第3話 澪との対面

 初めて都に来たその日の夜、疲れから熟睡していた糸季しきは夢を見た。

 夢の中で、糸季の目の前には小さな子どもがいた。その子どもは幼い頃の糸季自身だ。

 両親が仕事をしている間、糸季はよく一人で遊んでいた。五歳にも満たない幼児のことから、おそらくまだ勉強等に時間を掛けている時ではない。そんなことをつらつら考えていた糸季は、幼い自分に誰かが近付いて来たことに気付く。


(誰……?)


 糸季は振り返るが、飛ぶ蝶を眺めることに夢中な子どもの糸季は気付かない。


「……ここで、何をしているんだ?」

「わっ! びっくりしたぁ」


 何とも間の抜けた反応だ。今の糸季と同じように思ったらしい声をかけた誰かも「ふっ」と笑う。

 笑われたことで頬を膨らませる子どもの糸季だが、振り返ってきょとんとした。その誰かを知らなかったのだろう。


「あなた、だぁれ?」

「おれは……」


 誰か、わからない。その人物が口を開いたのと同時に、糸季は目を覚ました。


「……あ、夢だ」


 ぼんやりと夢を反芻していた糸季だが、この場所が自宅ではないことを思い出して飛び起きる。いつ誰が来ても良いように、急いで仕度を整えた。

 仕度をしながらも、頭の中では夢のことを思い出す。あれは、確かに幼い頃の記憶だと糸季は思った。


(顔は、何故か全然見えなかった。でもあの声は……誰だったんだろう?)


 首を傾げたが、答えは出ない。しかし深く考えている時間は与えられず、下ろした御簾の向こうから糸季を呼ぶ声が聞こえてきた。昨日ここまで案内してくれた女房と同じ声だ。


「春宮の姫君、起きておられますか?」

「は、はい!」

「よかった。朝餉あさげを運びますから、待っていて下さい」

「わかりました」


 女房の声が遠ざかり、しばらくしてから食事が運ばれてくる。何となく緊張しながらそれを食す糸季の隣で、同じ女房が今日の予定を教えてくれた。


「この後、姫君には二の皇子様と会って頂きます。それから徐々に皇子様の正室となるための勉学など、増やしてまいりますのでそのつもりで」

「はい。……え、皇子様にお会い出来るのですか?」


 驚く糸季に、女房は「当然です」と頷いて見せた。


「貴女様は、二の皇子様の正室となられるのです。嫁ぐ方と会うのは当然ではありませんか」

「そう、ですよね。……緊張します」


 食後の白湯を飲み、糸季は胸を押さえて俯く。指に伝わる胸の奥からの振動は、ドクンドクンと疾走する。もしや病かと思わないではなかったが、緊張の度に感じるそれを病と呼ぶわけにはいくまい。

 女房は糸季の緊張に共感しながらも、頑張って下さいと背を押すだけだ。


「こちらへ」

「はい」


 糸季が連れて来られたのは、内裏奥に位置する小さな部屋。帝の子たちが住まいする一画の一つに通され、糸季は女房に待っているように告げられた。

 誰もいなくなった部屋で、一人二の皇子の訪れを待つ。風を感じながら部屋から見える庭を見つめていた糸季は、ふと朝のやり取りを思い出す。


(あの女房様に、二の皇子様はどんな方なのかって聞いたけれど、答えてはもらえなかったな)


 今日の予定を言い終えた女房に、糸季は「二の皇子様はどんな方ですか?」と尋ねた。すると問われた女房は目を泳がせ、歯切れの悪い言い方をした。


「皇子様は……容姿申し分なく、聡明な方です。ただ、伝説のこともあって……少し皆様から距離を置かれております」

「距離を、ですか?」

「はい。……私や左大臣様、そしてお母上であられる亡き女御様しか味方はおらず、難しい立場におられます」

「……そう、なのですね」


 どうやら、二の皇子には味方が少ないらしい。だとすれば、糸季にかかわる者が今のところ二人だけということも頷ける。何故かはわからないが、嫌われているという皇子の正室となる娘だ。近付きたくはないだろう。

 そんなやり取りを思い起こしながら、糸季は誰かが訪れるのを待っていた。


「……あ」

「お前は……そうか。三砂みさごに言われたんだな」


 三砂とは、ここまで糸季を連れてきた女房の名前だ。彼女の名を呼ぶ目の前の青年が誰か、糸季はすぐにわかった。しかし自ら名乗るのが先だと思い直し、急いで頭を下げる。


「春宮の領主、季平の娘、糸季でございます」

「……天叶国あのうこく二の皇子、みおだ。……本当に、見付けてきたんだな」

「え?」


 首を傾げる糸季に、澪は「何でもない」と首を横に振った。それから糸季から少し離れたところに腰を下ろし、庭を眺める。

 澪は容姿端麗眉目秀麗というのは言い過ぎだが、爽やかな雰囲気をまとう少し近寄り難い雰囲気を持つ青年だ。その深い海のような色の瞳がまっすぐに庭に向けられ、漆黒の短く切り揃えられた髪が風に揺れる。

 しばし互いに黙っていたが、ふと澪が口を開く。


「……あんた、ここに自分が何でここに呼ばれたか知っているのか?」

「え? ……いえ。わたしは辺境の領主の娘ですから、二の皇子殿下の正室候補にただ選ばれるはずがありません。選ばれずとも、内裏で働かせてもらえればと思っておりました」

「あんたを女官に?」

「はい。……でも、何か違うようですね」

「……まあ、そうだな」


 何故澪のもとに糸季が呼ばれたのか。それはまだ、教えてはもらえないらしい。そう感じ、糸季は別のことを口にした。


「三砂様に、二の皇子様は少し……その」

「周りから煙たがられている。もしくは、忌み嫌われていると聞かされたか?」

「いえ、そこまでは。でも、どうしてそのようにお寂しそうにしておられるのです? 宜しければ、理由をお聞かせ願えませんか?」

「……俺が、寂しそう?」

「はい」


 目を丸くする澪に、糸季は出来るだけ穏やかに問い掛けた。内心は、同年代の異性とこうやって隣り合ったことがないため緊張しており、声が震えそうだったが。

 澪はしばし考えた後、ふっと息を吐き出した。


「……別に、面白くもないぞ」


 そう言う澪に、糸季は確かに頷いた。

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