第2章 内裏での出会いたち

第5話 三砂

 澪との対面からしばらく、糸季は彼と顔を合わせることがなかった。それもそのはず、糸季自身が内裏での立ち居振る舞いを学ぶことに忙しくしていたのだ。

 師匠となったのは、初日から糸季を世話してくれている三砂みさご。三十路を過ぎた頃合いだという彼女のもと、糸季は毎日のように勉学や雅楽、舞の稽古に勤しんでいた。


「……はい、ここで手を返します」

「はい」

「指先まで意識を向け、美しい所作を」

「はい」

「……うん。始めた頃よりは、形になってきましたね。よくやっていますよ」

「ありがとうございます、三砂様」


 朝の歴史、昼の舞。夜にも講義があり、なかなか休まらない。それでも何とか糸季が踏み留まることが出来たのは、澪にもう一度会いたいと思っていたからだろうか。


(殿下、何処におられますか?)


 内裏は、糸季の知る春宮の邸の何倍も何十倍も広い。一日の大半を内裏ですべきことに割く糸季には、澪を捜し話をする時を取ることは難しかった。

 その分、三砂が澪のことを教えてくれる。彼女は、澪の傍で仕えていた女房なのだという。


「殿下は、少々人との距離の詰め方が不得手でして。性格もあり、なかなか人と打ち解けることが出来ません」

「三砂様は、殿下を大切に思い見守っておられるのですね」


 何日も共に過ごす内、糸季は少しずつ三砂と距離を縮めて来た。その中で徐々に三砂は、糸季に澪のことを教えてくれるようになっていた。


(この方は、本当に殿下のことを大切に思っておられるのね。仕事だからではなく、まるで弟のように)


 最初、三砂は澪にとって味方なのかよくわからなかった。糸季に澪のことを語る時、何処か気もそぞろで周囲を気にするように歯切れ悪く話していたから。

 しかし今、三砂は糸季に対して嬉しそうに澪のことを語る。その変化に驚きつつも指摘すると、三砂は照れくさそうに微笑んだ。


「殿下とは、殿下が幼い頃より存じておりますから。もしも春宮の姫様が一の皇子様側の人ならば、下手に殿下をお褒めすることは出来ません。貴女のところまで一の皇子様の手が伸びているとは考えにくかったのですが、念には念を、と左大臣様に言われていましたから」

「わたしのところまで? ……あの、一の皇子様と二の皇子様は仲が良くないのですか?」

「悪いとか良いとかではありません。……姫様は、殿下が何故帝や一の皇子様に遠ざけられているかご存知ですか?」

「雨神様の件、ですか? それでしたら、この前殿下にお会いした時に伺いました。そっくりだ、と言われたと」

「ええ、その通りです。それは尾ひれがついて未だ宮中にはびこり、殿下を苦しめています。……ご自分を有利にするため、一の皇子様は弟君の噂を利用しておられます。帝のまた、長子の一の皇子様を後継にと望んでおられますから」


 父である帝、兄である一の皇子、そして彼らを支持する人々の手によって、澪は押し退けられ続けて来た。数少ない三砂や左大臣にはある程度心を開いているが、それ以外には完全に心を閉じている。それが悔しい、と三砂は肩を竦めた。


「ですから、貴女様は我々の希望なのです。どうか……どうか、二の皇子様の心を解きほぐして下さい。貴女ならば……いえ、貴女にしか出来ないことです」

「どうしてそこまで……」


 糸季は、自分にかけられた期待の大きさに戸惑いを覚えていた。都に来るまで、澪とは会ったこともないはずだ。それなのに、何かが引っかかる。

 どうして自分にそれほど期待をかけるのか。何か忘れていることがあるのか。糸季は訊きたくて口を開いたが、三砂に人差し指で唇を押さえられてしまった。


「内緒、です。いつか、ご自身で思い出すかもしれません。もしくは、殿下にお聞き下さいませ」

「……わかりました。まずは、殿下のお傍にいられるように学んで身につけなければなりませんね」

「無理は禁物ですが、その通りです」


 その後も、夕刻まで三砂による都講座は続いた。勢いづいた三砂について行くのが精一杯だった糸季だが、借りた書籍を腕に抱えつつ渡殿を歩く。書籍は天叶国の歴史や文化等、多岐に渡る内容が書き込まれたもので、一度読むだけで理解しするのは難しい内容だった。

 糸季は本を抱え直して自分の部屋へと移動する。彼女の部屋にと与えられたつぼねは、内裏の端の方にある。静かで庭を眺められる場所で、糸季は気に入っていた。


「さて、復習しなきゃ。まずは……」


 手始めに、手近にあった本を一冊手に取る。紙は貴重品だが、流石は国の中央ということで、裏紙だがたくさん使うことが可能だ。表に書かれた文字や内容も、糸季にとっては学びになる。


「……あ」


 しばし集中して復習していた糸季は、周囲が暗くより静かになっていることに気付く。いつの間にか、深夜になっていたらしい。


(もう寝ないと。明日もあるんだから)


 本を閉じて片付け、寝るための支度を済ませる。それから何となく、誰もいないであろう庭を眺めてから寝ようかと思い立った。


「少しだけ。……うん、気持ちが良い」


 夜風が頬を撫で、糸季は渡殿の端に腰を下ろした。明かりのない夜は、月や星の光だけが頼りになる。暗闇から聞こえる草木のさざめきや虫の声に耳を澄ませ、糸季はその場に留まった。


「……うん、そろそろ戻」

「見ない顔だな。何者だ」

「――っ」


 暗闇からの誰何に、糸季は思わず言葉を呑み込み固まった。

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