第43話 聖母
島へ着いたのは、まだ夜も明けやらぬ頃だった。昇りつつある太陽と次第に薄くなっていく月が、空を飾っている。
夜の航海が危険なことを、誰よりも重々承知している船長は、ルキウスの頼みに思い切り顔を顰めた。
それでも船を出したのは、握らされた報酬の多さと、何より「皇帝の命令」という有無を言わせぬもののせいに他ならない。
夜通し海の上を進み、その間ルキウスは一睡もできなかった。
罪悪感だけではない。これからオクタヴィアに会えるという嬉しさが強いのだから、度し難かった。
船着き場には、人の姿は見えない。そもそも予定のない航海だ。船が来るとは、まして皇帝がやって来るなど、想定外だった。
もっとも、灯台守や、停留所には誰かいるだろう。本来であれば人を呼び、馬など用意させるのが、皇帝の立場としては適当だったかもしれない。
だが、その時間も惜しかった。
訪れたことはないにせよ、別荘を与えたのはルキウスである。場所は把握していた。
走れば、おそらく四半刻もかからない。人を呼び準備をしている間にたどり着けるのだから、どちらを選ぶかは明白だった。
けれど、たどり着いた別荘の前で立ち竦む。
いざとなったら、怖い。それも事実だ。
ただ、まだ早朝なのである。オクタヴィアも、世話をするためにつけた使用人も、まだ眠っているかもしれない。
特に、オクタヴィアは衰弱していると聞く。
ガチャリと扉が開いたのは、悩み始めてほんのわずかな時間しか経っていない頃だった。
見覚えのある顔だ。ローマから連れて行った、オクタヴィアの侍女である。
表に立つルキウスの姿に、びくりと身を竦ませた所を見ると、何者かの気配を察して出てきたという訳ではなさそうだ。桶を手にしているから、水を汲みに行くためなのかもしれない。
いずれにせよ、呼び出すまでもなく会えたことに安堵した。
「アクテ……だったか」
オクタヴィアから、美しく聡明で、自慢の侍女だと聞いたことがある。親友のことを話すような楽しげな様子に、わずかばかりの嫉妬と共にその名も覚えていた。
おそらく、不審者だとでも思っていたのだろう。身構えていたアクテは、ふと、訝しそうにルキウスを見上げて、ハッと息を飲んだ。
「陛下――?」
まさか、訪ねて来るとは思っていなかったのだろう。驚愕が顔いっぱいに広がっている。
同時に強い、嫌悪も。
当然だと思うから、咎めることもできない。オクタヴィアはアクテを信頼し、彼女の方も主を慕っている。
敬愛する女主人を窮地に陥れた人間を、歓迎できるはずはなかった。
「――オクタヴィアの容体は……?」
水汲みなどの所用を行っていることを考えれば、切迫した事態ではないのだろう。
ないのだと、思いたい。
「ご容体をお気にされているのですか? ――陛下が、ですか」
今更、善人面をするな。
言外の声が聞こえてくる。
オクタヴィアの体を心配する以外で、このような時刻に、危険を冒してまで訪れはしない。
逆上など、できる立場ではなかった。わかっているから、叫びたい衝動を堪えて、口を噤む。
むしろ、相手が皇帝であるにもかかわらずこれ程の言葉を投げつけるのは、よほど彼女がオクタヴィアに心酔している証だった。
彼女もガイウスと同じく、ルキウスを憎む権利のある人間だ。
離れている間、オクタヴィアを護ってくれていたのだから、感謝すべき相手だった。
「今更何をと言われれば、申し開きもできない。だが、嘘偽りなく、オクタヴィアの無事を祈りながらここまで来た」
信じてほしい、と口にするのはおこがましい。
けれどもし、信じてもらえなかったら――阻まれ、彼女に会うことができなかったら。
アクテの険しい顔を前に、急速に不安が膨れ上がる。
彼女がルキウスを拒絶するのは、主であるオクタヴィアの意思なのではないか。
オクタヴィアが許してくれなかったら――会いたくないと、言われたら。
「――快方に向かわれております」
深いため息と共に聞こえた声に、ルキウスも息を吐く。
使者やガイウスの話を聞く限り、かなり悪いように思っていた。回復の兆しが見えた、それだけでも安堵が広がる。
「会える、だろうか」
「きっと――お会いになりたいとおっしゃるでしょう」
けれど、と沈痛な面持ちで続けられる。
「どのようなおつもりかは存じませんが、これ以上オクタヴィア様のお心が傷つけられるのは看過できません。もし、追い打ちをかけるような真似をされるのであれば――」
「言ったはずだ、私はオクタヴィアの無事を祈っていると」
オクタヴィアの言っていた通りだ。
ルキウスの面会を拒もうとするアクテの態度に、むしろ感銘を覚える。
聡明で、思いやりある優しいアクテ。いつも味方でいてくれる、あの子のことが大好きなのと嬉しそうに笑うオクタヴィアの顔が思い出される。
「――すまない」
彼女が慕う女主人を、随分と傷つけた。
ルキウスに傷つけられたオクタヴィアに、付き従い守ってくれて。
感謝と謝罪がないまぜになり、痛んだ胸を押さえる。
「オクタヴィア様は――もう、起きていらっしゃいます」
アクテは、寂しげではあるが穏やかな微笑みを刻む。
「お嬢様が、お目覚めになられておりましたから。どうぞ……奥へ」
ああ、そうか。赤子が目を覚ませば、世話のためにオクタヴィアも起きるのか。
当然ではあるかもしれないが、そうやって起き出すことができる程度には回復している証でもある。
安堵に胸を撫で下ろし、次には動悸を覚えた。
やっと、オクタヴィアに会える。
アクテが指示した館の奥へと、足を踏み出した。
初めて訪れる別荘とはいえ、建物の構造はそう広くもなければ、複雑ではない。すぐに目的の部屋、オクタヴィアの寝室へと辿り着く。
ゆっくりと押し開けた扉の向こうに、オクタヴィアがいた。
ずっと、求めてやまなかった彼女の姿に、ルキウスはただただ立ち尽くす。
寝台に起き上がり、赤子に乳を含ませていた。やつれて顔色も悪く、髪もほつれていたが、今までにルキウスが見た中で、オクタヴィアは一番美しかった。
唇には微笑みが浮かび、眼差しからは赤子に対する愛情が溢れている。
オクタヴィアは、間違っている。思わずにはいられない。
彼女が崇める神、イエスを産んだマリアは、聖母として祀られている。もちろん、オクタヴィアもまたその聖母なるものを敬っていた。
けれど、違う。人々に崇められるべき聖母は、マリアとかいう女ではない。オクタヴィアその人こそが、相応しい。
呆然と――恍惚めいた気分で見惚れる先で、オクタヴィアはそっと、眠った赤子を横に寝かせる。
そして、枕元のナイトテーブルに置かれていた杯を手に取った。
体調を、整える薬だろうか。
眉を顰め、一瞬ためらいを見せたオクタヴィアが、覚悟を決めたように一気に呷る。
その動作で、ルキウスはようやく我に返った。
「オクタヴィア――」
なんと、声をかけていいのかわからなかった。
ただ名を呼ぶしかできなかったルキウスに、オクタヴィアはびくりと身を竦ませる。
「――ルキウス……?」
恐る恐る、といった様子だった。ゆっくりと振り返り、そこに立つルキウスの姿に愕然と目を瞠る。
しばしの沈黙の後、掠れた呟きがこぼれた。
何故ここに。
何故今更。
非難の言葉を投げつけられるのならば、甘んじて受ける覚悟だった。
けれどオクタヴィアは、ただ、小さく笑う。かつてルキウスを支えてくれていた、あの優しい微笑みだった。
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