第30話 決別
とうとう、この日がやってきた。
書簡を送ってから十日――そう、たった十日しか猶予を与えなかった――オトがルシタニアへと旅立つ日が、だ。
本音を言えば、見送りになど来たくはなかった。自分が行った所業が非情なことは、誰よりも承知している。
オトの顔を、見るのが辛かった。
もっとも、そうは言っていられない。オトは、皇帝の勅命でルシタニアへと行くのだ。令を発した自分が、見送りにも行かないなど許されないだろう。
否、それでもやはり、どこかで会いたいと思っていたのかもしれない。
長年付き合ってきた親友として――おそらくはもう二度と会うこともないだろう、オトに。
「――これがお前なりの恩返しってわけだ」
対峙し、重苦しい沈黙を打ち破ったのは、オトだった。
皮肉な笑みに口元を歪め、眉間には深いしわが刻まれている。
「おれが言った言葉を覚えているか? いつでも、どのような時でも、おれはお前の味方だと」
なのに、お前は裏切った。
続けられるはずの恨み節は、正当なものだった。正面から受け止める義務があるのは勿論わかっているが、どうしても顔を上げることができない。
意外なのは、オトの声が静かなことだった。気が短い彼のこと、怒鳴りつけてくるものだと思っていた。
むしろ、書簡の内容を不服として、執務室に怒鳴りこんで来て然るべき状況だった。
結果的には杞憂に終わり、今もまた、こうして不気味な静けさを保っている。
「その気持ちは、今でも変わっていない」
頭上に降ってきた声は、想像もしていないものだった。ハッと目を上げる。
目の前に、これ以上はないというほど真剣なオトの顔があった。
真摯な瞳が、揺れている。物悲しさが漂う表情に、胸が痛くなる。
オトにこのような顔をさせているのは、他ならぬ自分だった。
「――だからこその、温情だろう?」
温情?
薄情の間違いではないのか。
愕然と見やる先で、オトが自嘲めいた笑みを刻む。
「でなければ、死罪となって当然だからな」
続けられたのは、さらに不思議な言葉だった。
ルキウスが、オトを罰するというのか。
その理由は?
思い当たるのは、アグリッピナ殺害の件だけだ。オトが犯した明らかな犯罪行為といえば、それくらいなのだから。
だが、それはルキウスが主犯の計画である。罪に問うはずもない。
「まさか――知らないのか」
オトが言う「死罪に匹敵する罪」がわからず、必死で頭を巡らせていたのだが思いつかない。
首を傾げるルキウスに、オトが愕然とした調子で呟いた。
「私が、何を――」
「いや……」
知らないというのか。問いかけは、苦みの強い笑みに遮られる。
苦しそうな、表情だった。――泣き出しそうな、と言っても、語弊はないほどに。
初めて見るオトの表情に、胸騒ぎが起きる。嫌な予感とでも言えばいいのか。
「
一体何の事だと質問を重ねるよりも、オトが跪く方が早かった。
ルキウスに近付いた、初対面の時以来の呼び方だった。
あの時は、取り入るために品行方正を演じていた。
では、今は?
親友として、もう何年も付き合ってきたというのに、あえて他人行儀に振る舞う意味とは。
胸が、ぎりぎりとしめつけられる。
「陛下の健やかなる日々を、遠くルシタニアの地より心からお祈り致します」
張り上げる声は、歌うように朗々と響く。
こうやって見ると、オトは本当に見栄えのする男だった。ルキウスの手を取り、口付ける姿は、まるで絵画だ。
集まった民衆には、どのように見えるだろうか。
親友を裏切った、冷酷な皇帝。
悪辣な人物との評判を覆す、礼儀正しく美しい臣下。
いずれ、「皇帝ネロ」の評価を上げることは、決してない。
否、民衆の目だけではない。
罪を共にし、心を許した親友たる男との別れが、礼式に則った心ないものである事こそが、悲しかった。
このような思いを植え付けるために、あえてこう演出したのか。
――これが、恩を仇で返したルキウスへの、報復。
寂寥感に心を痛めながらも、形式には形式を返さなければならない。
ルキウスは笑みを刻み、鷹揚を装って頷いて見せた。
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