第7話 悪気のない悪意
一の皇子、雫と夜中に出会ってから数日後のこと。三砂の使いで内裏の中を歩いていた糸季は、曲がり角で誰かとぶつかった。糸季はぶつかった勢いのまましりもちをついてしまい、思わず小さな悲鳴を上げる。
「きゃっ」
「す、すまない。だいじょ……」
「こちらこそ、申し訳ございません。お怪我など……あ」
差し伸べられた手に自分の手を重ね顔を上げた時、糸季は自分が誰とぶつかったのかようやく知った。目を丸くし、彼の顔をまじまじと見てしまう。相手の身分を考えると、顔をじっくりと見るなど不敬だと言われてもおかしくないのだが。
「で、殿下……?」
「し……春宮の姫、怪我は?」
「だ、大丈夫です。痛みはありません」
「そうか。なら、いい」
ほっと少しだけ肩の力を抜いた澪だが、以前糸季と話をした時よりも緊張感をはらんでいる。どうしてかと考えた糸季は、そうかと思い立つ。
(ここは、内裏の中でも表側。つまり、殿下が思うままにふるまいにくい場所だから……。今も、御簾の裏から視線を感じる)
糸季たちのいる渡殿傍の局には、誰かの気配がある。すぐ傍には帝の更衣の一人の殿舎があり、そちらからも息をひそめた人の不自然な静けさが感じられた。
ちらりと糸季が自分より上にある澪の顔色を窺うと、彼は感情のない顔で明後日の方向を眺めている。彼のない表情を目にし、糸季の胸はきゅっと痛んだ。
「あの、二の皇子さ……」
「では、私はこれで。失礼」
「あっ」
するり、と伸ばした糸季の指を澪の着物の袖が通り抜ける。彼の後ろ姿から「着いて来るな」という気配を感じ取り、その場に縫い留められてしまう。
(殿下……)
追いかけたい衝動に駆られた糸季だが、ここで追いかけてしまえば彼の思いを無駄にする。衝動を堪え、自分が今すべきことを思い出して三砂のもとへ戻るためにそのまま渡殿を行く。
「ねえ、ご存知? あの子、最近入って来た子」
「ああ。何でも、あの偽神様の正室候補なのですってね」
「まあ! 偽物にそわされるなんて、お気の毒ね。あ、そういえばこの間……」
密やかに、大々的に広がる噂話。その格好の餌にされている自覚は、ここに来て数日後には生まれていた。初めて三砂に付き従って内裏の中を案内されていた時、ひそひそと話す女たちの声を聞いたのだ。その内容は、決して聞いていて気持ちの良いものではない。澪のあまり良くない噂話だ。
思わず「何で……」と口に出した糸季を振り返り、三砂は彼女の口元に自分の人差し指をぎりぎり触れない距離に持って行った。目を丸くする糸季に、三砂は緩く首を横に振る。
「――姫様、声を気にしてはいけません。彼女たちは、貴女についてのみならず、噂話が大好きなのです。いちいち目くじらを立てていれば、こちらの身が持ちません」
「そんな、ものなのですか?」
「ここ内裏では、そんなものなのです」
「……」
春宮とは違う、密やかな悪意。糸季は三砂の言葉に呆気にとられたが、ふと目に入った彼女の扇を持つ手が震えている様子に、何も言えなくなってしまった。
それからというもの、糸季は自分の局周辺以外では聞こえるものを聞こえないものとして扱う術を手に入れていく。自分のことに関しては聞かなかったことに出来るようになってきたが、どうも澪関連の悪意には反論したくなってしまう。
(落ち着いて、落ち着いて、自分。あれはわたしへの言葉なんだから、受け流してしまわないと)
何故かわからないが、糸季はざわつく心を抑えつけて三砂の局へと戻った。三砂の局は糸季のものとそれほど離れていない。同じく内裏の端の方だ。
糸季が戻ると、三砂は紙に筆を走らせていた。繊細なかな文字を書く三砂の手は美しく、また読みやすい。筆もまた、糸季が彼女から教わっているものの一つだ。
「……三砂様」
「お帰りなさい、姫様。……姫様、どうかされたのですか?」
「え?」
「目元が腫れぼったい。……泣いていたのですか?」
「……そう、かもしれません」
端とは言え、ここは内裏の中だ。誰の目がありみみがあるかわからない。それでも、毎日のように耳にする言葉の数々は糸季にとってきついものでもあった。
ぺたんと座り込み、糸季は驚く三砂の胸に額をつけた。震える手で彼女の単衣を握り締めれば、何かを察した三砂が手を添えてくれる。
「……み、さごさ、ま」
「そっか。辛くなったのですね、心無い言葉たちに」
「それだけでは、なく、て」
震えそうになる声を何とか奮い立たせ、糸季はここに戻って来る途中で澪に出会ったことと、聞こえて来た澪に対する悪意に対する澪の反応を立て続けに話した。声は極力抑えたが、どうしてもかすれてしまう。
「……ということがあって。二の、皇子様はっずっと……」
「……そうですね。私たちよりも、もっとたくさんの言葉をその身に受けておられます。私は論外ですが、左大臣様が目を光らせていても、人の口に門は建てられません」
「わかっています。でも、殿下は何も悪いことをしていないのに、理不尽です。わたしたちはあの方の味方だと、支えたいのだと言いたいのに」
「……だそうですよ、二の皇子様」
「……」
「えっ!?」
思いがけない三砂の言葉を聞き、糸季は勢い良く顔を上げた。すると局の前の渡殿に、見覚えのある後ろ姿があるのが見える。それが誰かわかり、糸季は一気に赤面した。
「で、殿下……!?」
「……。春宮の姫、少し話をさせて欲しい」
「は、はい」
「では、わたくしは席を外しましょう。終わった頃、呼んで下さいまし」
「ありがとう、三砂」
三砂が姿を消し、澪が御簾の向こう側に腰を下ろした。しかし、きっとこれから話すことは他の誰かに聞かれたくはないことだ。
「……殿下、こちらにいらして下さい。そこでは、誰かに聞かれてしまうかもしれません」
「だが……」
「ここは端ですから、見咎められることはありません」
我ながら、相反したことを言っている自覚は糸季にあった。しかし、間違ってはいないはずだ。
澪は躊躇ったが、素早く御簾のこちら側に入った。険しくないその表情に、糸季はほっと胸を撫で下ろす。昼間に会った時と、今とはきっと気持ちが違う。
それでも澪は目を伏せ、力のない声で糸季に謝った。
「俺が泣かせたようなものだな。……すまない」
「いいえ、そんなことはないんです」
首を横に振り、円座を澪に勧める。それから糸季は、確かめるように澪を前にして口を開いた。
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