第6章 守り抜く者
第30話 拐かし
和史が厚平を呼び出し雫の前で話をすると決めた日、糸季は早朝目が覚めた。
(今日、だよね。左大臣様が、一の皇子様と右大臣様を前に話されるのは)
朝早いため、まだ音がしない。白みがかった空を見ようと渡殿へ出た糸季は、爽やかな風を感じて目を閉じた。
「今日、きっと全てが明らかになる」
「――それはようございましたね、姫君」
「!?」
誰もいないはずなのに、一体誰の声か。驚いた糸季が周囲を見回すが、誰の姿もない。しかし次の瞬間、背後に気配を感じて振り返ろうとした。
「はい、止まれ」
「――っ」
しかし、何故か体が動かなくなる。真後ろに立った何者かが、そっと糸季の口を手で覆った。そのまま動けずにいる糸季の耳元に、低い男の声が忍び込む。
「助けを呼ぼうとしても無駄無駄。きみは今、式に体を縛られているし、術で喉を塞がれているから。暴れることも、叫ぶことも出来ない」
「――!」
「ふっふっふ、凄いだろう? 流石陰陽師様って言ってくれても良いよ。あ、喋れないんだっけ」
けらけらと声を出さずに笑った男は、ふと笑いを収める。糸季の耳元に聞こえる声は、最初よりも更に低くなった。
「抵抗しようなんて思っても無駄なことは、わかっているんだろうけど。面倒だし、眠ってもらう」
「……っ」
ふっと男が息を吐き出すと、糸季は突然眠気を感じた。何とか眠らないようにと抗うが、段々と瞼が重くなる。
(三砂様、左大臣様。……澪殿下、ごめんなさい)
がくりと体の力が抜けた糸季の体を、男が担ぐ。そのまま音もなく、二人の姿は渡殿から消えた。
☆☆☆
糸季の姿がない。そのことに最初に気付いたのは、彼女を起こしに来た三砂だった。
「姫様、おはようございます。……姫様?」
御簾の前で形式的に礼をした三砂は、奥から何の音もしないことに疑問を抱いた。「失礼致します」と御簾を上げて中に入ったが、糸季の姿はない。起きた形跡はあるが、姿が見えなかった。
「……庭でしょうか」
不安が胸の奥に溜まる。三砂は意を決して再び渡殿へ出るが、結果は同じだ。
ただ散歩に行っただけかもしれない。三砂はそう考えようとしたが、ざわざわという胸のざわめきは一向に収まらないままだ。
「……誰か」
「三砂? いかがした?」
「左大臣様!」
天の助けとばかりに目を輝かせる三砂におののきながらも、和史は彼女の異常な様子に眉を動かした。
「……何があった? 糸季姫は」
「姫様が……姫様がおられないのです!!」
「何だと?」
低くどすのきいた和史の声に、三砂はびくりと肩を震わせる。しかし事実確認をしているのだと気を取り直し、真っ直ぐに和史の目を見つめた。
「昨夜、お休みになられるのは確かめました。しかし朝、先程様子を見た際、お姿がなかったのです」
「……中を見せてもらうぞ」
「はい」
三砂が御簾を上げ、和史はその内側へと足を踏み入れる。そこには確かに朝方までは糸季がいたという形跡があり、和史は珍しくちっと舌打ちをした。
「……向こうが先に仕掛けてきたということか」
「左大臣様……?」
「三砂、私の代わりに澪を呼びに行ってくれ。入れるよう、文を書く」
「わかりました。左大臣様は……」
「私は、約束通り一の皇子様に会おう」
その場で三砂の筆を借り、和史はさらさらと短い文を書く。一通の中に、門番をする家人と澪へ向けた指示が書かれた。
「これを家人へ見せろ。そして、澪にも」
「承知致しました」
三砂が急いでその場からいなくなると、一人残った和史は背中越しに糸季の局を眺める。主を失い、何となく寂しげに御簾が揺れている。
(お前は、それほどまでに澪殿下が邪魔なのか?)
眉間にしわを寄せ、和史はこの場にいない弟に心の中で呼びかける。いつの間に、これほど権力に固執するようになってしまったのだろうか。
(考えたところで、私は厚平ではない。あいつの心は、あいつにしかわかるまい。……同じように、厚平に私の心はわかるまいな)
空には雲が少ない。今日は雨が降るということはないだろう。渡殿から空を見上げた和史は、軽く息を吸い込む。
「ここで立ち止まっていても、何にもならん」
そろそろ、行かねばなるまい。和史はしかめっ面を解き、左大臣の顔をしてその場をゆっくりとした足取りで去る。足音を荒立てないよう注意を払い、雫の待つ宮へと足を向けた。
「……お前か」
「お前か、とはご挨拶ですね。ご機嫌麗しゅう、兄上」
宮へ向かう途中、和史はとある渡殿にて弟・厚平と鉢合わせした。
わずかに眉を動かした和史に対し、厚平は涼しい顔で兄に向かって挨拶の言葉を投げかける。だから和史は、内心を隠して眉を元の場所に
「元気そうで何よりだ。お前も……いや、ここで長話をする必要もない。後で、しっかりと話をする時があるのだからな。――行くぞ」
「ああ、わかった。目的地は同じだからな、兄上」
二人は何となく並び立ち、雫のもとへ行くために歩き出す。並んで歩いていたため、ただすれ違った者は、二人を仲の良い兄弟と思い認めたかもしれない。
しばらく歩くと、雫の宮が見えて来た。
「――雫殿下、和史です」
「ああ、よく来たな。入ってくれ」
「失礼致します」
「失礼致します」
雫に許しを貰い、二人は御簾の裏側へと体を滑り込ませた。
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