第5章 望まぬ目覚め

第23話 異常事態

 糸季は三砂を伴い、左大臣の邸を訪れていた。大内裏から近いが、どの貴族の邸よりも広いために入るために時を要する。

 二人は左大臣邸の前に立ち、取次を頼んだ。許しを得られるまで玄関先で待つわけだが、糸季は何となく落ち着かない心持でそわそわとしていた。


「如何なさいましたか、姫様? 落ち着いて下さいませ」

「わかってはいるのです。わかっているのですが、なんだか嫌な予感がして……」

「まあ……。杞憂であれば良いのですが」

「はい……」


 胸元で祈るように指を組んでいた糸季は、ふと何かおかしいと感じて邸を振り仰いだ。ざわざわという胸の奥の不安が膨らみ、喉が渇く。


(なんだか、邸の奥から不穏な気を感じるような……? それに、あれは)


 空を見れば、何故か邸の上だけに黒い雲が集まっている。まるでこれから雷雨が吹き荒れるぞと言っているような、嵐の前触れを予感させる雲。


「三砂様、あれ……」

「あれは、大きな黒い雲ですね。一雨、どころではなく、大雨になるかもしれません。早めにお邸へ入れて頂いた方が」


 良いでしょう。三砂がそう言い終える前に、糸季は突然戦慄を覚えた。そして三砂の止めるのも聞かず、左大臣邸に駆け込む。


「こっち……!」


 何かに呼ばれた気がして、走りにくい小袿こうちぎの裾を蹴り飛ばす。故郷の春宮であればこんなに重い衣を羽織ることもなかったのに、と思い出しても詮無いことを思いたくなる。

 糸季はどんどん強く濃くなる瘴気のようなものを肌で感じながら、目的地へと飛び込んだ。


「――っ、澪、殿下!」

「……」


 左大臣邸の大きな庭の中央、人の手で外から引かれた小川の真ん中。湾曲した橋で繋がった小島の上に、澪が立っていた。

 糸季が名を呼ぶが、澪は表情の抜け落ちた顔で彼女を見るだけだ。瞳に生気はなく、外つ国のガラス玉を思わせる。


(澪殿下の瞳、少しだけ青色が入ってる。……でも、いつもよりも綺麗じゃないよ)


 澪は、糸季を見ているはずだが見ていない。すいっと視線を外され、糸季は静かに傷付いていた。

 しかし、このままにしておくことは出来ない。澪の様子は、明らかにおかしいのだから。糸季は気を取り直し、澪の傍に行くための道筋を探す。

 その時だった。


「何事だ!」

「はぁっ、はあっ……姫様!」

「左大臣様、三砂様!」


 大きな足音が近付いて来たかと思うと、怒気をはらんだ和史と息を切らせたがやって来た。二人は庭の異様な空気に目を見開くが、先に我に返ったのは和史だった。


「澪殿下、如何なさったので!?」

「……」

「――っ。聞こえないのか、澪!」

「左大臣様、殿下は多分聞こえていません。わたしが呼びかけた時も同じでした」

「……一体何があった? 勤め帰って来てみれば、異様な雨雲が湧き立ち、慌てた様子の三砂殿がいた。聞けば、突然貴女が邸に入ってしまったというではないか。妙だと思い駆けて来たが……」


 和史の問いに、糸季は正しく答えることが出来ずに口ごもる。彼女自身も何が起こっているのかわからず、まず澪の傍に行こうと考えていたところだった。ぶんぶんと首を横に振り、わずかに涙声になりながら声を絞り出す。


「わかり……ませんっ」

「そう、であろうな。あいつは一体何をしようとしているんだ。……あいつ自身の意思か、もしくは」


 言葉を切り、和史はうろたえている三砂に向かって支持を飛ばす。


「三砂殿、邸の者たちに外へ出るなと伝えて頂きたい。宜しいか?」

「――は、はい!」


 指示を受け、三砂は邸の中へと駆け込む。彼女の声が遠退くのを聞き、和史は隣に立つ糸季を見下ろした。


「ここにいても埒が明かない。さっさとあいつを正気に戻すぞ」

「はい」

「良い返事だ」


 ついて来い。和史にいざなわれ、糸季は左大臣邸の庭を行く。幾つかの橋を渡り、一歩ずつ澪に近付いて行く。


(澪殿下……)


 糸季はずっと澪のことを気にしながら歩いているが、彼は特に動く様子はない。ただぼおっと突っ立っているだけだ。

 ただし、近付くことではっきりと見えて来るものもある。後二つの橋を渡れば、澪の傍に行くことが出来るという時のこと。


「左大臣様、殿下の右腕を見て下さい」

「右? ……嘘だろう、あれは」


 和史が絶句するのも無理はない。糸季と和史が見つめる先、澪の右腕には白い蛇のようなものが巻き付き浮いていた。

 その蛇に、糸季は見覚えがある。


「あの蛇、もしかして……絵巻の?」

「ああ、そうだと私も思う。……何がどうなったのかは全くわからないが、澪は雨神様と同じ力に目覚めたのかもしれない」

「同じ、力?」


 一体どういうことか。今目の前で何が起こっているのか。突拍子もない出来事の連続で、糸季は自分の頭が沸騰したかのように熱くなっていると錯覚した。

 しかし、事態は糸季の理解など待ってはくれない。


「……」


 突然、澪が蛇の巻き付いた右腕を天へ掲げるように上げた。その直後に蛇がしゅるしゅると腕を伝って体を離れ、空へと昇っていく。

 蛇は寝殿造の左大臣の邸の屋根と同じくらいの高さまで昇ると、その首を糸季たちへと向けた。真っ白で表情はほとんどわからないが、糸季は蛇にじっと見つめられている感覚に陥る。


(見られている。白銀の瞳が、こちらを見ている。……一体、何なの?)


 糸季の疑問に応じるはずもなく、蛇は再び天を向いて咆哮した。

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