第8話 思い合うけれど無自覚で

 円座に座り向かい合わせになり、糸季は内心の緊張を押し殺して口を開いた。


「殿下のせい、などではありません。わたしは……あのような言葉を殿下が受け続けて来られたのだと思い、涙が溢れてきたのです。わたしの勝手なものですから、お気になさらずに」

「……勝手だと言うが、言葉の中にはお前に対してのものもあっただろう? 俺と関わる者は、どうしても嫌味にさらされる。三砂も、左大臣でさえも。俺はそれが嫌だ。悲しい思いをして欲しくなど、ない」

「その言葉、わたしが春宮を出て初めて都に来た時もおっしゃいましたよね。同じようなことを」


 糸季は覚えている。傷つけたくないから帰れ、と澪に言われたことを。その言葉を受け、帰らなかったのは自分だ。


「わたしにとって、わたし自身への誹謗中傷は……全く傷付かないと言えば嘘になりますが、貴方が傷付けられることに比べれば、どうということはありません」

「――っ、何でそこまで」


 澪は、顔を歪めた。右腕を上げ、所在を失って下ろす。


「俺は、姫にそんな風に気遣われるようなことを何一つしていない。無理矢理帝の命で連れて来て、放っておいているんだ。それなのに、どうしてそんなことを思える?」

「どうして、でしょう? わたしにもわかりません」


 糸季は正直に首を横に振った。本当に、どうして澪に対して自分が傷付くよりも彼が傷付く方が嫌だと思うのかわからない。わからないが、糸季には妙な確信がある。


「でも、いつかその理由はわかります。だから、殿下が涙を流すことはないんですよ……?」

「泣いている? 俺が……?」


 目を瞬かせた澪の目の縁から、一筋の涙が零れ落ちる。それに指を添えて拭った糸季は、間近に澪と目を合わせて一気に赤面した。

 さっと手と身を退き、大慌てで弁明を試みる。


「ごっごめんなさい! ちょっと、ちょっと? 春宮で小さな子たちにやっていた名残で手を出してしまって……。自然に手が出てしまったんですごめんなさい!」

「あ、いや……怒ってなどいない。その……少し、驚いただけだ。嫌でもない」


 焦りと申し訳なさで顔を真っ赤にして平謝りする糸季に対し、澪はつられて赤面しつつも視線を泳がせる。何とも言い難い空気が流れ、どうしようもなくなった澪が最初に動いた。


「こう言うべきなんだろうな。その……ありがとう。俺のことを考えて怒って、泣いてくれて」

「そんな」

「でも、俺も多分同じだ。……お前が、が悲しむのは辛い」

「――! 今、名前……」


 初めて、澪が糸季の名を呼んだ。それが衝撃的で、糸季は言葉を失った。気付けば視界が歪み、自分が泣いていることに気付く。


「え……え?」

「ちょっと待て、糸季。何で泣いて……」

「ごめんなさい。すぐ、泣き止むので……」

「あ……」


 今度は澪が戸惑う番だった。あわあわとしても、埒が明かない。

 すぐに泣き止むと言う糸季だが、拭っても拭っても涙が溢れて来る。焦っても念じても結果は変わらず、余計に気持ちが急く。


「困らせたいわけではないんです……っ、でも」

「――先に謝る、すまない。後で殴ってくれても良い」

「え……?」


 不意に、糸季の体が何かに引っ張られる。その何かが澪の腕だったと気付いた時、既に糸季の体は澪の腕の中にあった。


「――!?」

「今ここには、俺たちしかいない。三砂も、呼ぶまでは来ない。だから……泣いても良いんだ、大丈夫だから」

「うぅ……っ」


 耳元で囁かれる、柔らかで気遣いのにじむ低い声。そして、戸惑いつつも優しく糸季を包み込む腕。少し前まで赤の他人であった澪の腕の中で理由はわからないが安心感を覚え、糸季は彼の直衣の胸元を握り締めて小さく「ごめんなさい」と呟いた。


「お召し物を、汚して、しまいますっ」

「良いから。ここにいる」

「――ぅあ」


 堰を切ったように、糸季は泣き出した。もう涙を止めなくても良いと許しを得た気がして、ただ溢れるに任せて泣き崩れる。

 そんな糸季の髪を撫で、澪は彼女を抱き締めていた。


(本当は、兄上とのことを訊きたかったんだが……それはまたの機会で良いだろう)


 今はただ、腕の中にいる大切にしたい人を泣かせてやりたい。それだけの気持ちで澪は糸季に寄り添っていた。


「……あら」


 それから、どれくらいの時が経っただろうか。

 静かになり、何も音がしないことを案じつつも見に行けずにいた三砂は、澪の小さな「三砂」と自分を呼ぶ声を聞いてそっと顔を覗かせた。

 するとそこには、泣き疲れて澪の胸に体を預けて眠ってしまった糸季の姿がある。見てはいけないものを見てしまった気がして目を見開く三砂に、澪は鋭さの欠ける視線を向けた。


「別に、やましいことは何もしていない」

「そうでしょうね。ですが、良いのですか? 殿下は、本当のことを彼女にまだ伝えていないのでしょう?」

「……ああ」


 俯き、澪は浅く頷く。


「伝えないといけない、とは思っている。だが、何と切り出せば良いのかわからないんだ。……なあ、三砂。俺はどうしたら良いんだ?」

「それに三砂がお答えすることは出来ません。澪殿下が、お覚悟をお決めになられたのなら、その時かと」

「厳しいな、相変わらず」


 幼い頃から澪を知る三砂は、こういう時年上らしい物言いをする。ほとんどの人に心を開かない澪が気を許す数少ない中の一人だからこそ、澪も素直に肩を竦めるのだ。

 澪は規則正しい寝息をたてて眠る糸季を見下ろし、そっと彼女の頬を撫でた。


「糸季。きみは、覚えていないのだろうな」


 その声は柔らかく、夕闇の空に溶けて行った。

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