背徳者 ~暴君と呼ばれた皇帝~

月島 成生

第一章

第1話 即位

 天の滴が、地上を濡らす。

 疲れ切った体を臥台レクトゥスへと投げ出し、ルキウスは雨のまだ降りやまぬ窓の外を眺めていた。

 ルキウスは義父、クラウディウスのことが好きだった。

 決して聡明ではなかったが、優しく、妻の連れ子であった自分にも、溢れるほどの愛情を与えてくれた。


 その義父が亡くなった。今朝早くのことである。

 知らせを受けたとき、ルキウスは目の前が暗くなるのを感じていた。

 確かに彼は高齢の上病弱で、長く患ってはいた。昨夜、食事のときに卒倒したのも知っている。

 だが、いつものことだった。従者や母も、なんら普段と変わらぬ仕草だったので、容体がそれほどまでに悪いとは思ってもみなかった。

 なのに、朝目覚めてすぐに悲報を知らされたのだ。驚かないはずもない。

 それからはただ慌ただしくて、悲しむ時間すら与えられなかった。


 義父――ローマの四代皇帝、クラウディウスの後継者となっているルキウスには。


 慣例により、兵営で宣誓をし、元老院へと挨拶に訪れた。

 近衛兵たちに向けての演説は、苦痛ではなかった。突然のことで即興に近くはあったが、自らの弁論術には自信があったからだ。

 ルキウスを疲れさせたのは、それに続いた元老院訪問だった。議員たちはルキウスに、度外れとしか思えない数々の栄誉を与えたのだ。


 けれど知っている。これはルキウス個人に与えられたものではなく、皇帝という位に捧げられたに過ぎないことを。

 証拠に、成人はしているものの限りなく子どもに近い十七歳のルキウスに、国父――ローマにおいて、もっとも栄誉ある称号すら与えようとしたのだ。

 さすがにこれには驚くというよりも呆れ、年齢を理由に断ったのではあるが。


 これが政治。皇帝という仕事。


 自らに課せられた使命の苦痛を思うと、辟易せざるを得なかった。


 昨夜から降り続く雨は、止む気配もない。まるで心を映す鏡だと、詮無いことを考えたりもする。

 否、天もクラウディウスの死を悲しんでいるのではないか。そう思うほどには、寂しさを覚えている。

 それでも、不思議と涙は出てこなかった。忙しさのあまり、感覚が麻痺でも起こしたのかもしれない。


 考えて、そっと頭を振った。

 おそらく、そうではあるまい。思い出すのは、実父、ドミティウスが亡くなったときのことだった。

 そのときルキウスはまだ三歳で、父との思い出も、死という概念も持っていなかった。

 ただ、亡くなったと知らされたときのことは、今でもよく覚えている。


 笑っていたのだ。

 父の妻たる母、アグリッピナが嬉しそうに。

 厳粛で、いつも厳しい顔をしていた母が、まるで祝い事のように笑い、事実、祝杯まで挙げていたのだ。

 だから幼心に、死というものはめでたいことなのだと、勘違いすらしていた。


 そう、人の死に涙するという感覚が、自分にはないのだ。

 小さく苦笑する。嫌だと思いながらも、やはり自分の中にはあの母の血が流れているのだ。


 若い頃から母は、権力欲に燃えていたと聞く。

 けれど、女は皇帝にはなれない。だからこそそれに次ぐ地位――皇帝の妻か母になることを望んだ。

 ルキウスは生を受けた、その瞬間から母の駒に過ぎなかったのだ。


 クラウディウスは、アグリッピナにとっては伯父にあたる。妻を亡くしたばかりの彼の元へ、姪であることを口実に足しげく通い、ついにはその心を射止めてしまった。

 実際、子供のルキウスから見ても、彼女は美しかった。大輪の華のような艶やかさに目を奪われる男は、少なくないだろう。

 かくしてアグリッピナは、念願の皇后の地位に納まった。

 だが、彼女の野望はそれだけにはとどまらなかった。最終的な望みは、皇帝の母になることなのだから。


 手始めに、正式な手続きを踏んで、ルキウスをクラウディウス帝の養子とした。実子、ブリタニクスがいるのだから、そのような必要はどこにもなかったというのに。

 また、その上でルキウスとオクタヴィア――クラウディウス帝の娘とを、結婚させた。

 ルキウス十五歳、オクタヴィア十三歳のときである。

 二人とも若すぎる年齢だった。それを強引に進めたのは、ルキウスを第一皇位継承者とするためだ。


 アグリッピナの努力を、ルキウスは冷めた目で見ていた。いくら彼女が画策しても、ルキウスが皇帝になる可能性は限りなく低い。

 四つ年下のブリタニクスも、そろそろ元服を迎える。そうなれば自動的に、彼が第一皇位継承者になるはずだ。


 ――あと、ほんの数カ月待ってくれさえすれば、ルキウスは皇帝にならずにすんだのに。


 これでまたしばらくは、アグリッピナの駒となって動くしかない。義父の死よりもそのことが悲しい自分は、やはりどこかおかしいのだろう。

 重苦しい気分を隠せず、ルキウスはため息を吐き出した。

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