第18話























 プールを出たのはまだ空も明るい夕方のうちだったが、場所が遠いこともあって電車に揺られること数時間。

 鵜飼先生の家に着いたのは、空もすっかり夜空へと暗く色を変えた夜のことだった。

 疲れ果てた私は徒歩で自分の家に帰る体力も残っておらず、仮眠を取らせてもらうため家に上がって、


「ただいま、もち太郎……寂しかったね、ごめんね?」

「……ぬいぐるみに感情はありませんよ」

「あります!いつもいつも遠出で置いて行っちゃう時はこうしてるんです。離れ離れになってた私達の感動の再会を邪魔しないでください」

「あー……はいはい。それは失礼しました」


 もち太郎には包み隠さず全開の甘々対応をする鵜飼先生の行動に、疲れてるせいかヤキモキしつつベッド脇へと雑に腰を下ろした。


「んん〜……かわい。もち太郎は今日ももちもちでかわちいね」

「…どっからどう見てもふわふわ毛質のふわ太郎ですよ」

「……さっきからなんなんですか。どう見たってもちもちです、ほらここ。見てください」


 酔いが覚めきってないのかもち太郎を全力で甘やかす彼女に横から苦言とも嫌味とも取れる言葉を返せば、少し怒った顔でもち太郎の右手を上げて確かにもちもちそうな肉球を見せてくれた。

 いや、それにしてももちもち要素そこだけ…と思ったものの、あまり言いすぎても良くないと堪える。


「もち太郎……聞いて?今日ね、あの人に痴漢されたの」


 クマのぬいぐるみをバックハグして、手をイジイジしながら遠回しに苦情を投げてきた鵜飼先生の方を見れば、彼女は可愛らしく唇の先を尖らせていた。

 せっかくだから、これ以上はもう好き勝手言われないように…という言い訳がてらキスしてやろうと企んで、膝をシーツに乗せて四つん這いの姿勢を取る。

 しかし察してしまったらしい鵜飼先生は、もち太郎の影にサッと隠れてキスの予感をいとも容易く回避してきた。

 ……まずいなぁ。

 一度キスしたせいで、感触を忘れられなくて自制が効かない。

 内心困りすぎた思いは表にも現れて、後頭部を荒れた仕草で掻く。


「今日は、帰ることにします」

「え。どうして…」

「このままだと、またキスしてしまいそうで……鵜飼先生を傷付けたくはないので」


 馬鹿正直に今の気持ちを吐き出せば、もち太郎の背後からチラリとこちらの様子を覗いてきた可愛い小動物の手が伸びてくる。


「べ、別に……傷付くだなんて、言ってません」


 そして、これまた可愛いことを言って、可愛らしく私の小指を控えめにきゅ、と握った。

 そんなことをされてしまっては、いよいよ欲望は爆発して……キスどころじゃ済まなくなりそうだったから、頭を冷やすためベッドを降りてベランダへ足を運んだ。


「っま……待って?蒼生さん」


 タバコを吸おうと試みた私に対して、何を勘違いしたのか。


「キス、いやじゃないです」


 慌ててついてきた彼女は後ろから抱きついて、緊張しすぎて震えて舌っ足らずになった口調で、それでも勇気を出して伝えてくれた。

 きっと私が、拒絶されたことに嫌気が差してタバコを吸いに行こうとした…と、そう不安に思っての行動なんだろう。

 胸の下に回されて服を弱く掴んだ手も震えていて、彼女の抱く不安や恐怖心が言葉にしなくても伝わってきた。


「…一旦、タバコ吸ってもいいですか」


 それでお互い落ち着きましょう、と暗に伝えてポケットから取り出したタバコを見せたら、彼女はコクンと首を浅く動かした。

 ふたりでベランダへ出て、手すりに腕を預けた状態で風除けに手を当てながらライターの火を灯す。鵜飼先生は隣で、手すりにちょこんと両手を置いてその様子を眺めていた。

 煙を吸い込んでは吐き出して、体の向きを変えてベランダのさくを背もたれにした私を、何も言わずにじっと見つめてくる。

 しばらく会話はなく、変に話題を出して取り繕うこともせず、チリチリ燃えていく紙と乾いた葉が灰に変わる様子を眼下に眺めた。

 口から漏れ出た煙は星の散りばめられた空へと溶けて消えて、それを目線で追えば、彼女もまた同じ動きで白く登る煙を見上げていた。


「急にキスして、ごめんね」


 タバコの火もフィルター近くまで来て吸い終わる頃、姿勢をまたベランダのさくに腕を置く形に戻して謝れば、私の方を向いて彼女は柔らかく微笑んだ。


「謝るのが、遅すぎます」


 全てを包み込んでくれそうな優しい表情と、棘のある言葉使いのミスマッチがあまりにも彼女らしさを醸し出していて。

 それが、どうにも愛おしく思えて……つい。


 二度目のキスも、欲望の赴くまま。


 自分でもほとんど自覚がないうちに落としてしまったキスを、今度は穏やかに目を閉じて受け入れた鵜飼先生の瞼の動きを見て、ホッと胸を撫で下ろす。


「……タバコくさいのは、やだかも」

「はは。以後、気を付けます」


 唇が離れてすぐ貰ったクレームには冷静に対応しつつ、怒られた元凶でもあるタバコの火を…いつからか用意されていた灰皿に押し付けて消した。

 キスまで許されてしまったら、いよいよ最後までできるのでは…?という邪な思いを抱えて、仮眠じゃなくて泊まることにした私は先にお風呂を借りて着実に心の準備を整える。

 彼女がお風呂に入っている間は、通常通り。


「……なんだ、タバコ好きな原因はこれかぁ…」


 もはや私の趣味にもなりつつある少女漫画を読んでいる途中で、タバコを吸う男が出てきて盛り上がっていた気持ちは僅かばかり萎えた。

 なるほどね……ある意味で理想的ではあったわけか。

 落ち込みはするが、仕方ない。彼女は元々ノンケで、私に出会う前まで何も経験がなかった生粋の夢見がち乙女。

 今さら、男が好きだという事実に悲しむことはない。

 と、言い聞かせてなんとかメンタルを保つ。


「あ…上がりました」

「あぁ、はい。おかえりなさい」


 どこかぎこちない感じで戻ってきた鵜飼先生の姿を見て、パタリと漫画を閉じた。

 彼女は何かを期待しまくって緊張した面持ちで、ベッドに座っていた私の隣へとやってくる。


「そ、それ……面白いですよね。気に入ってて、何度も読んでます」

「へぇ……そうなんですか。私は初めて読みました」

「あ、相手の男性がすごく格好よくて、読むたびドキドキしちゃって…」


 場を和ませるためか、はたまた自身の緊張を和らげるためか、普段よりお喋りな鵜飼先生の貴重な一面を視界に捉えて離さず見つめた。

 ただ、一所懸命に漫画の話をしてくれるのは嬉しいが……架空の登場人物とはいえ、他の男の話をされるのは好ましくないもので。


「練習は、どうしますか」


 私の方から話を切り出せば、動揺して泳いだ瞳の動きが胸の奥をむず痒いくらいにくすぐってくる。


「き、キスの先はまだ、ですよね…?」

「……鵜飼先生が望むのであれば、私はいつでも」

「っ…ご、ごめんなさい。今は、キスだけで精一杯で…」


 聞いてきたからてっきりさせてくれるもんだと思ったのに、これには拍子抜けした。

 でもまぁ……焦ってばかりでもしょうがない。

 ここは大人の余裕を見せつけるのにもってこいの場面だと前向きに捉えて、それなら今は慣れていない彼女を存分に楽しもうと気持ちを切り替えた。


「それでは、まず…キスから慣れていきましょうか」


 シーツの上に手をついて、相手の体を半ば押し倒す勢いで距離を縮める。

 警戒と緊張と動揺……全てが合わさった彼女の瞳は涙で潤んでいて、少しばかり心が痛んだ。

 こんなにも純情でまばゆいほど初心うぶで潔白な鵜飼先生に対して、色々を知ってしまっている私はなんて汚い大人なんだろう…と。

 珍しく、センチメンタルな気分になる。

 手を出してこないことを不思議に思ってか、今は眼鏡もしてなくて幼く映る顔が心配そうに視界を埋めた。


「し、しないの…?」

「……我慢しようかな、って」

「どうして?」

「緋弥さんが、かわいすぎるから。…ひどいことしちゃいそう」


 こういう時は素直に言った方が良いと、これまでの経験から理解しているところもまた、ずるい大人だ。

 きっとこんな駆け引きの仕方を……彼女は知らない。

 たとえ知っていても、しない。できない。


「え、えっちはまだ……それに今は、もち太郎も見てるし…だめ、です」


 無垢すぎることを平然と言えちゃう鵜飼先生が、できるはずもない。…そこが可愛くてたまらないんだけど。

 にしても、くそぅ……もち太郎がいなければ、もしかしたらえっちできてたかもしれないのに。憎いやつめ。もち太郎。

 もはやここまで来たら、ある種ライバルである。


「ははっ…もち太郎には敵いませんね」


 まさかこの年になって、ぬいぐるみ相手に悔しい思いで嫉妬するだなんて思ってなかった。

 私まで学生時代の、まだ何も知らなかった頃の初々しさを取り戻したとさえ錯覚できるのは、彼女の真っ直ぐさ故だ。

 疲れた心に、癒やしが染み渡る。

 セックスが無くとも、キスさえできなくても、こうして会話を重ねるだけで満たされると感じたのは、いつぶりだろう。

 …前の彼女は、会うたびヤッてたからなぁ。

 その前も、そのまた前も。いくら遡っても、そんな相手は存在してなかったかもしれない。


「今日は練習なしで、寝ましょうか」

「う、うん…」

「その代わり、色んなお話をしましょう。鵜飼先生の理想、まだまだあるでしょう?それを教えてください」


 運命の人なんていないと思っていたが、そうでもないかも…と思わせてくれる相手を、そうやすやすと逃しはしない。

 となれば……後は好みを探って、彼女の望む告白に挑むだけだ。

 同じ毛布に潜り込んで寝転んで、さり気なーく理想の深堀りをしつつ物理的にも距離を詰める。


「理想は、そうね……社会人ならやっぱり夜のフェリーに乗って、夜景に包まれた中でのプロポーズとか」

「うーん、それはお金がかかりそう…」

「じ、じゃあ…後は、嫉妬に身を任せて、え…えっちなことを乱暴にしてからの告白も、す、好き…です」


 違和感なく私に抱き包まれながら、けっこう際どい性癖全開な理想を語ってくれる彼女の声に耳を澄ませて目を閉じた。

 寝ないように…と気をつけたつもりが、その日はあっという間に意識は暗転していて。


「……人が話してるのに途中で寝るなんて信じられません」

「すみません…」

「寂しかったとか、そういうわけじゃありませんけど、次からは私より先に寝ないでください。つ、疲れてる時は仕方ないけど…でも、そういう時でもぎゅーはしてて」

「分かりました、すみませんでした…」


 翌日の朝、起きてすぐとてつもなく拗ねた顔で怒られてしまった。

 



 



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