第51話 逃避
ナポリの空は青かった。かつてオクタヴィアと訪れた、あの時と少しも変わっていない。
アグリッピナが亡くなった直後で、傷心のルキウスを慰めようとしていたのか、オクタヴィアはいつにもまして優しかった。
柔らかな笑顔で包んでくれた。
二人で過ごした日々が、頭の中を駆け巡る。穏やかな空間に浸っている時、久しぶりに幸せを感じることができた。
わかっている、ただの現実逃避に他ならないということは。
だがそうすることだけが唯一、心を慰めてくれた。
休息が欲しいとか、傷心を癒やしたいだとか、ガイウスに向けた言葉は便宜上のものだった。
しかしここに来て、実際に羽根休めの時間が必要だったのだと実感した。
地中海を渡ってきた風が、肌に心地良い。
今ここにいるのは、神でも皇帝でもない。一人の、個人としてのルキウスがいるだけだった。
かつてオクタヴィアと共に回った劇場や、競技場にも足を運ぶ。当時は見世物を見るためだったが、今は彼女の面影を辿るために。
そういえばここで、幼い頃の夢を語った。吟遊詩人になりたかったと言うと、あなたならきっと叶えられていたでしょうねと、笑顔を向けてくれた。
あまり人前で歌ったことはない。ルキウスの歌を聞いたことがあるのは、アグリッピナやオクタヴィアなど、ごく親しい者だけだった。
ふと、ここで歌ってみたい衝動に駆られた。
皇帝としては軽はずみな行動ではある。
それでもまるで過去の夢にとり憑かれたように、抑えが効かなかった。「皇帝ネロ」を一目見ようと遠巻きに集まっていた民衆に、歌声を聞かせると約束してしまった。
「皇帝ネロ」の人気は未だ衰えていない。証拠に、公布に集まった人々は予想よりもはるかに多かった。
舞台上で、大袈裟なことは何一つしなかった。竪琴弾きの衣装を纏おうかとも思ったが、さすがに皇帝の権威に傷がつくことを恐れて、やめた。
身振りなどの動作も行わなかった。ただ自ら竪琴を弾き、旋律に合わせて声を震わせただけである。
ルキウスの歌は、ナポリの市民に絶賛された。
現役のローマ皇帝の歌を聞けると、興味本位で集まったに過ぎなかっただろう民衆が、最後には心からの拍手と喝采を送ってくれた。
オクタヴィアとの日々に浸り、幼い頃の夢をほんの一時でも叶えられた気分で、ルキウスは夢見心地だった。
「陛下、ペトロニウス様からの書簡が届いております」
ナポリで名声を得て、いよいよギリシアへ渡るつもりであったルキウスの元にやって来たのは、伝令兵だった。渡された手紙に、顔を顰める。
ティゲリヌスに告発された男が、自殺を遂げた、という内容だった。
男の名は、シラヌス。
ルキウスがまだネロと名乗る前、彼の息子はオクタヴィアの夫候補だった。ただ、ルキウスがその座を奪った結果となり、悲嘆にくれて自殺してしまったと聞いている。
そう、シラヌスにはルキウスを恨む理由があった。
生前、アグリッピナは言っていた。シラヌスは不穏分子だから暗殺した方がいい、と。
ルキウスはそうしなかった。暗殺という手段を嫌ったのはもちろんのこと、息子を失い、悲しみに沈む男に、何ら恨みはない。
また、彼は遠い親戚にもあたる。その死を望むほど、残酷にはなれなかった。
ティゲリヌスの告発によると、シラヌスの犯したのは不敬罪であるという。
まるで皇帝の人気に肩を並べようとでもしているかの如く金をばらまき、自宅に皇帝のものを真似た執務室まで作っている、と。
正直に言えば、何が罪なのかわからなかった。不敬というが、ルキウスにとって気分を害するには値しない。
なのにシラヌスは、告発されたと知ると、法の裁きを待たずに自らの血管を切り開いたというのだ。
思わず、ため息が洩れる。
「仮にシラヌスの行った事が罪だったとして、その弁明がいかなるものであるにせよ、私の裁きを待っていれば死なずにすんだのに」
本心からの呟きに、伝令兵が驚きの表情を浮かべる。その反応に、苦笑がにじんだ。
――よほど私は、冷酷な皇帝との印象が定着したと見える。
「私が人を救おうとするのは、それ程に意外か?」
口をついて出た皮肉に、彼は目に見えて体を硬直させる。
「め、滅相もございません……!」
怯えた態度が、逆にルキウスの神経を逆撫でする。これが兵士全体の感情を表しているのではないかと思うと、なおのことだった。
統治初期の方針は、「慈悲と寛容」だった。
これではまるで、恐怖政治だ。
何より、書簡の最後に書かれたガイウスの言葉に、苛立ちを覚える。
――どうぞ、今すぐお戻りになりますように、と。
大した事件でもないのに、わざわざ手紙を寄越したのは、この一文を伝えたいがためだった。
ガイウスはティゲリヌスを快く思っていない。その彼の所業を利用してまで、ルキウスをローマへ引き戻そうとしているのだ。
懇願など無視して、このままギリシアへ渡ってやろうか。意地になって思いもするが、考えを改める。
目前の兵士が示す、皇帝への恐怖心がもし、兵士達だけではなくローマ市民にまで広がっていたら?
恐怖政治など長続きしないことは、歴史を見れば明らかだ。
また、それを布いた王達の末路は、いずれも悲惨なものだった。
皇帝の地位を追われる、まして殺されたりしては元も子もない。神となるよりも先に、現実の指導者としての立場を固めた方がいいのかもしれない。
覚悟を決めると、すぐに帰還を知らせる書簡をしたためた。
それを兵士に手渡しながら、ルキウスはにっこりと笑って見せる。
「それでは、ご苦労だが頼むよ」
言って、ポンと彼の肩を叩く。
驚いたような、それでも嬉しそうな顔で、伝令兵は礼を残して部屋を出て行った。
幸いにも自分は容姿に恵まれている。穏やかな様子を崩さず、寛容な態度を取り続ければ、市民や兵士達の人気を回復させることは、おそらく簡単だった。
ローマに戻ったルキウスは、市民達の熱烈な歓迎を受けた。
皇帝ネロの人気は、未だ衰えていない。
実感に、胸を撫で下ろす。
聞けば、ルキウスが不在の間、遊楽や見世物は絶えがちになっていたという。だからこそ市民達は、それらを惜しげもなく提供する皇帝ネロの帰還を、手放しで喜んだのだ。
ガイウスの仕業だな。
ひっそりと苦笑する。
政治に長けた彼のこと、市民を喜ばせる術くらいは知っているはずだ。
だがあえて、それをしなかった。自分が名声を得る代わりに、皇帝の人気を呼び起こそうとしたのだろう。
姑息な真似をしてくれる。
苦い思いと同時、目先の利益よりも帝国のためを思う政治方針に感嘆したのも事実だった。
そのような男を側近に持つからには、それ以上の資質を持って国を治めなければならない。
物欲の裏返しながら、多大な歓声で出迎えてくれる市民に、ルキウスは満面の笑顔で手を振った。
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