ここからは、保健体育の時間です。

小坂あと

第1話









 


















 五年目で異動してきた高校には、男子生徒達から絶大な人気を誇る保健室の先生が居る。


 背中まで伸びた黒髪は軽いウェーブを描き、出てるとこはちゃんと出ているがそれ以外は細く華奢な抜群のスタイル、赤い縁の眼鏡が嫌味なく似合ってしまうクールに整った顔立ち。赤いリップを際立たせるような顎元のほくろ。

 歩くたび揺れる黒髪と白衣の裾が、その妖艶さをより際立たせては、廊下を進むだけで男の視線をかっさらう彼女の名は⸺鵜飼緋弥うかいひのみ

 冷たい印象の中に、色気を多分に含んだ雰囲気が男子生徒、ひいては男性教員にも邪な感情を抱かせる彼女は自覚があるのかないのか……さらに煽る仕草で髪を手の甲で後ろへなびかせた。

 噂によれば、何がとは言わないが経験人数は三桁を超えると聞く。…要はそれほどまでに魅力で溢れ、なおかつ男慣れしてそうな人物ということだ。


「…鵜飼先生」


 そんな彼女に、すれ違いざまに声をかければ、カツカツと響いていた薄くヒールのついたクロスサンダルの音が止まる。


「…なんでしょう」


 肩越しに振り向いた顔には、分かりやすく警戒の二文字が張り付いていて、自分より背の低い彼女を見下ろしながら和やかな微笑を浮かべた。

 相手も微笑み返してくれたが、口元は僅かに引きつっていた。


「もう、お帰りですか?」

「……はい。最後に保健室へ寄ってから帰る予定ですけど…」

「それならちょうどよかった!私も退勤なんで、ご一緒させてくださいよ」


 踵を返して、何か言いたげな鵜飼先生の肩をぽんと叩いて隣を歩き出す。

 放課後で廊下にはチラホラと残っていた生徒達もいて、あまり目立つことは避けたいのか居心地が悪そうに鵜飼先生は肩を竦ませた。

 その足でふたりで保健室へと向かい、入ってすぐ後ろ手で鍵を締める。


「…かつ先生。生徒達がいる前で話しかけるのは控えてって、言いませんでした?」


 彼女は早々に苦情の言葉を投げてきた。


「すみません。…約束の日が明日なので緊張してしまって、つい」

「気持ちは分かりますけど、万が一バレたら…」

「鵜飼先生」


 文句タラタラな様子の彼女に一歩近づいて細く白い手首を掴めば、分かりやすく動揺して目をパチクリとさせて黙る。

 相変わらずかわいいな…なんて、誰よりも邪な思いを滾らせつつ、勘付かれないように努めて平静に声を出した。


「そんな、つれない態度はやめてくださいよ」

「つ、つれない態度なんてとってません。離してください」

「…だめですよ、鵜飼先生。忘れたんですか?」


 逃げようと体を捻らせた腰に手を回して抱き寄せる。


「こういう触れ合いも、慣れていかないと」


 そう言って微笑んだら、普段は落ち着きある静かな瞳が潤んで、情けなく眉が垂れた。

 きっと他の人は見れない乙女な反応に、今すぐにでもキスしたくなる強烈な気持ちは、ぐっと堪えなければならない。

 なぜならこれから始まる時間は、私の理性と信頼の元に成り立っているからだ。


「ほら、緋弥さん」


 手首を掴んでいた手を相手の手のひらに移動させて、指先は指の間に軽く入れこむ。


「ここからは、保健体育の時間です」


 体育教師である私の発言に、今は“養護教諭”ではなく“鵜飼緋弥”として接するほかない彼女の頬が可愛らしく赤らんだ。


 時間外になれば、私達は“教師と生徒”という特別な間柄に変わる。


 どうして、こんな関係性になったのか。


 事の始まりは、数週間前まで遡る。

















 一介の体育教師と養護教諭でしかない私と鵜飼先生の距離が縮まったのは、異動してきて少し経った頃に開かれた歓迎会でのことだった。

 お互い採用同期で年齢も28歳と同じ年、五年目で二校目という共通点の多さと同性というのも相まって飲み会の時からわりと打ち解けて仲良くなれたが、さらに関係性が深まったのはその後。

 意外とお酒には弱かったらしい鵜飼先生がヘロヘロに酔ってしまって、家も近かった私が送ることになり、ふたりでタクシーに乗り込んだ。


「大丈夫ですか?鵜飼先生」

「ん……だめ…」

「……だめなの?」

「…だめかも」


 酔った彼女は、最初に抱いていた自立してる女という印象とは打って変わって甘えたで、やけにとろんとした瞳と眼鏡越しに目を合わせて密かに心臓を高鳴らせた。

 外見だけでなく、返し方まで男慣れしてそうなのが……本当に噂通りいかがわしい人間なのかもと嫌なことを考えてしまった。

 そういう一面も見せてくれるくらい、この時点ですでにお互い心を開き始めていて、これが全ての始まりでもあった。


「心配だから、家の中まで送っていきます」

「な、中まではちょっと…」

「…そんなにフラフラで、歩けないでしょう?」


 目的地のマンション前に辿り着いてタクシーを降りてから、ひとりじゃまともに歩くことすらできない鵜飼先生に肩を貸してロビーへと進んだ。

 本人は嫌そうな気配を出してたけど、こんな状態で放置するなんて危険なことはできなかった。

 エレベーターに乗り込んで、教えてもらった部屋の階数を押す。

 

「ほんと、あの……玄関先までで、大丈夫…」

「分かりました。…すみません、無理言ってついてきて」

「や……気持ちは嬉しいんですけど…」

「うん。それじゃあ、ここまでで。失礼しますね」


 何か事情がありそうなことは察しつつ、深入りしないように気を付けて、部屋の前まで到着してからは約束通り玄関先で別れを告げた。

 が、体を離してすぐ膝が落ちてぐったりしてしまったから、やっぱり……とベッドの上まで運ぶことにした。

 酔っ払いながらも抵抗を見せていた彼女も諦めたようで、私に半ば肩に担がれて引きずられる形で廊下を進む。

 こんなにも嫌がるのは、実は部屋が汚いとかそういう理由かな?と立てていた憶測は、1Kなんだろう部屋に続く扉の向こうを見て……察した。

 

「……あの、鵜飼先生」

「はい…」

「ここ、本当に先生の部屋で合ってますか?」

「……はい」


 開けた先に待ち受けていたのは、なんとも乙女チックな一室で。

 カーテンやカーペット、それからベッドのシーツまで全てピンク色で統一され、ベッドの上には大きなクマのぬいぐるみ、それから部屋のあちこちにメルヘンな家具やら何やらが置かれていて面食らう。

 大人の女性感満載な容姿や学校での態度に似合わず、室内はまるで少女そのものを表しているかのようだった。

 戸惑った私の反応がさらに彼女の羞恥心をくすぐってしまったらしく、鵜飼先生は項垂れてグスリと鼻を鳴らした。


「笑ってください……こんな子供じみた部屋…」

「あー……いや、素敵だと思いますよ!ギャップがあって」

「お世辞はけっこうです」

「ほんとほんと。…かわいいじゃないですか」


 まぁ恋人とか連れ込む時は向いてないかもしれないけど…と、癖が強いなって感じた感想は心の内だけで留めておく。

 恥ずかしいのか何も言わず俯いた鵜飼先生をベッドまで連れていけば、彼女は真っ先に眼鏡を外して、置いてあった大きなクマのぬいぐるみに抱きついて顔を隠した。

 行動ひとつひとつが幼く見えて、実はこの人ものすごく中身は子供っぽいのでは…?ってうっすら勘付いてしまう。


「私はもう帰りますね。戸締まりはしっかり…」

「あの、勝先生」


 顔はぬいぐるみの胸部にうずめたまま、手さぐりで私を捕まえようとした細い指先が、服の袖に引っかかった。


「この部屋のこと、誰にも言わないでください…」


 本人なりにギャップが激しいと自覚があるのか、そんなお願いをされる。

 ベッドのそばにしゃがみ込んで、過剰に肩をビクつかせた相手の手を握って誠心誠意、見えなくても頷くだけ頷いた。


「もちろん。…約束します」


 チラリ、と伺う瞳にも真っ直ぐに見つめ返して、より安心感を与えられるよう小指同士を繋げる。

 結果的にこの行動が彼女の中で大きな信頼へと繋がってくれたみたいで、ムクリと体を起こした鵜飼先生は照れたように口元を緩ませていた。

 そして、赤いリップが残る唇が薄く開かれる。


「夜も、もう遅いから……泊まっていっても、いいですよ」


 随分と懐かれたらしい。

 素直じゃない言い回しで「まだ帰らないで」とお願いされたら、断る選択肢は頭の片隅へ消え去った。

 ひとつ心配事はあるが……本人にバレなければ何も問題はない。


「…酔い覚ましに、お風呂行ってきます」

「あぁ、はい。分かりました。私も後でお借りします」


 頭を冷やすためでもあるんだろう、ベッドを降りて部屋を出ていった後ろ姿を見送って、一旦ホッと胸を撫で下ろす。

 正直、もっとツンケンした感じの人だと思ってたから、今日は知らない一面ばかり見れた驚きと戸惑いの連続で心臓に悪い。

 あまりの可愛さに、思わず抱いてしまうところだったが、同じ職場の人とそういう事になるのは絶対に避けたかった。

 ……私がレズであることがバレるのは、非常にまずい。

 大きな秘密を抱えたまま、彼女との親睦を上手い具合に深めていく中で、不安とムラムラは募った。

 とりあえず心を落ち着かせるためキョロキョロ無遠慮に部屋中を見回して、不意に。

 本棚にズラリと並んだ、数多くの漫画達が目に止まった。


「……少女漫画?」


 これまた意外なジャンルの本をひとつ手に取って、試しにページをめくって中を覗いてみる。

 おそらく中高生向けに描かれているんだろう、やたらめったらキラキラした人物画を眺めながら、こういうの好きなんだ…とさらに意外に思った。

 とてもじゃないけど、経験人数が三桁を超えるような大人色気魔人が読むにはピュアな内容すぎて、ひしひしと覚えた違和感が頭の隅に残る。

 少女漫画以外にも、本棚には恋愛に関する心理学的なものも並んでいて、とにかく興味が高いことは察した。

 そのわりに……


「あ……やだ。なにしてるんですか」


 退屈しのぎに読み進めていたら、手短にシャワーを終えて戻ってきた鵜飼先生が恥じらった声を出して私のそばへとやってくる。


「…こういうの、好きなんですか?」

「わ、悪いですか。人の家の物を勝手に触るなんて非常識ですよ、返してください」

「……すみません」


 少女漫画を奪い取って棚へ戻した鵜飼先生の格好は、露出の高いワンピース型のネグリジェで、そこに関してはまさにイメージ通り。色気のある姿だった。

 しかし眼鏡をかけていないせいか、はたまた拗ねた表情のせいか、顔は普段より幼く見える。


「こ、この歳になってまで少女漫画なんて…って思ってるんでしょうけど、バカにしないでください。これは本当に大人でも楽しめる良い作品なんです」

「…思ってませんし、言ってませんよ」


 どうやら自分の趣味趣向にコンプレックスを抱いているらしい鵜飼先生は、こちらが何かを言い出す前に言い訳じみた言葉を並べ始めた。

 別に誰がどんなものを好きであろうが、特にこれといった興味もない私からすればどうだっていい話だ。

 それでも、鵜飼先生本人には興味の矛先が向いて、浮かんでいたある疑惑を口に出してみようと私が声を出す前に、


「べ、別に、男性経験がないからこういうもので解消させてるとか、そういうんじゃないので。誤解しないでください」


 自ら、墓穴を掘ってくれた。


「……男性経験、ないんですか?」


 まぁなんとなく、そうだろうなとは思ってた。

 女の私と距離が近いだけで過剰反応しちゃう免疫の無さとか、好んで読んでる漫画の内容の純粋さとか、今まで誰も部屋を上げたことがないんだろうな…って反応とか。

 男慣れしていたらありえないことの連続だったから。

 だから思っていたほどの衝撃は受けなかったものの、相手の目に涙が溜まったことには驚く。

 しかしそれにしても、あの鵜飼先生が……経験人数三桁声の噂の持ち主で、実際に男達からモテまくっている、あの。


「二十八歳で処女…?まさか。嘘でしょう?」


 どこか信じられない気持ちでさらに追い打ちをかけることを言ってしまえば、ムッとなった顔で彼女は口を開いた。


「っ…わ、悪いですか!だいたい、出会いもないし運命の人も現れないんだから仕方ないじゃないですか」

「悪くないですよ、何も」


 運命の人…ね。

 その言葉一つに、彼女の純真無垢さが全面に現れていた。


「私だって恋愛してみたいんです…でも、だけど、誰でもいいわけじゃなくって…」

「うんうん。分かりますよ。そういうのは大切にしたいですよね」

「そうなんです……でも…私、人と距離が近いの苦手で……そもそも人見知りだし…うぅ」


 まだ酔いが残っているのか、ポロポロと泣きだしてしまった鵜飼先生の肩を抱いて背中をさすれば、動揺を隠しきれず全身を萎縮させていた。

 多分、男相手どころか同性慣れすらしてないんだろう。

 確かにこんなんじゃ、恋愛なんて進めそうもない。現実は漫画とは違い、より生々しく…時にはグロいようなことだって平気でするし触る。


「……鵜飼先生」


 そこで私はひとつ、お節介かもしれない提案を思いついてしまった。


「よければ、私で慣れていきませんか」

「…え?」

「ほら、私は同性ですし、こうして秘密も知ってしまった仲ですし……人との接触に慣れるには、ちょうど良くないでしょうか」


 うまいことつらつらと言葉を並べれば、顔を上げた鵜飼先生の潤んだ瞳の奥に、希望が宿ったように見えた。

 本人も気にしてるようだし、この先の恋愛を少しでも安心して進めるためのお手伝いがしたい。

 心配だから。…という言い訳と。

 心の奥底ではもっと仲良くなりたいという、下心みたいな思いもあった。

 そんなありがた迷惑極まりない発想に対して、普通に良案だと思ってくれたのか澄み切った目で見上げられる。


「最終的に、鵜飼先生が運命の人と結ばれるよう、全力でサポートしますから。…どうですか?私と色んな恋愛の練習をしていくというのは」

「恋愛の、練習…」

「うん。慣れておけば、いざという時に役立ちますよ。ここはひとつ、授業を受けると思って。学校では教えてくれない保健体育の授業…的な?」


 さすがに無理のある説得かな、と心配したが……思いのほか単純だった鵜飼先生は納得してくれたようで。


「ぜ、ぜひ……お願いします!先生」


 縋るように、首を縦に動かしてくれた。


 こうして、“教える側”と“教えられる側”という立場が誕生した。

 







 












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