第24話 後悔

 白蛇が咆哮し、空が震動する。糸季は体の均衡を崩し、和史に支えられた。


「立てるか?」

「ありがとうございます、左大臣様。ですが……」

「お前の言いたいことはわかる。あれはということだろう?」

「……はい」

「わからない。わからないが、あまり良いものではないのだろうな」


 空が揺れているのに、澪は表情を一切変えない。ただぼんやりと白蛇を見つめている。

 変わらないのは、糸季と和史以外も同じだ。これだけの異変が起きているにもかかわらず、騒ぐ様子がない。先程まで慌ただしかった邸の方も、今はぴたりと音が止んでいた。


(まるで、誰もいないみたい)


 奇妙な沈黙だ。しかしそれについて深く考えるために残された時間はなく、糸季は和史に礼を言ってすぐさま駆け出す。衣の裾で何度も転びそうになりながらも、持ち前の身軽さで澪へ近付く。


「――っ、殿下!」

「糸季、待……」


 和史が「待て」と言う暇もない。糸季は転がるように澪に駆け寄り、その身に手を伸ばす。

 しかし、その瞬間にバチッと小さな雷に撃たれたような衝撃が糸季を襲った。


「!?」

「糸季!」


 吹き飛ばされた糸季を助け起こした和史は、呻く彼女にホッと胸を撫で下ろす。少なくとも、命に別状はないようだ。

 瞼を上げた糸季は、咳込み顔を上げて眉を寄せる。


「すみませ……、左大臣様」

「いい。……しかし、あれは一体何なのだ?」

「……」


 わからない。雨神様の再来かと思ったが、それとも何かが違う気がする。糸季は首を横に振ったが、和史もそれはわかっていた。


「まあ、言ったところで詮ないが」


 今は何よりもまず、澪をどうにかしなければならない。目を覚まさせなければ。和史は糸季に「休んでいろ」と命じて座らせると、澪に向かって声を張り上げた。


「澪、聞こえていないのか!? お前は一体、何をしているんだ!!」

「……」

「お前は一度も、その力に呑まれることを望まなかったはずだ! 違うのか!」

「……? どういうことですか、左大臣様。澪殿下の力とは、一体何なのですか?」


 目を見開く糸季に、和史は振り返って諦めたように頷く。その口から発せられたのは、衝撃的な事実だった。


「澪は、間違いなくだ。本人にその自覚はなく、また今の今まで覚醒するなど思いもしなかったがな」

「でも、生まれ変わりじゃないって……」

「本人が覚えていないんだ。言う必要もない。偽りなく生まれ変わりだとしても、周囲は信じないだろう。あの幼き日、雨乞いに失敗したのも事実なのだから」


 でもそれは、と和史は続ける。


「雨神として目覚めていないのだから、当然だ。先程まで、澪はただの二の皇子だったのだからな」

「目覚め……」

「あの白蛇はくだが証拠だ。絵巻物の通り、雨神は白蛇を操り雨を降らせた。白蛇の紋は、その世代の雨神に現れる。……あの紋、痣が澪殿下にあると知った我が先代である父は、殿下が力を使うことのないようにと陰陽師に雨神様の力を封じるよう命じた」


 息を継ぎ、和史は言葉を続ける。


「だから、幼い日の雨乞いの儀は成功しなかった。封じられた力を使わせないようにしていたのだから、当たり前のことだな」


 しかし、そのせいで澪は疎まれ遠ざけられた。父親である帝や兄の雫、そしてこの前まで傍にいたはずの貴族たちや家人たちから。残ったのは、たった一握りだ。

 ふっと息を吐き、和史は「……それで守れたかどうかは疑問だな」と独りごちる。


「え?」

「なんでもない。その選択のせいで、澪が様々なものから距離を置かれることは懸念していた。それでも……幼いあの子を守る最善だと、その時は信じたのだ」

「……」


 澪は動かない。相変わらず感情のない瞳が白蛇を見守り、白蛇は体を揺らしながらこちらを凝視している。いつ何が起こるか分からない状況で、糸季は和史へぶつけかけた言葉を呑み込んだ。


(今すべきことは、殿下が悲しい思いをしてきたことを言うことじゃない。左大臣様は、ご自身でそれをわかっておられるんだから。……殿下を確かに支えておられるんだから)


 息を吸い込むと、わずかに雨の匂いがした。ここ最近、一度も雨は降っていないなと糸季はぼんやり考える。そして、左大臣を振り返って微笑んでみせた。


「澪殿下を正気に戻しましょう。話は、全てそれからですよ!」

「……ああ、そうだな。どうにかするしかない」

「はい」


 具体的な策がお互いにあるわけではない。それでも、やらなければならないことは明らかだ。


「澪殿下……」

「……」

「……必ず、貴方を取り戻してみせますから!」


 糸季が呼びかけても、澪は何の反応も示さない。それは心に直接石をぶつけられるような衝撃だが、ここで立ちすくむわけにはいかないのだ。

 糸季は息を吸い込み、吐き出す。そして、まずは澪に近付かなければと一歩を踏み出した。

 すると、突然空気が変わる。


「シャーッ」

「えっ」

「糸季、上だ!」


 和史の言う通り上を向けば、先程まで静かに空中にいたはずの白蛇が大口を開けていた。真っ白な口の中から、真っ白で長い舌がしゅるしゅると動く。そして、真紅の瞳が爛々と輝いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る