第35話 哀願

 屈辱だった。

 ガイウスの行動原理は、自分のためではない、オクタヴィアのためなのだ。思い知らされた気分で、口の端に皮肉が閃く。


「ガイウスは私の言葉には従えずとも、君の言うことは聞くらしい」

「そんな……!」


 反論を遮るのは、言葉ではなく行動だった。ルキウスは、抱えていた花束をオクタヴィアに押しつける。

 投げつける、と言っても過言ではないほど、乱暴な動作だった。


「――誰の子だ」


 短い、それだけに直接的な問いかけだった。

 目に見えて、オクタヴィアの体がビクンと竦む。


 いけない。落ち着かなくては。


 怯える瞳を前に、自らに言い聞かせる。

 確かに、彼女の行為は裏切りだった。傍にいてほしいとルキウスに懇願しながら、他に好きな男を作り、あまつさえ子まで孕んだのだ。


 それも、ルキウスが想いを寄せた男性に。


 もっとも、考えてみれば不自然ではなかった。彼らはルキウスの妻や友人である前に、ただの男女なのだから。

 そもそも、精神的な裏切りはルキウスの方が先だった。ガイウスだけではなく、思い返してみればオトに向けても似た感情を覚えていた気がする。

 その間オクタヴィアはいつも、ルキウスを一番に考えてくれていた。

 また、妻というのは偽りでも、彼女が大切な妹だということに違いはない。


 大切に思う二人の幸せを祝福したい気持ちも、ルキウスの中には確かに存在していた。


 もっと、優しくしてあげなければ。

 可哀想に、あんなに震えているではないか、私の可愛いオクタヴィアが。


 一つ深呼吸をして、無理に笑みを刻んで見せる。


「大丈夫。怒ったりはしない。だから、言ってくれ」


 オクタヴィアは一瞬だけ目を上げ、すぐに床へと視線を落とす。


「――私の、子どもです」


 ポツンと、呟く。


「それは――もちろん、わかっている。だが、子どもは一人では作れない。相手の男が必要だ」


 だから、教えて欲しい。

 なるべく、きつい物言いをしないように気を付けた。それでも事実を聞き出さなければならないことに、変わりはない。


 たとえ、男の名は予測できていたとしても。


 黙りこむオクタヴィアを少しでも安心させようと、柔らかな語調を心掛ける。笑みを意識的に深めて見せた。


「大丈夫だよ、オクタヴィア。私に任せてくれ。決して悪いようにはしない。信じてくれ。私は君の幸せを、心から願っているのだから」


 それは、紛れもない真実だった。

 実際、オクタヴィアの口からガイウスの名が出たとしても、彼女に辛く当たるつもりはない。

 生まれる子どもは、自分の子として認知するつもりだった。

 また、二人がこれからも会うのであれば、手引きすらしてやってもいいと思っている。


 オクタヴィアが男の名を言いさえすれば――全てをさらけ出し、甘えてくれれば。


 ――しかし。


「私の、子です」


 か細い声ながら、オクタヴィアははっきりと言った。


 自分の顔から、笑みが引いていくのを感じる。

 彼女にとってルキウスは、もう信頼にも値しない人間なのだろうか。

 ズキリと、胸の奥が痛む。


 血を吐く思いの覚悟を、あっさりと踏みにじられた。

 悲しみが、憎しみを生み出そうとしている。わかっているのに、止めることは難しかった。


 ルキウスとて、知っている。オクタヴィアは決して、そのようなつもりではない。罪悪感が、口を閉じさせているのだ。

 だが、良心と理性を嘲笑うように、悪意が耳元で囁きかけてくる。


 オクタヴィアは裏切者だと。ルキウス、お前などより、ガイウスを愛しているのだと。

 ガイウスにまで危害が加えられることを恐れ、口を閉ざしているのだ。お前など、信用できないと言っているのがまだわからないのか。


 親殺しの犯罪者の言葉など、信じられるものか。


「どうしても、言わないつもりか」


 お願いだから、全てを打ち明けてほしい。

 この悪意を払うことができるのは、オクタヴィアだけだ。

 私がそれに飲み込まれる前に、お願いだ、助けてくれ――


 心の中で、懇願を繰り返す。なのに、口には出せなかった。

 縋りつけば、優しいオクタヴィアのことだから答えてくれるかもしれない。

 けれど、縋ってもなお答えてくれなかったら?

 不安が、見えない拳となって胸を強く叩く。


 オクタヴィアはもう、顔を上げなかった。ルキウスの視線を痛いほどに感じているはずなのに、ただ俯き、黙っている。


 ――これが、彼女の答え。


「わかった。好きにしろ」


 吐き捨てるのと同時、オクタヴィアに背を向ける。


「君がそのつもりなら、私にも考えがある」


 発したのは、脅し文句だった。

 「冷徹なる皇帝」ネロならば、何をするかわからない――恐怖からでもいい、追ってきてほしかった。


 立ち去りかけ、ふと足を止めて様子を探る。

 ――彼女はその場にとどまったまま、動く気配もなかった。


 わずかな希望も消え失せて、ルキウスは絶望を抱いたまま足早に部屋を後にした。




「――主よ」


 これで、よかったのでしょうか。

 答えてはくれぬ神に、祈りを捧げる。


 決して、救ってくれることはない、神。

 その一人子であるイエス――クリストゥスでさえも、人類のための犠牲とした、主。


 あなたが、私などを救ってくれるはずがない。わかっているから、祈りの中に救いを求める気持ちはなかった。


 もし本当のことを話していたら――ルキウスは、どうしていただろう。


 怒り狂う姿が、容易に想像できた。

 ルキウスはきっと、許さない。オクタヴィアがどれだけ懇願しようとも、冷静にはなれないはずだ。

 だから決して、話すことはできない。――オクタヴィアも、知られたくなかった。


 私は、地獄に落ちるのかもしれない。


 ふと、思う。

 けれど、それであの人が守られるのならば、構わない。


 そっと閉じた目からこぼれる涙を、拭うことさえできなかった。

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