第4話 秘策

 ルキウスの訪問は、突然だった。

 いくら義兄とはいえ、皇帝がなんの前触れもなく私室へと訪ねてきたのだ。驚かないはずもない。

 戸惑いながらも、礼を失するわけにもいかず、ブリタニクスはルキウスを部屋に招き入れた。

 案内した椅子に腰を下ろし、差し出した杯には警戒も見せずに口をつける。


 お疲れになっているのだろうか。


 ルキウスの様子に、ふと心配がよぎる。

 聡明とはいえ、十七歳の少年が背負うには、ローマという国は大きすぎる。

 しかも、即位すぐに起きたアルメニア戦争のこともあった。心労はいかばかりであろうか。


 そう、政治的な陰謀や大人たちがどうあれ、二人は幼い頃から仲のいい友人であった。心配せずにいられるわけがない。


「――どうか、されましたか?」


 椅子に腰かけながら問いかけるブリタニクスに、ルキウスは口の端をつり上げて見せた。


「どうしたのか、わからないか?」


 返答には、苦笑せざるを得なかった。

 元老院での動きは、ブリタニクスの耳にも入っていた。ふと、ため息が洩れる。


「どうして、僕を皇帝にしようだなんて思う人がいるのでしょう」

「どうして、とは……決まっている。君は義父上ちちうえの実子だ。順当な流れで行けば、君が帝位を継ぐのは当然だろう」

「そう、その考えが僕には理解できない」


 この人まで、そのようなことを言うのか。

 深く嘆息しながら、かぶりを振った。


「今、現在、誰よりも皇帝の名に相応しい人が帝位にいる。なぜそれに気付かないのでしょう」


 確かに、血筋や家柄をみれば、ルキウスの言った通りだ。

 だが本当に、それだけで物事を決めてしまっていいのか。その基準で選ばれた、先々帝、カリグラのことが頭をよぎる。

 自分は決して、あのような暴君ではない。それでも、ルキウスと比べれば見劣りするのは必然だった。

 愕然とブリタニクスを見つめてくる瞳に、まっすぐ視線を注ぐ。


「市民の声をお聞きになったことがないのですか。アポロンなるネロ、アウグストゥスの再来――もし僕が帝位に就いたとしても、これほどの歓呼を持って迎えられることはないでしょう。義兄上あにうえには僕にないもの、民を惹きつける魅力があります」

「ブリタニクス――」


 まるで、信じられないものを見るような目だった。唖然と名を呟き、そのまま黙りこむ。

 微かに俯いた表情には、安堵が見えた。

 アルメニア戦争のことだけではなく、ブリタニクスの問題も、ルキウスにとっては重荷だったのだろう。そう考えると、申し訳なさが浮かぶ。

 ルキウスがいる以上、ブリタニクスに帝位を継ぐつもりは皆無だった。先ほどの発言で、ルキウスもブリタニクスの気持ちをわかってくれた。

 あとは、ブリタニクスが周囲を説得できれば、問題は解決するはずだ。


 ありがとう。

 小さく呟いたルキウスの唇に、微笑みが滲む。


「君の気持ちは、嬉しい。だが、私の即位が不当なものであることは事実。正当なる権利を持つ君こそが、皇帝に相応しいと私は考えている」

「義兄上――!」

「否、私が退位するという意味ではないのだ」


 帝位を退き、ブリタニクスに譲る――そうとしか受け取れなかった。

 だからこそ上げた悲鳴じみた声を、ルキウスは微苦笑で否定した。


「私は退位しない。その上で、君にも皇帝になってほしいと思っている」


 発せられた言葉の意味を、一瞬理解できなかった。

 皇帝は、一人だ。ルキウスも、ブリタニクスも、などということはあり得ない。


 ――少なくとも、今までは。


 ルキウスが意図することを悟ると、愕然と呟く。


「まさか――共同統治……?」


 掠れた声に、ルキウスは場違いなほど明るい笑顔で頷いた。


「無茶です!」


 即座に叫び返す。

 共和制のときであればいざ知らず、その前の王政、そして今の帝政において、二人の指導者が並び立った前例などなかった。

 なにより、今の政治体制では無理が出てくる。加えて、元老院はもとより市民たちの反対も、充分に考えられた。

 聡明なルキウスが、気づかないはずもないのに。


「これならば、後継者問題は解決する」

「しかし、新たな、もっと厄介な問題も生まれます」

「それとて解決してみせる。君と、私の二人で」


 宣言は、不敵とさえ見える笑みの元で行われた。

 ブリタニクスは、ルキウスを尊敬していた。明晰な頭脳はもとより、人前での堂々とした、王者たる態度にこそ憧れていた。

 まして、もって生まれた美貌には、羨望を抱くことすら虚しくなる。


 すらりとした痩身、ゆるく波打つ栗色の髪を編み込み、肩に垂らしているその姿は、彫りの深い端正な顔立ちのせいもありまるでギリシア彫刻のようだった。

 男の長髪は珍しいばかりか、あまり好まれたものではないのだけれど、この美貌にはよく似合っている。さらに神秘的な様を醸し出していた。

 だから、ルキウスがアポロンなるネロと称えられるのも納得できるし、その即位がたとえ不当であっても不満になど感じたことはなかった。


 なのに、まさかブリタニクスの権利を守ろうと――皇帝にまで押し立ててくれようとするとは。


 ルキウスはあまりにも美しすぎる顔立ちのせいで、どこか冷たい印象が否めない。もちろん友人として信頼に足る人物であることは知っていたが、まさかこれほどまでとは。

 信じられない提案に、驚きと、それよりももっと強い感動を隠しきれなかった。


「承知してくれるな」


 有無を言わせぬ笑顔につられて、ブリタニクスも白い歯を見せる。そして、右手を差し出した。

 ルキウスが、その手を握り返す。

 ブリタニクスよりも、四つ年上のルキウス。身長も彼の方が高いのに、手はブリタニクスの方が大きかった。

 白く、細い指。意外にも華奢なところを見つけて、微笑ましく思う。

 ずっと、年長者として支えてくれた。けれどこれからは、自分が彼を支えることもあるだろう。


 ――そう、なりたい。


 交わした固い握手は、ルキウスの提案を承諾するためだけのものではなく、二人の絆をより、強くするものだった。ブリタニクスは、身に余るほどの幸福を噛みしめる。



 ――まさかその翌日、毒薬によってその命を落とすことになるとは、夢にも思っていなかった。

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