第12話 物の怪の仕業か

 三砂は、所謂古参の女房の一人だ。一の皇子と二の皇子がまだ幼い頃、父親の勧めで代理に仕え始めて十年になろうとしているという。


「だからか、皆、私を無下には致しません」


 二の皇子付きのたった一人の女房に選ばれたのが三砂でなければ、もしかしたら二の皇子はもう少し危うかったかもしれない。そう思われるくらいには、三砂は女房たちの信頼を得ていた。


「歌会の日、私の知り合いがその場におりました。彼女は裏方として働いていたのですが、舟遊びが始まる前から、何か嫌な気配を感じていたと言います」

「……嫌な気配、ですか?」


 糸季が身を乗り出すと、三砂は「はい」と頷く。


「何でも、彼女は『物の怪がいる』と思ったと」

「物の怪……。この世のものではない何か、でしょうか」

「陰陽師等、不可思議な力を使う者はいますから。しかしその場に、陰陽師の力を持つ者はいなかったはずですが」


 そして、と三砂は続ける。その女房が「きっと気のせいだ」と自分に言い聞かせていたところで、事は起こった。


「突然水が噴き上がり、驚く人々の間から一の皇子様に狙いを定めました。そして水は細い紐のようになって、皇子様の腕を絡め取ると水の中へと引きずり込んだのです」


 見張りの武士やその場にいた男たちが力を合わせて雫を助け出したが、彼は気を失っていたという。


「その後、居合わせた右大臣様が指揮して一の皇子様はその場を離れました。歌会はそこでお開きとなり、帝により緘口令が敷かれたそうです」

「……だから、全く事件の全貌が噂にもならなかったのですね」

「その場にいた誰もが、物の怪が次は我が身を襲うのではと怯えたせいもあるでしょう」


 三砂の言葉に、糸季は「そうですね」と首肯した。突然現実味のないことが目の前で起こったら、しかもその出来事によって誰かが危険な目にあったら、誰でも恐ろしいと思い口に出すのをはばかるだろう。

 それにしても、と糸季は思った。緘口令が敷かれていたのなら、その女房も三砂に話すべきではなかったのではないかと。それを糸季が口にすると、三砂は肩を竦めて微笑んだ。


「ちょっとした弱みを知っていたもので。誰にも言わないからと約束をして、教えてもらったのです。ですから、姫様も内密に」

「……はい」


 糸季は余計なことを口にせず、返事をするに留めた。すると、三砂が「忘れるところでした」と手を打つ。


「忘れるところでした。この話、実はとある方もご存知です。その方が、姫様と話をしたいとおっしゃっているそうです」

「わたしと、ですか?」


 一体誰が。少し考えてみたが、わざわざ三砂を介して伝えてくる相手がわからない。糸季が難しい顔をしていると、三砂はちょいちょいと糸季を手招いた。


「耳をお借りしますね」

「はい」

「……姫様と話したいとおっしゃっておられるのは、一の皇子様です。お声が出るようになられたようですね」

「……え?」


 思いがけない名前を聞き、糸季は固まった。しかしすぐに気を取り直し、三砂に「どうしてわたしと?」と尋ねてみる。すると三砂は、ふるふると首を横に振った。


「それはわかりません。私もこのお話を聞いたのは、一の皇子様の使いだという方からでしたから」

「その使いは、信じて良いのですか?」

「都にて地位を持つ方でしたから、問題はないかと」


 聞けば一の皇子の使いを名乗ったのは、蔵人所くろうどどころにて勤める青年貴族だという。彼は年の近さから、一の皇子と懇意らしい。

 三砂が大丈夫と言うのなら。糸季はそう決意して、三砂の顔を真っ直ぐに見た。


「会います、一の皇子様に。ご本人にしかわからないこともあると思うので」

「承知致しました。あちらは夕刻にということでしたので、その時にまたお声がけ致しますね」

「お願いします」


 夕刻というと、まだ時がある。糸季は机に向かい筆を持ち、これまでわかったことなどを紙にまとめる作業に没頭した。


 ☆☆☆


 糸季が筆を取っていたのと同じ頃、西に傾きつつある日をとある邸から見つめる青年がいた。都の中でも内裏に近い一等地に建つ左大臣の邸に身を寄せる彼は、邸の主の帰宅を知って顔を上げる。


「お帰り、左大臣」

「ただいま戻りました、澪殿下。お体の具合は如何でしょうか?」

「大事ない。……それで」

「糸季姫も変わらず、元気でした。貴方のことはずっと案じておりましたよ」

「……なら、良い。左大臣、俺がここにいれば、糸季に危険が及ぶ可能性は十分にあるのではないか? 俺自身は無力だが、彼女を守る盾になることくらいは出来……」

「なりません」


 ピシャリと撥ね付け、和史は息をつく。

 確かに澪が内裏に戻れば、雫を殺そうとした誰かの思うつぼだろう。しかし同時に、澪がいれば糸季に危害を加えられる危険性は少なくなる。それでも「その場合」と和史は付け加えた。


「――糸季姫は貴方を案じ、動こうとするでしょう。彼女は優しいですから。そうは思いませんか?」

「思う。……結局、どうすれば良いのかわからないんだ」


 澪が頭を抱え、和史も「そうですね」と同意した。


「ですが、糸季姫は問題解決のために調べているようです。私も犯人捜しを続けておりますので、少しでもご安心下さい。貴方はまず、何とかしなければ」

「……ありがとう。その通りだな」


 和史の言葉を受けて澪は眉を寄せ、左手で右腕を掴んだ。

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