第19話
学生にとっての夏休みが終わる頃、我々教員は大忙しである。
特に養護教諭である鵜飼先生は今のうちから行われる修学旅行に備えた業務でてんてこ舞いになっており、私も私で日頃の授業準備や校内研修やらで時の流れを感じる暇もないくらいの多忙に追われていた。
連休中ののんびりまったりとしていた時間が嘘だったみたいに、毎日が大慌ての日々続きだ。
そうこうしているうちに新学期が始まりを迎え、おかげで積み重なった残業により今日も今日とて深夜近くまで資料作成なんかに没頭する。
「夏休み、勝先生は何して過ごしてましたか」
「いやぁ……特には。プール行ったくらいですかね。橋田主任は?」
「俺は家族サービスの毎日でしたよ。こういう時くらいしか家族との時間取れないからなぁ…って気持ちで」
「そっか、結婚してるんでしたね。しかし家族サービスかぁ……大変だ」
「はは、良いもんですよ。奥さんと子供とゆっくり過ごすのも。…そういえば勝先生は、結婚は?」
「今のとこ、そんな予定は皆無です」
「えーーー?若いし美人なのに。もったいない」
「そうですねぇ…」
夜遅く、たまたまタバコを吸いにシャワー室へ行ったらばったり主任と出くわして、その流れで会話を始めた。
橋田主任は典型的な“結婚に重きを置くタイプ”の人間で、顔を合わせればやれ結婚は?子供は?としつこいから、正直あまり得意ではない。…書類なんかも忘れて期限ギリギリになって言ってきたりするし。
だけど彼を見てると、家族大好きな彼でもこんな時間まで帰れず残業していて、改めて教員という職業の大変さを痛感する。もちろん他の仕事も同じだとは思うが。
恋愛をしてもこの忙しさが災いして、会えないことが影響してどんどん不仲になっていった過去も思い出してひとり苦笑してしまった。
鵜飼先生が同じ学校でなければ、会うことさえ叶わなかったことを思うと、同じ学校でよかったと思う反面。
「お、鵜飼先生。…鵜飼先生もタバコ吸うんでしたっけ?」
「いえ……勝先生に用があったので。ここにいるかと」
「あぁ!そうでしたか。…あ、せっかくならここで勝先生と話していきます?ほらほら、ここ座って。鵜飼先生」
私に会いに来たという鵜飼先生は、橋田主任にゴリ押しで招かれて用意されたパイプ椅子に腰を下ろした。
お尻側から膝の後ろに手を入れてスカートと白衣がシワにならないよう配慮された座り方ひとつ色気を醸し出す彼女を見て、橋田主任の口元に微笑が混じったのを視界の端で捉える。
……妻帯者でしょう、あんた。
呆れて口には出さないものの、彼の中の下心を察してタバコの煙に紛れてため息を吐き出した。
「今ちょうど、結婚の話をしてまして。鵜飼先生は結婚とか…」
「そういえば……仕事の話で来てくれたんですよね。何か困りごとでもありましたか」
私が配慮の欠片もないやり方であからさまに話を逸らせば、橋田主任は面食らって気まずそうで嫌そうな空気を出したものの、気にせず鵜飼先生の方を向いて笑いかけた。
「大したことではありませんので、後でふたりの時にお話します」
「分かりました。…タバコ吸うまで待っててもらえますか。それか、先に保健室へ…」
「ここで待ちます」
「……そうですか。少々お待ちを」
手短に会話を済ませて、彼女の方へ煙が行かないように窓際へと縮こまる。
橋田主任はその隙に、と自分が持っているタバコの火や煙のことなんか気にも留めず鵜飼先生の元へと歩み寄った。
戸惑いながら見上げた上目遣いが、タバコを吸う大人が好きな彼女のキュンとした表情にも見えて……醜いような嫉妬心を僅かばかり疼かせる。
私以外にそんな顔見せてほしくなくて、だけど言葉にして伝えることはできないから押し黙った。
「鵜飼先生は、結婚とか。彼氏とか、いるんですか?どう考えてるの、そこら辺」
「…彼氏みたいな人はいますので、ご心配なく」
「あぁ、やっぱりいるんですね。でもそうかぁ、鵜飼先生みたいに綺麗な人、いないわけないですよね」
「そんな、お世辞は結構です」
「お世辞なんて言ってないですよ。ねぇ、勝先生。勝先生も、美人だと思うでしょ?」
「……そうですね。同性から見ても、魅力的だと思いますよ」
話を合わせるついでに本音を曝け出せば、目を泳がせて頬を赤らめ、俯く。
今ここに主任がいてくれて、逆に良かったかもしれない。
いなかったら、危うく校内だというのにキスをひとつどころかふたつみっつ落としているところだった。
「しかし彼氏みたいな人って……どんな方ですか?付き合う前ってこと?」
「ええ、まぁ…はい。そうです」
「ふぅん……どこで知り合ったの」
「…すみません。仕事を思い出したので、一旦失礼します」
際どい質問には冷静に対処して、軽い会釈を残して鵜飼先生はシャワー室を去っていった。
「あれはマッチングアプリとか…そこら辺かな。言いたくないってことは。もしくはセフレか…」
「……主任、あんまり詮索するのも。無粋ですよ」
「そうかぁ…そうですね。しかし相変わらず、お綺麗な人だ」
どこか思い馳せるように扉の外へ視線を向けた主任にはガッツリ釘を刺しておこう…と口を開く。
「…奥さんに浮気してたって、言いましょうか?私から」
「っは、はは!ご冗談を。やだなぁ、勝先生。人聞き悪いことを言うもんじゃないですよ」
あんたが誤解されるようなことしてるからでしょう、なんて苦言は心の底に押し込めた。これでも大人だ、見てみぬふりも必要なのである。
鵜飼先生と同じ職場なのは良いが、こういうこともあるから……その度にメンタルをやられるのは、けっこう辛いものがあった。
しかしそれも、仕事だから仕方ないと割り切る。
何より私と付き合おうが、付き合わまいが彼女の魅力は変わらないから。そればかりは諦めるほかない。
「…さてと、吸い終わったし、私はそろそろ仕事に戻りますかね」
「お疲れ様です、俺もすぐ戻るわ」
「はーい。…ゆっくり吸っていってくださいな」
タバコの火を消して、胸ポケットからミント味のタブレットを取り出して何粒か口の中に放り込む。
爽やかな香りと僅かな甘みを奥歯で噛み砕いて広げたら、眠かった頭もどんよりしていた気分もいくらかマシになった。
シャワー室を出てそのまますぐ保健室へ足を運ぶ。
「…話って、なんです?」
暗い廊下を進んで、光の漏れてる扉を開けて聞いたら、事務作業をしていた鵜飼先生の手が止まった。
「……わざわざ来なくていいのに」
「鵜飼先生がわざわざ喫煙所までお迎えに来てくれたんで、これはお礼というか…まぁ、お返しです」
室内に足を踏み入れながら適当な返事をして、さり気なく用意してくれた椅子に座る。
私が座ったことを確認して、彼女もこちらに体を向けた。
「で、話って?」
「あるわけないじゃないですか」
聞けば平然と返されて、苦笑しつつ肩を竦ませた。
「…そういえば、彼氏みたいな人いるんですか?初耳なんですが」
テーブルに肘をついて顎を支え、足を組むという…なんとも偉そうな態度で言うと、鵜飼先生の表情が僅かだが曇った。
悔しそうな顔にも見えなくはないが、まぁここは気のせいということにしとこう。
相手は誰だか、もちろん分かっている。
「いつの間に作ったんですか?」
「あなた以外にいると思いますか、勝先生」
分かった上で意地悪く質問した私に、いつだったか自分が言ったことをそっくりそのまま返された。
…いい意味で根に持つの、ほんとかわいいなぁ。覚えてるんだ、そういうの。
嬉しくなって、咄嗟に相手の手首を掴み持って引き寄せる。
足をよろつかせて倒れ込んだ鵜飼先生の体を強く抱き締めたら、彼女は腕の中で小さく縮こまっていた。
「な、なによ。いきなり…」
「疲れたから、癒やしてくれます?」
「……私も疲れてるんですが」
「だめ?」
「…いいけど」
許しをもらえたなら、後は早い。
「……ベッド、行きましょう。緋弥さん」
もちろん、最後までするつもりはない。
が、キスはする気満々で誘えば、悩む素振りを見せた後で彼女は首を縦に動かした。…学校だからだめって言われるかと思ったから、驚きつつホッと胸を撫で下ろす。
「しっかり掴まってて」
「は…い」
首の後ろに腕を回させて、いつだか望まれていたお姫様抱っこを実現させながら一番奥へのベットへと歩み進む。
鵜飼先生を下ろした後は一度鍵を閉めに離れて、戻ってきてからも外から見えないようカーテンを閉めた。
そしてようやく、改めてベットの上で寝そべって天井と向き合い、枕を抱え持っておとなしく待機していた彼女を抱き締めに行った。
「お待たせしました」
「…お、お待ちしてました」
「っはは……はぁ、かわい。なんですか、それ」
覆い被さるようにして跨れば、私のYシャツを掴みつつやけに素直な声で甘えてきたことがもう、癒やしと一つとなって表情を緩ませる。
かわいいついでに頬へ軽く口づけて、緊張して強張った口元を指先でいじりながら、もう片方の手で腰を強く抱いた。
嫉妬されるのが好きな彼女だから、さっき心に滲ませた嫉妬心をそのまま表して乱暴に、自分の感情だけで抱き潰してしまおうかとも考える。
それなら、きっと彼女の理想に沿った形で告白も受け入れてくれるんじゃないか…って。
「なんか……これだけでも癒やされちゃったなぁ」
ずる賢いばかりの思考は、ずっと欲していた体温を手に入れられた途端、砕け溶けた。
相手の胸元に耳を当てて、目を閉じる。
だいぶ早いとは心音が愛おしくて、これまたムラムラよりも安心感や慈しむ想いが勝ってしまった。
「…もう、終わりですか?」
だけどそんな平穏な時間も、頭上から聞こえてきた震えた声に心臓が反応して終わる。
「私はまだ……足りないです、勝先生…」
頭を持ち上げて見上げてみたら、赤い眼鏡の向こうにある瞼が静かに落ちて、彼女の方から顔を近づけて来てくれたかわいい仕草が見れた。
相手から望まれたら、やらないわけがない。
据膳食わぬはなんとやら……の精神で私も瞼を下ろして、熱く火照った輪郭に手を当てる。
そうして、互いに求めあった結果。
練習を口実にすることも忘れた私達の唇は、いとも簡単に重なり合った。
たかだかキスひとつで浮かれて、心臓を締め付けれるなんて……高校生の私ですら思わなかっただろう。
苦しいくらいの繋がりは、数秒も持たずして離れる。
荒く、やけに湿度の高い吐息がふたりの間で絡まり合うと、その温度だけで達せる気がした。
鵜飼先生も、同じ気持ちでいてくれたのか、
「……せん…せ」
「…なんでしょう、緋弥さん」
「もっと、キスの練習したい…です」
のぼせきった表情と必死に服を掴む仕草でねだられて、だけどしっかりと言い訳となるであろう材料の言葉を伝えてきた。
まだ続きがしたい。でも、本番へ進むのは怖い。
そんな彼女の葛藤を映し出しているみたいに揺れ動く瞳を見下ろして、できるだけ優しく…優しく、髪を触る。
「大丈夫。…何回だって、練習しましょう」
そしていつか、私と本物の恋をしましょう。
そう言いかけて止めたのは、
「はは、タイミングが悪い…」
コンコンというノックの音が、響いたからだった。
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