第6話 夜風を纏う人

 暗闇の中糸季に誰何した誰かは、その凛とした声色から年若い男であることはわかる。糸季は気圧されるまま、ゆっくりと口を開いた。こんな夜更けに、しかし内裏にいる者はそう多くない。


「わ、わたくしは糸季と申します」

「『しき』? ……成る程、あいつのもとへ来た女というのはお前か」

「あいつ……?」


 二の皇子である澪を「あいつ」と呼ぶ者は、数えるほどしかいないだろう。その中の一人を思い付き、糸季はごくんと唾を飲み込んだ。


「もしかして、貴方は……」

「ようやく気付いたか。私は一の皇子、しずく

「一の皇子様。どうして、ここにいらっしゃったのですか?」


 糸季は、暗闇に慣れて来た目が映す雫を見つめて尋ねた。

 確かに面差しが何となく澪に似ている気がするが、彼よりも華やかな印象を受ける。流石は帝の長子である貴公子だと糸季は思ったが、輝くような雫の容貌にはどうしてか全く惹かれなかった。

 雫も糸季が他の姫君と違うことに気付いたのか、わずかに眉をひそめる。しかし口には出さず、糸季の問いに答えた。


「少し、眠れなかったのだ。久し振りに真夜中の庭でも散歩しようかと思い立ち、ぼんやりと歩いていたらここまで来ていた。驚かせてすまなかった」

「いえっ。わたくしも、お邪魔をしてしまいました」


 これ以上、雫の散歩を邪魔してはいけない。そう考えた糸季が自分の局に下がろうとすると、彼女を呼び止める「待て」という声が雫から発せられた。


「折角だ。少し付き合え」

「……と申されますと?」

「話し相手が欲しかった。お前もどうせ、眠れなかったのだろう?」

「……わかりました」


 渡殿の縁に腰を下ろした雫が、糸季を手招く。糸季は人一人分の距離を空け、腰を落ち着けた。もっとこちらに来ても良いのだぞ、と雫が笑う。


「いえ。……一応、わたくしは弟君の正室候補なのですが」

「弟、ね。例えそうだったとしても、私は次代の帝となる男だ。乗り換える相手としては、これ以上ないのではないか?」

「乗り換えるって……」


 自信満々に己を推す雫に、糸季は若干引いた。見目麗しく聡明、そして次代の帝となる皇太子の地位にあるということが、彼の絶対的自信なのだろう。


(確かに、こんな整った顔の人は見たことない。だけど……)


 相手は皇太子だ、緊張はする。しかし、それ以上の感情は湧かない。それが答えだと糸季は思い、首を横に振った。


「残念ながら、わたくしは貴方の思う姫君とは違うと思って頂いた方が良いと思います。それに、簡単に乗り換えるとか、そういう話は出来ません」

「ふぅん……。面白いな、お前」


 ニヤリと笑い、雫はそれ以上糸季を隣にと呼ばなかった。その代わり、本当に話し相手をさせる。


「……と右大臣は言うのだが、左大臣とは意見が合わず……」

「右大臣様は存じ上げませんが、左大臣様はきっと……」

「この前帝と共に行幸した際……」


 雫は、糸季の知らない上流世界の話をする。政や祈りに関する出来事の数々を聞き、糸季はこの場所の特異性を再認識した。改めて、中央と地方の様々な違いを知る。


「……そういえば、お前は春宮から来たと聞いた。以前、幼い頃に帝と共に数日過ごしたことがある」

「そうなのですか? では、田舎過ぎて驚かれたでしょう」


 思いがけないところに繋がりを見付け、糸季はくすくすと笑った。今も辺境の地で、都から人が来ることは稀。それが何年も前となれば、印象は更に何もない印象が強かったのではないだろうか。

 雫は「確かに何もなかったと記憶しているが」と肩を竦め、言葉を続けた。


「領主夫妻は良くしてくれたと記憶している。民も皆穏やかで、都の様々な賑やかさとは別の心地良さがあった」

「幼い皇子様にそう思って頂けたなら、皆喜びましょう」


 良い思い出になっているのならば、よかった。糸季はほっと胸を撫で下ろし、しばし春宮のことについて問われるがままに語った。

 それからまた時が経ち、雫が不意に立ち上がる。


「そろそろ戻ろう。戻っていないことに気付かれると面倒だからな」

「そうですね。深夜ですから、お気を付けて」

「……糸季」

「はい?」


 首を傾げた糸季の長い髪を一房すくい、雫は指の間を通して流す。きょとんとしている糸季に、意味深な笑みを向けた。


「お前、面白い。また機会があれば、声をかけてやろう」

「ご遠慮申し上げても宜しいですか……?」

「わかっている。たわむれだ、気にするな」

「……はい」


 この皇子に隙を見せてはいけない。糸季はそう思いつつ、暗闇に消えた雫の影を何となく追っていた。

 それからふぅと息を吐き、緊張していた体を伸ばして局に戻る。早く寝なければ、明日が辛いのは自分だ。糸季は茵に横になり、目を閉じた。


(早く、早く澪殿下の傍で支えられるようにならないと。……でも、どうして)


 どうしてわたしは、こんなにも必死なのだろう。

 義務であるから都に来て、役割を果たすために勉学や舞などに励む。それは貴族と呼ばれる身分に一応は生まれた糸季にとって、しなければならないことだ。しかし今、それだけなのかと自分に問う。


「……」


 つらつらと考えを巡らせていたが、糸季は急速に眠りの世界へと引きずり込まれた。

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