第2話 左大臣

 春宮の領地から、都までは遠い。糸季しきは使いの馬に乗せてもらい、山道を駆けていた。休憩を幾度も挟み、数日かけてようやく都が見えるところにまでやって来ることが出来るのだ。

 糸季を自分の前に乗せて馬を走らせてきた使者は、一休みするために草地で立ち止まった。糸季を馬から降ろし、共に休む。


「……都では、姫君は馬に乗りません。ですからどうしようかと思ったのですが、前回貴女のお父上から馬に乗れると伺いましたので」

「幼い頃から、誰かが世話をしてくれるということはありませんでしたから。うちは決して豊かな家ではありません。ですから、馬に乗ることも畑を耕すことも一通りやってきました。……ですから」

「はい」

「……折角の機会です。例え正室とならなかったとしても、内裏で働かせてもらえれば良いなと思っていますので。宜しくお願い致します」

「……はい?」


 目を丸くする使者に対し、糸季は真剣そのものだ。乗っている馬の首元を撫で、淡々とした口調で言葉を続ける。


「考えてみれば、いえ考える必要もなく、わたしのような辺境の娘が正室に選ばれるなてことは、そうそうありません。都にはたくさんの素敵な姫君がおられますでしょうし、わたしは雑用にでも使って頂ければ。家の役にも立てますし」

「あー……いや、これは私が言うべきではありませんね」

「……?」


 自分は脇役で良い。都の美しく聡明な姫君たちの足元にも及ばない、田舎者だ。その自覚があるからこそ、糸季はここまで連れて来てくれた使者に言っておこうと思ったのだが、何やら使者の男は煮え切らない。糸季は首を傾げたが、そろそろ出発しなければ一晩何処かで明かすことになってしまう。

 使者と共に馬に乗り込んでからしばらくして、糸季はようやく都の入口である朱雀門を目の前にした。朱色に塗られた美しく巨大な門を見て呆気にとられる間もなく、使者の案内で内裏へと赴く。


「……広い」

「こちらです、姫君」


 何処もかしこも、春宮とは比べ物にならないほどに立派だ。圧倒的な差にめまいを覚えつつ、糸季は大内裏、そして内裏へと足を踏み入れた。


「あの……一体何処へ……?」


 内裏は、大内裏とはまた違う雰囲気の場所だ。帝がおわす内裏は、神聖さと共に秘密めいた不思議な空気を感じる。帝の私的空間でもあり、政の中枢でもあるのだ。

 独特の緊張感の中、渡殿を行く糸季は不安を覚えた。自分の格好が、全くこの場にそぐわない気がして。内心の焦燥が顔に出ていたのか、使者の男は苦笑いして「もう少しですよ」と足を緩めた。


「こちらで、しばしお待ち下さい」

「は、はい」


 糸季が通されたのは、誰もいない一室。一段高い場所があり、そこにこれから誰かが来るのだということは理解出来た。

 使者は糸季が頷くのを確かめ、その場を辞す。一人残された糸季は、ぼんやりと部屋の中、そして御簾が上がり開け放たれていることで見られる庭を眺める。庭には大きな池と小川が造られ、美しい花が咲いていた。


(春宮とはまた違う、人が美しいものを造ろうとして造り出した景色……これも綺麗って思う)


 どれほどぼんやりと過ごしていただろうか。誰かがこちらへやって来る足音が聞こえる。糸季は背筋を伸ばし、それから深々と頭を下げた。

 誰かが部屋に入って来る。その人物が一段高いところに腰を下ろしたことを、糸季は気配と音で察した。


「――申し訳ない。随分と待たせてしまったな」

「いえ、滅相もございません」

「顔を上げてくれ。話が出来ない」

「……はい」


 糸季はおずおずと顔を上げていく。徐々に明るくなっていく視界、そして見えて来る男の姿。顔を完全に上げて目の前に胡坐をかく男と目を合わせ、糸季は再びお辞儀した。そしてもう一度顔を上げ、名乗る。


「わたくしは、春宮領主である季平すえひらの娘、糸季でございます」

「糸季姫、来てくれたことに感謝する。私は左大臣として帝にお仕えしている、和史かずふみと申す」

「さ、左大臣様!?」


 目を真ん丸にして、糸季は慌てた。左大臣と言えば、都で政において帝に次ぐ地位だ。つまり、臣下として最高位となろうか。

 そんな高貴な方が何故。糸季はどうしたら良いかわからずに再び突っ伏すように頭を下げたが、和史に「顔を上げてくれ」と言われてしまった。


「頼んで来てもらったのはこちらだ。その理由を話させてくれ」

「は、はい。お願い致します」


 そろそろと顔を上げた糸季に、和史は穏やかに頷いた。手にしている扇を口元にあて、口を開く。


「聞いているかもしれないが、貴女を二の皇子の正室候補……いや、迎えたいと考えている」

「……え、候補ではなく?」


 正室候補として呼ばれたと聞いていた糸季は、目を瞬かせた。なぜ自分が正室に選ばれたのか、考えても全くわからない。

 そんな彼女の思考を読めたのか、和史はフッと微笑んでから表情を変えた。


「そう。……貴女にしか、皇子様をお慰めすることは出来ないのだから」

「どうして、ですか……?」

「いずれ、わかる。……今日は長旅で疲れただろう。一室用意しているから、そこを使うと良い。案内させよう」

「はい、ありがとう……ございます」


 それから和史の言う通り、女房の一人だという女性が糸季を部屋に案内した。少ない荷と共にしとねに横になった糸季は、疲れもあってゆっくりと眠りへと引きずり込まれる。


(わたししか皇子様を慰められないって、どういう意味なんだろう?)


 疑問の答えを知る者は、今ここにいない。思考は途切れがちになり、糸季はいつの間にか目を閉じ眠っていた。




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