第3章 蛇の痣

第10話 右大臣の訪問

 澪に皇太子たる一の皇子、雫の殺人未遂容疑がかけられた。その噂は当日中に内裏を駆け巡り、大内裏にも達した。


「聞きまして?」

「ええ。皇太子殿下が……」

「弟殿下に容疑が……」

「僻みでしょうか」

「小さい頃から、扱いが違ったから……」


 毎日のように、様々な噂話が流れていく。それを耳にする度、糸季は澪の心情を思って胸を痛めた。


「それで、殿下は今」

「左大臣様のお邸にて、かくまって頂いております。ここでは、かなり狭苦しい思いをなさいますので」

「……そうですね」


 澪が疑われて以降、糸季たちの周辺も騒がしくなった。内裏に来て以来放置していたのは自分たちの方にもかかわらず、興味本位で近付いて来る者が増えたのだ。昨日も今日も、若い女房や貴族が糸季を訪ねて来た。


(その意図はわかっている。二の皇子様が一の皇子様を殺めようとした、その証拠が欲しいということでしょう)


 殺されかけたという雫が今どうしているのか、糸季は知らない。一の皇子がどうしているのか、何処にいるのかは内裏での噂話を聞く限りは不明だ。


(だからこそ、この居づらい場所にいる。殿下が、兄上を殺めようなどと考えるはずがないと明らかにしてみせる)


 その糸季の決意を、三砂は最初止めた。彼女も澪を一切疑っていないが、疑っていないからこそ澪が何者かに陥れられたのではと考えていた。その者の狙いが、次は糸季に向かないとも限らない。

 当然、糸季もそのことは考えた。三砂の勧めに従い、春宮に戻るか澪と共に左大臣の邸に身を寄せることも検討した。しかし春宮に戻れば都のことは一切わからず、左大臣の邸にいては澪の疑いを晴らす方法はおそらくない。


「三砂様、一緒にいて下さってありがとうございます。心強いです」

「勿体なきお言葉です。……私も、殿下は無実だと証明したく存じます故」

「――何やら、威勢の良い声が聞こえるな」

「!?」


 糸季にとって、初めて聞く声だ。思わず動けずにいた糸季の袖を、三砂が軽く引く。糸季が振り返れば、耳元に三砂の囁き声が響いた。


「左大臣和史様の弟君、右大臣厚平あつひら様でございます」

「右大臣様……」


 思わぬ客人に、糸季は慌てて頭を下げる。その後、三砂が前に出て厚平との会話を買って出た。


「珍しいこともあるのですね、右大臣様。このようなところに、何かご用でしょうか?」

「三砂。兄上の気に入りの女房だったな。二の皇子様ではなく、今は二の皇子様の正室候補を世話しているとか」

「ええ、その通りでございます」


 淡々と応じる三砂と、彼女を時折からかうように話す厚平。二人の会話をはらはらしながら聞いていた糸季は、突然降って湧いたような「そういえば」という厚平の言葉に耳を澄ませた。


「二の皇子様、内裏にはいないんだろう? 兄上のところにかくまわれているという話は本当か?」

「それは、既に帝には申し上げております。帝より皆様に伝達されたはずでは?」

「そうだったな。ああ、ただ度忘れしていただけだ。忘れてくれて良い」

「はあ……」


 一体何が言いたいのか。三砂は首を傾げ、それから厚平の次の言葉を待つ。

 しかし厚平はなかなか言葉を紡がず、ようやく出た言葉は声が低過ぎて三砂たちの耳には明瞭に聞こえなかった。


「……兄上は娘を持たない。兄上の世が続くことはないと思い知れば良い」

「右大臣様、如何されましたか?」

「いいや、何でもないよ。あまりここにいたら、兄上に叱られそうだ」


 一瞬はらんだ暗い空気を取り去り、厚平は優雅に微笑むと美しい所作でその場を立った。そして、今思い出したとでも言うように「そうそう」と振り返る。


「一の皇子様はご無事だ。一時危うかったが、今は静養されている。ただ何故か声は出ないが」

「声が……?」

「理由は不明だが、死にかけた影響かもしれない。早く、犯人がわかれば良いのだがな」

「……そう願っております」


 しおらしく返事をした三砂に満足したのか、厚平は更に奥にいる糸季に向かって視線を投げた。御簾の内側から見ていた糸季は、ぞっと悪寒が走るのを自覚したが。


「春宮の姫君も、御機嫌よう」

「……」


 糸季は静かに、去って行く厚平を見送る。彼の姿が渡殿の向こうに消えてから、三砂に近付いてそっと「大丈夫ですか」と尋ねた。


「あまり、右大臣様のことが得意ではないように見えました」

「ふふ、あたりです。どうもあの厚平様は苦手なのです。何か、掴みどころのない雲のようなお人ですから」

「雲……そうですね。わたしも、同じような印象を持ちました。何か、影のようなものを感じるお人ですね」

「影……それもあるやもしれませんね。兄の左大臣、和史様が出世に興味をさほどお持ちでないにもかかわらず出世され、現在の氏の長者として国を帝と共に率いておられます。それが厚平様には奇異に映るのか、よく喧嘩なさっていますよ」

「そうなのですね」


 出世にさほど興味のない兄と、出世欲の強い弟。考え方が全く違うのかもしれない。糸季は納得しながらも、厚平が糸季のいる内裏の端の局に何故やって来たのかが結局わからなかったなと思い返していた。

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