉しくもあり、辛くもあった。

 オクタヴィアの気持ちは、変わっていない。傍に居たあの時と同様、ルキウスを思いやってくれている。


 ならばきっと、やり直せる。また、一緒に時を刻める。


 同時に感じる辛さは、何の償いもできていない自分の不甲斐なさだった。

 否、これから先、できる事はあるはずだ。

 ルキウスは、改めて決意する。


「――オクタヴィア」


 子どもをじっと見つめたまま、ポツリと呟く。


「君のような娘に育ってもらいたい。だから、オクタヴィアだ」


 ローマにおいて、子どもに母や父の名を付ける事は多い。ほとんど、両親や血縁者の名を与えられる。

 ルキウスの名も、ドミティウス家にはありふれた名前だ。

 だからといって、慣習に習ったのではない。口にした通り、オクタヴィアの人柄を愛するが故だった。


 驚きの表情を浮かべていたオクタヴィアが、ふと、柔らかく笑う。

 その笑顔が、ルキウスを受け入れてくれた証に思えた。


「その子は、私の子だ。君は――皇帝の子を産んだ、唯一の皇后」


 事実ではない。けれどルキウスはそう、思い込みたかった。


 オクタヴィアが信じる神でも、違う神でもいい。

 二人の想いを認め、どこかの神が子を授けてくれた。


 ユダヤに生まれたマリアとかいう女が身籠った時、処女だったという。それがオクタヴィアの身に起こったとして、何の不思議があろう。

 清らかな乙女であるオクタヴィアの胎内を選んで、神が聖なる子を送り出したのだ。


「君が私を許してくれれば――共に歩んでくれるならば」


 白々しい。心の中で、苦笑する。

 まるでオクタヴィアに選択権があるような物言いをしているが、自分は決して彼女を離さない。たとえ拒絶されたとしても、ずっと傍に居る。


 否、きっとオクタヴィアは受け入れてくれる。拒絶などされるはずがないと信じているのだから、度し難い。


 すぐにでも頷いてくれるかと思っていたが、オクタヴィアは顔を覆った。震える肩が、泣いていることを知らせる。


 喜んで、くれているのか。それとも――嫌なのか。


 ルキウスの不安を肯定するように、オクタヴィアが頭を振った。


「――一緒には、暮らせません」


 掠れた声は、静かにルキウスを拒絶した。

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