第4章 絵巻物
第18話 市での買い物
ある日の昼過ぎ、糸季は三砂と共に都へ出た。
本来皇子の正妃ともなれば、ほとんど内裏の中から出ることはない。子が生まれた際の宿下がりなど、一部の例外に限られるものだ。
今回の外出は、澪の見舞いという表の理由がある。勿論澪のもとへも行くのだが、糸季は彼に会う前に都の市に行きたいと三砂に頼んでいた。
「左大臣様のお邸の食事には遠く及ばないでしょうが、何かおいしいものを一緒にたべたいと思ったのです。少しでも、気が晴れるように」
「……全く、そんなお願いをされたら断れませんよ。姫様、重々気を付けて下さいませね」
「ありがとうございます、三砂様」
三砂と共に、より賑やかだという東の市へと足を運んだ。まだ昼までは時があるにもかかわらず、市は黒山の人だかりだ。女性が多く、彼女たち客と威勢良く言葉を交わす店の者たちの声が響く。
初めて来た市の賑わいに、糸季は気圧され目を輝かせた。
「本当に賑やかですね。……何か、甘味とか果物とかありますかね?」
「それでしたら、あちらに集まっておりますよ」
三砂が指差したのは、食べ物関連の店が軒を連ねている場所。何か甘いものをと考えていた糸季は、彼女の案内でそちらへと向かう。
幾つもの店先を見たが、桃やあんず、砂糖菓子などが並び迷ってしまった。糸季は買うものを決める手掛かりが欲しいと思い、三砂を振り返る。
「あの、三砂さ……?」
糸季の後ろで見守っていた三砂は、誰かに声を掛けられていた。相手は商人なのか、手にしたものを三砂に見せて笑顔で何かを話している。話しかけられている三砂派と言えば、微妙な表情で体を引いていた。
「――あのっ」
咄嗟に名を呼ぶべきではないと思った。糸季が三砂の腕を引くと、三砂は明らかにほっとした顔で「姫様」と呟く。
糸季は三砂の腕を抱き寄せたまま、目の前に立つ男を見上げる。
二人の前に立つ男は、にこやかな笑みを崩さない。くたびれた狩衣と烏帽子、薄汚れた単衣と足元。怪しさ満点の男は、糸季の突然の登場にも表情を変えることなく口を開いた。
「おやおや、貴女の妹君でしょうか。可愛らしい妹君ですね」
「……ありがとうございます」
「では、妹君も共に如何ですか?」
片手を差し出され、糸季は数歩退く。相手が何者なのかわからない以上、迂闊に近付くことは賢明ではない。周囲には多くの人々がいるが、皆自分のことに夢中でこちらのことなど気にしていないようだ。
糸季と三砂が警戒していることを見て取ったのか、怪しい男は笑みを深くした。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。私は……」
「こんなところで何をしているんだ、
突然降って来た声に、歳之と呼ばれた怪しい男はびくりと反応する。
反応を示したのは彼だけでなく、糸季と三砂も声の主を知って目を丸くした。
「……右大臣様?」
「おお、春宮の姫と女房殿か。こんなところで出会うとは」
糸季の呟きに近い発言を聞き取り、厚平は快活に笑う。それから歳之と二人を見比べ、顎をさすった。
「なるほど。大方、この歳之に呼び止められたといったところか。……歳之、誰彼構わず怪しげなことに勧誘するのは良いことではないぞ」
「へっへ、怪しげではありませんとも。ちょっとした面白いものをお見せしようかと思っただけでございますよ」
肩を竦め、歳之は一歩退く。
どうやら、歳之は厚平の知り合いらしい。厚平は糸季たちに対して「邪魔をしてすまなかったな」と口にすると、歳之を伴い人混みに消えて行く。
「私たちも行きましょうか」
「そうですね」
突然の邂逅が過ぎ去り、糸季と三砂は本来の目的を遂げるために別方向の人混みへと入って行く。
☆☆☆
「で、どうだ。歳之?」
「旦那様。あのことでございますね」
市の賑わいから離れ、厚平と歳之の主従は都の寂れた場所を歩いていた。こんなところに身分の高い者がいることは滅多になく、彼の連れている者もなかなか珍しい者である。こういった場所には盗賊などが巣食っているのだが、彼らも手出しはして来なかった。
二人の声は、ひそひそと低く聞き取りづらい。もしも話の中身を知りたければ、耳を澄ませて近寄らなくてはならないだろう。
「……で、……ですから。……までは時間の問題かと」
「そうか。……となれば……」
声は低く、ぼそぼそと続く。時折笑い声が湧くが、それもすぐ消えてしまう。
やがて寂れた区域を抜け、再び人々の往来の多い道へと出る。しかしその時、既に厚平の傍らには誰もいなかった。
「さて、ここからが面白くなろう」
厚平は扇でゆるりと隠した口元に笑みをたたえると、上品な足取りで自邸へと向かった。
☆☆☆
「……これ、気に入ってもらえるでしょうか?」
「姫様が選んだのですから、大丈夫ですよ」
厚平らと別れた後、糸季と三砂は果実を売る店へ寄ってから左大臣邸を訪れた。今日行くことを伝えていたため、邸の中まではすぐに入ることが出来た。そして今、澪を待っている。
そわそわと手にした包みに触れる糸季に、三砂は笑みを浮かべて太鼓判を押した。
(三砂様が言うのだから、大丈夫)
心の中でそう思い頷く糸季の耳に、澪が来たことを知らせる家人の声が届いた。
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