第22話 知らぬ間のこと
「さてさて……。ここからどうしたもんかね」
都郊外のとある場所、とある寂れた邸の中。一人の男が天井を仰ぎ見つめていた。
彼はとある依頼に応えるため、幾つか策を講じている。その仕上げに取り掛かろうかという時なのだが、いまいち決め手に欠ける気がしていた。
「決定打、か。一つ派手なことが起これば……」
そう口にして、男は「いやいや」と首を横に振る。偶然に頼っては、陰陽師という術師の名折れだろう。そう思うくらいには、男は自分の仕事に誇りを持っていた。
「二の皇子は、一の皇子を害した者が発見されぬ限りは内裏に戻れない。その者も、あの方のお蔭で見付かることはない。……そろそろ一の皇子の記憶を変えておこうか。少なくとも、二の皇子が己を害した者だと周囲には思わせないとならない。声を一旦消しただけでは、事足りぬだろう。……いや、突然記憶を変えれば、流石に周囲は不可解に気付くか。それでは容易に怪しまれような。では……」
男は胡座をかいて頬杖をつき、ニヤリと嗤う。道筋は見えた。あの方も満足なさるだろう。
「さて、始めようか」
よっと掛け声をかけて、男は立ち上がる。そして文机の上に置いていた、使い古された数珠を手に取った。
手首に数珠をつけ、目を閉じる。手の指は印を結び、徐々に何かが起こり始めた。
☆☆☆
同じ頃、内裏の一角。体に痛みなどのない雫は、右大臣厚平の許しを得て公務を少しずつ行なっていた。
幾つかの書類を片付け、ほっと息をつく。
「後は……急ぐものはないな」
筆を置き、ちらりと文机を見る。そこには、右大臣や帝からの文が何通か置かれていた。中身は何度も同じ文面を見たため、覚えてしまっている。
(正室を迎えさせる用意がある、か)
勝手に決められ、勝手に添わせられた正室と子をなし次へ繋ぐ。それが貴族社会、更に言うなれば、帝の一族の長子として生まれた自分の義務である。わかってはいるが、雫は時折無性になんとも言えない気持ちになってしまう。
(とはいえ、私に誰か想う者がいるわけではない。……澪のように、幼き日よりたった一人を想い続けるなどなかったな)
以前会いに行ったが、と雫は一人小さく笑う。糸季には「眠れずに歩いていた」と伝えたが、その実は興味本位で見に行ったのだ。長く話もしていない弟の元へやって来た姫君が、一体どんな姫なのか。
(そのあたりによくいる、おもねるばかりの女ならば何も思わなかったのだがな)
基本的に、貴族の姫君は地位を求める。高貴な家に嫁げば、実家の繁栄は約束されたようなものだからだ。
しかし糸季はといえば、そんなものには興味を持っていないらしい。その時点で、雫にとっては稀有な存在だった。
「ああいう姫だから、澪もおそらくは……」
皆まで言わず、雫はふふっと笑った。
そして気分を切り替えようと、傍にあった紙と筆を取る。帝である父から、文の返答の催促を受けていたのだ。すっかり忘れていたが、そろそろ書かなければ後が怖い。
「墨は……と」
無心で墨をするため、姿勢を整え袖を軽くまくった。その時、雫は異変に気付く。
「……こんなに、黒黒としていただろうか?」
もう少し赤みもあったはずだ。雫は己の手首に現れたまま消えない痣を左手で撫で、目を見開いた。
「――っ!?」
激痛が腕を走り、声なき悲鳴を上げる。耐えられず思わず立ち上がれば、紙や筆が床に散らばった。
その物音を聞きつけ、女房たちが御簾を上げる。
「物音がしましたが……皇子様? 皇子様!? どうなさったのですか!?」
「だっ誰か! 誰かおりませんか!?」
女房たちの悲鳴を聞きつけ、幾つかの足音が近付いて来る。それは何とか認識していたが、雫は既に半分意識を手放していた。
「一体何事だ?」
「こんな昼間に……っ。皇子様、如何なさったのです!?」
「雫殿下……。何があったのです!?」
「うだい、じん……。あざが」
「痣?」
雫を抱き起こした厚平は、意識の朦朧とした雫の言う痣のある場所、腕を見て瞠目した。よく見るために袖をまくれば、真っ黒に染まった蛇の痣が熱を持っている。
「これは……」
「く、薬師を呼べ! 早急にだ!」
「はいっ!」
一帯は、普段では考えられないくらいに騒がしくなる。女房や貴族など、その場にいた誰もが慌てふためき、気を失った一の皇子をどうにかしなければとっ散らかった頭で考えた。
その中にありながらも、厚平は静かな目で周囲を見渡している。左大臣の兄がここにいない今、誰がこの場を仕切らなければならないかは明らかだ。
雫の口元に指を近付け、一つ頷く。
「皆、落ち着け。殿下は息がある。休めるよう、茵を仕度せよ」
「――はっ」
右大臣の指図とあって、徐々に空気が落ち着いていく。茵が整えられ、雫はそこに寝かされた。丁度その時、女房の一人に呼ばれた薬師が顔を見せ、雫の傍に座る。
「では、診させて頂きます」
薬師は壮年の落ち着き払った男で、一つずつ確かめるように視ていく。
その横で、厚平は近くにいた若い貴族に耳打ちした。その貴族は厚平のもとで働く者の一人であり、頼み事がしやすい。
「……歳之を呼べ。庵にいるはずだ」
「はっ」
青年が去るのを見届けると、厚平は薬師の邪魔をしないように部屋の壁側に寄って胡坐をかいた。口元を扇で隠し、薬師が自分の方を向くまで黙って見守ることに徹する。
やがて薬師が診終えると、厚平は「どうだ」と身を乗り出した。
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