第9話 疑い

 澪と一時ひとときを過ごした夕暮れからしばらく後、糸季はようやく三砂から許しを得て一人で行動出来る範囲が広がった。行動出来るとはいえ、大内裏やまして都の中にはほとんど行くことはない。帝から遠ざけられているとはいえ、二の皇子の正室候補である者が、軽々しく市井に繰り出してはならないのだ。


(そう思うと、春宮はかなり緩かったのね)


 糸季の故郷、春宮。都から遠く離れた辺境の地であり、領主と領民の距離がかなり近かった。領主の邸で飲み会が催されれば、地域の大人たちが酒や食べ物を持ってやって来る。また領主も人々のところまで出向き、よく話をしていたのだ。

 そんな暮らしが普通であった糸季にとって、内裏での暮らしは少し狭い。それでも彼女が出て行かないわけは、澪だった。


「糸季」

「殿下、おはようございます」

「――おはよう。今日は、これを持って来た」


 あの日から、糸季と澪の距離は急速に縮まった。

 都や内裏のことをまだまだ知らない糸季に、色々教えてやって欲しいと三砂や左大臣に頼まれたと澪は言う。そして二日と空けずに書物を持って来たり話をして行ったりするのだ。

 糸季は最初こそ戸惑ったが、彼の正室候補であるならば当然だと思い直した。澪と一緒にいることはむしろ楽しく、別のことで何か嫌な思いをしても忘れてしまうことが出来る。更に澪が持って来る書物や話は、どれも糸季にとって新鮮なものばかりだった。


「こちらは……星読みの本ですか?」

「そうだ。陰陽師が読むものだが、糸季はよく空を見上げているから好きかと思った」

「星を見るのも本を読むのも好きです。ありがとうございます!」

「ああ」


 目を輝かせて喜ぶ糸季に、澪も表情を緩める。そんな二人を見守り、三砂も目を細めた。

 かな文字は春宮にいた頃から習って読めたが、漢字はまだまだ学んでいるところだ。そのあたり三砂や澪が博識で、教えを乞うと喜んで教えてくれた。そのおかげで、糸季はその辺の女性より多くの知識を有しているかもしれない。


「勉強の進み具合はどうだ、糸季?」

「三砂様が丁寧に教えて下さるから、順調……でしょうか。だと良いんですけど」

「三砂、どうだ?」


 澪が問い、糸季は少し不安げに三砂を見る。二人から見つめられた三砂は、小さく肩を竦めてから微笑んだ。


「ご心配には及びませんよ、お二人共。姫様は、毎日しっかりとこなされています。そのあたりの姫君には負けません」

「流石は三砂だ」

「三砂様のお蔭です。ありがとうございます」

「や、やめて下さいませ! 私如きに!」


 ぺこりと頭を下げた糸季に、三砂は慌てた。もともとの身分はどうあれ、今彼女は二の皇子の正室候補だ。そんな姫君が、仕える者に頭を下げるなどしてはいけない。

 三砂がそう言うと、糸季は残念そうに眉を寄せた。


「でも、わたしは三砂様に心から感謝しているのです。それを表したくて……」

「うっ……。そ、そのお気持ちはとてつもなく嬉しゅうございますよ、姫様」


 しゅんとしてしまった糸季に、三砂は慌てて弁解を試みる。そんな主従の様子に、今度は澪が目元を緩めた。


「いつの間にか、三砂は糸季に甘くなったな」

「甘くしているつもりは毛頭ありません。ただ、いつも一生懸命に向き合って下さるので……嬉しくて……」

「そうなのか……ん?」


 和やかな会話の途中、空気を切り裂くように慌ただしい足音がこちらへと向かってくる。


「何でしょう?」

「見てまいりましょう。お二人はそのままで」


 不安げに声を揺らす糸季に、三砂は穏やかな声でそう応じた。そして素早く渡殿へ出ると、丁度やって来た誰かと言葉を交わす。御簾の間から見えたその客人は、どうやら左大臣だ。


「左大臣様?」

「左大臣? 一体何が……俺も会ってくる」

「はい」


 立ち上がり出て行く澪の背を見送り、糸季は一抹の不安を抱えながらも二人の帰りを待つ。耳を澄ませれば、三人分の声が聞こえてきた。


「……だと?」

「そうです。……でして、今……」

「そんなことっ……」

「兎も角……」


 聞こえてくる声は、どれも平静ではない。糸季は胸の前で指を絡ませ握り締め、そこに座っていた。


(一体、何が起こっているというの?)


 ざわざわと胸の奥が騒がしい。息を吸って、吐き出す。意識的にそれを行なっていた糸季は、御簾が動いたことにハッとした。見れば、青い顔をした三砂が立っている。


「三砂様……? どうなさっ……」

「どういたしましょう、姫様……!」

「み、三砂様!?」


 崩れ落ちるように、三砂が糸季に抱きついた。そんなことは今まで経験したことがなく、糸季は目を丸くする。それでも何故か震える三砂の背中撫で、ゆっくりとした声で「どうなさったのですか?」と尋ねた。

 すると三砂はビクリと体を震わせた後、ゆるゆると顔を上げた。その顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、更に糸季を驚かせる。


「三砂様……」

「姫様、大変なことになりました。澪殿下が」

「殿下が、どうなさったというのですか?」


 そういえば、澪が戻って来ていない。先程、左大臣と共に何処かへ行ってしまったのだろうか。御簾の外に影もない。

 不安が首をもたげ、糸季は震えそうになる声に力を入れた。


「三砂様、殿下は何処へ……」

「殿下に、澪殿下に疑いがかけられたのです」

「疑い?」


 一体何の疑いだというのか。糸季がこわごわ尋ねると、三砂は消え入りそうな声で「策謀、殺しのでございます」と呟いた。


「……ころ、し?」

「正しくは、未遂ですが。……澪殿下に、兄上の雫殿下の殺人未遂の疑いがかけられたのです」

「……………………え?」


 言葉が言葉として呑み込めず、糸季はそう声を出すのが精一杯だった。


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