第16話 嫌悪

 澪の秘密を知った糸季は、二日後左大臣に呼び出された。指定された時刻に合わせて訪ねると、彼は早速本題に入った。声は潜められる。


「殿下に頼まれたことだが、大内裏の陰陽頭に、特殊な技を使うことが出来る者はいないかと内密に尋ねた」

「……結果はいかがだったのですか?」


 糸季が密やかに尋ねると、左大臣・和史は曖昧に頷く。


「陰陽頭によれば、極々一部の力の強い者だけだと言い切った。そして、それだけ力のある者はこの陰陽寮の中にはいないと」

「いない、のですか? 優秀な方が多いと聞いておりましたが……」

「官人としての能力と、特殊な力の有無とは関係がないらしい。……これは、市井にも手を広げる必要がありそうだ」


 だから、まだ時がかかる。和史はそう言って、すまなそうに目を伏せた。

 糸季はゆるゆると首を横に振り、仕方ありませんよと静かに言う。彼女もすぐに犯人が見付かるとは思っていなかった。


「もとより、長期戦だと思っておりました。でもこれで、大内裏の中には犯人に協力した陰陽師はいないとわかりました。それは一つの成果ですよ」

「……そうだな、そういうことにしておこう」


 また何かあれば伝える。そう言って和史画去るのを待ち、糸季もその場を立ち上がった。その瞬間、首元にぞわりと悪寒を感じる。


(何……?)


 振り返るが、誰もいない。あるのは、ずっと続く渡殿や幾つも連なる部屋だけ。渡殿を下りれば庭が見えるが、そちらにも人影はない。先程まで左大臣が人払いをしていたため、人が来るまでには時がかかるだろう。


「何だか、変な感じ……」


 ふと脳裏によぎるのは、怪異や物の怪の仕業といった恐ろしさをはらむ言葉たち。しかも最近、陰陽師の中には特別な力で他人に害を与えられる者もいると知ったばかりだ。腕を軽くさすりつつ、糸季は三砂の待つ自分の局に戻るために足を速めた。


 ――……ちゃぷん。


 誰もいなくなったその場所で、たった一度水面が揺れた。風はなく、葉も落ちていない。その川は人によって造られたもので、魚は住んでいない。だから、水が揺れる要素は何もないはずだった。

 その後すぐ、数人の官人が傍の渡殿を歩いて行く。彼らは特に何かを感じることはなく、話をしながら去って行った。彼らが去ることには、水面は静かにただそこにある。


(急がないと。三砂様を心配させてしまう)


 一方糸季は、内裏の中を走らない程度に速足で歩いていた。今自分は内裏や大内裏において、ある意味注目を集めている自覚がある。一の皇子を殺めかけたと噂される二の皇子の正室候補なのだから。

 一つでも争いや困難の種を少なくしなければならない。三砂の助言を最もだと理解していた糸季は、彼女に心配かけないようにと急いでいた。

 だからだろうか。普段ならばやることのない失敗を犯す。


「きゃっ」

「あっ。ご、ごめんなさい! お怪我はありませんか?」


 前からやって来た誰かとぶつかったのだ。糸季はぐらりと体の均衡を崩し、それでもなんとか持ちこたえて踏み止まった。曲がり角であったために仕方がないが、糸季は謝ったが反応がない。不思議に思い顔を上げると、目の前には三人の女性が立っていた。何処かの女房らしい。

 彼女たちは立っていたため、糸季は相手の怪我がないことにほっとする。しかし、相手は違った。


「あんた……」

「ぶつかってしまい、申し訳ございません」

「……」

「……」

「……あの? ――きゃっ」


 聞こえなかったかと思い、糸季はもう一度頭を下げた。しかし返って来たのは、彼女が突き飛ばされるという結果だけ。


「いっ……」

「――二の皇子様をの正室候補となるだけでなく、左大臣様や一の皇子様とも親しくするなんて。田舎者の分際で」


 ぼそりと呟き、しりもちをついた糸季の横を通り過ぎて行く。糸季が顔を上げれば、一人が鼻で笑い立ち去るところだった。

 三人を見送り、糸季はゆっくりと立ち上がる。しりもちはついたが、長引く痛みではない。軽く衣装をはたき、しゃんと背筋を伸ばして歩き出す。

 しかし、正面から自分への悪意を受けたことは衝撃だった。


「……意外と、傷付くなぁ」


 自分の局の御簾を前にして、糸季は苦笑いを浮かべた。その呟きはすぐに風に溶け、顔を上げて御簾をくぐる。するとそこには本を読む三砂がいて、糸季を穏やかに迎えた。


「お帰りなさいませ、姫様。……お顔が赤いようですが?」

「三砂、様」

「姫様? いかがなさ……っ」


 ふらふらと局に入って行った糸季は、三砂に抱き着くように座り込む。突然抱き着かれた三砂は戸惑い騒ぎそうになるが、何かがおかしいとそっと糸季の背中に触れた。


「ひめさ……」

「ごめんなさい、三砂様。少しだけ……ほんの少しだけで良いのでお膝をお貸しくださいませ」

「……お気の済むまで」

「ありが……っ」


 許されたことで、糸季の我慢の糸が千切れた。肩を震わせ、小さな声を上げて泣きじゃくる。他人の悪意を感じたことはこれが初めてではないが、手をあげられたのはこれが初めてだった。


(駄目。泣いたら、三砂様を困らせる)


 そう思えば、涙は止まるはずだった。しかし三砂が優しく背中を撫でてくれるから、糸季は涙の溢れるままに三砂にすがりついていた。

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