第17話 疑うだけでなく

「……お召し物を汚してしまいました。申し訳ございません、三砂様」


 すん、と鼻をすすり、糸季は頭を下げる。

 糸季が左大臣のところから戻って、既に一刻以上が経過していた。目元を真っ赤にして、まだ目が潤んでいる。それでも泣き止みかけた糸季の目元を袖で拭い、三砂は大人らしい落ち着いた笑みを浮かべてみせた。


「何も案ずることはありません、姫様。余程悲しいことがあったのだと思いましたから、私の衣の一つや二つ、どうということはございません」

「……ありがとうございます」


 ほっと肩の力を抜いた糸季に白湯を勧め、彼女が飲んだことを確かめた後で三砂は口を開いた。


「もしもお話し頂けるのであれば、何があったのかお聞かせ願えませんか? 左大臣様……ではありませんでしょうけれど、もしも左大臣様が泣かせたというのなら、一言申し上げなければなりませんからね」

「ふふ、大丈夫です。左大臣様からは、お調べの経過をお聞かせ頂いたのです。まずはそこから、お話させて下さい」


 そう断りを入れ、糸季は和史から聞いたことを三砂に語った。大内裏に勤める陰陽師の中には、一の皇子である雫を害する力を持つ能力を持つ者はいないこと。そして市井の陰陽師にも範囲を広げ、該当者を探すことになったことを告げた。

 聞き終え、三砂はほぅと息をついて頬に手をあてた。


「やはり、一筋縄ではいきませんね」

「はい。澪殿下を狙う者ということで大内裏の中にいるのではないかと考えていましたが、どうやら違うようです。……更にはその陰陽師に依頼した誰かも探さなくてはなりませんから、まだまだですね」


 早く、澪を自由にしたい。その気持ちで心は逸りそうになるが、慌てても何も解き明かすことは出来ない。糸季はふりだしに戻ったことを残念に思いつつも、改めて捜そうと気持ちを切り替えた時のことだった。


「……ぼーっとしていたわたしも悪かったんです。察すことが出来れば、躱せたかもしれませんから。でも、わたしはぶつかってしまったのです」

「……」


 三砂が無言で頷き、糸季は深く息を吸い込んでから話し始める。

 曲がり角でぶつかった女房三人から、あからさまな悪意を向けられたこと。澪だけでなく和史や雫とも交流を持っていることを挙げられ、なじられたこと。思いの外衝撃を受け、三砂に泣きついたことを、小さな声でぽつぽつと語った。

 三砂は静かにただ頷きながら話を聞いていたが、話し終えた糸季の震える手をに自分の手を重ねた。

 びくっと体を震わせる糸季を安心させようと、三砂は「私の手は温かいですか?」と尋ねる。


「……っ。あたたかい、です」

「糸季姫様の手も、温かいです。私は今、貴女様の手に触れています。ここにおります故、お独りではありません」

「……はい」


 何度も何度も、三砂は糸季に「貴女は独りではない」と伝える。すると糸季はゆっくりとではあるが、落ち着きを取り戻していった。


「ありがとうございます、三砂様。ようやく、落ち着きました」

「それはようございました。ですが、私はいつでも糸季姫様をお支えするためにここにおります。頼って下さいませ」

「――はい」


 もう一度感謝を伝え、糸季は「ところでになるのですが」と三砂に尋ねる。


「三砂様の知恵をお貸し頂きたいのですが……」

「私で役立てることがあれば、なんなりと」


 あの件のことですか。三砂が糸季に尋ね返すと、彼女はこくっと頷く。


「三砂様は……雫殿下を害することで遠回しに澪殿下を傷付けることを目的に密かに動くことが出来る誰かについて、覚えはございませんでしょうか? もしくは、澪殿下を蹴落とすことで旨味を得る人物でしょうか」

「覚え、でございますか。……それらの条件をどちらも満たす人物となりますと、かなり選択肢は減ると思われますが」


 三砂の言う通り、条件を満たす人物は多くない。まっさきに名前が浮かぶのは、左大臣や右大臣といった身分のある方々だ。


「しかし、左大臣様は違いますね。左大臣和史様は、澪殿下を支えておられます。左大臣様自身に昇進を欲する心はあまりありませんから、この条件には当てはまらないでしょう」

「となると、右大臣様でしょうか……?」


 右大臣厚平は、一の皇子である雫を次の帝にと推している人物だ。自身の出世欲も強く、いつでも兄を蹴落とそうと隙を窺っているという話をよく聞く。


「とはいえ、だからとただ疑えば良いというものでもないのでしょうが。一つの可能性として、残しておいて良いと思います」

「わたしもそう思います。……もう少し、調べてみないといけませんね」


 右大臣の周囲について、糸季が嗅ぎ回るのは具合が悪い。ただでさえ、雫を第一に据える厚平に疑われることは避けなければ。糸季は左大臣に協力を求められないかと思案しつつ、別の可能性についても思考を巡らせた。

 その間、三砂は糸季の様子を穏やかに見守っている。彼女も厚平を疑っていたが、自分で口にした通りにただ疑うだけではいけない。同時に、目の前の姫君の強さに感嘆を覚えていた。


(この方は嫌なことがご自分の身に起きても、決して『帰りたい』とはおっしゃらない)


 一方的に他人から嫌われ、悪く言われて立場も危うい。それでもこの姫君がこの場に立ち続けるのは何故なのか、三砂はじっと彼女を見つめ考えていた。


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