第20話
ノックの正体は、橋田主任だった。
ふたりの関係性がバレないよう徹底してベッドのシワなんかも元の状態に戻し、何食わぬ顔で扉を開けたら、
「すみません、電気がついていたもので気になって……まさか勝先生もご一緒だったとは」
チラチラと私の顔色を窺いながら言葉を選ぶ彼は明らかにおかしい挙動をしていて、その時点で私は勘付いてしまう。
この時すでに苦言を呈そうか悩んだが、ここはおとなしく見守ることにしよう。
…鵜飼先生が、他の先生に対してどんな反応を見せるのかも気になる。
ここはグッと耐えて様子を見ることにして、私がガン見していると話しづらそうな気配を察知して何気なくスマホを開いた。
「あー……どうぞ、私のことは気にせず」
あたかも来ていたメッセージを返すみたいな仕草で指を動かしたものの、当然のことながら文字は打ってない。
私が画面に集中したのを確認して、今のうちだと橋田主任はウキウキで話し出す。
「鵜飼先生は、バス通勤でしたよね。よければ俺が送っていきますよ。夜も遅いですし」
「あ……いえ。大丈夫です。最悪、徒歩でも帰れる距離ですので」
「だけど、遠いでしょう?俺の車で送っていきます。いやもう送らせてください」
けっこうしつこいなぁ…と思いつつ、待つ間に私はさり気なくマッチングアプリで知り合った女の子との連絡を始めた。
私に助けを求める気配もない彼女は、この困難をどう乗り越えるんだろう…?
「申し訳ありませんが、私も大人ですので。ご家庭がある男性の車に乗ることは控えさせていただきたいです。なので、お気持ちだけで結構です。ありがとうございます」
おぉ、これはうまい。
上手な交わし方に感心するが、表には出さない。
しっかり伝えるところは伝えて、感謝も忘れない。これは大抵の大人なら無理だと悟って身を引くしかないんじゃないか…?
さすが、普段は幼いところばかり見ていて忘れがちであるが彼女も立派な大人である。誘われ慣れもあってか、断り方は最高点と言ってもいいだろう。
…多少の贔屓目は、もちろんあるが。
これなら橋田主任も諦めるだろうとタカを括って、それでも聞かないフリは続けた。
「そーんな警戒しないでくださいよ!逆に考えてください、俺に妻がいる事はみんな知ってるし……ほら、勝先生も見てる前でこんな堂々と怪しいお誘いなんてするわけないでしょ?」
しかしこの男、橋田は折れなかった。
私が残っていたことが、逆に彼への助け舟になってしまったようで、
「だから大丈夫です!安心して俺の車に乗ってください!」
人のことを利用してもなお隠しきれない下心を持って、満面の笑みで言い放った橋田主任に、予想外のことだったのか鵜飼先生は目をぱちくりさせて驚いていた。
困り果ててる彼女を、どう助けようかスマホに視線を落としたまま冷静に考える。
念のためしていた録音は……セクハラで訴えるには足りないかなぁ。そもそも、そこまで大事にしようとは思ってない。
だとすれば、ここは普通に……
「ほら、仕事ももう終わりでしょ?行きましょうよ、鵜飼先生」
「え……やっ…」
あくまでも平和的に。
そう考えていた私の思考回路は、無遠慮に肩に手を置かれて過剰な反応を見せた鵜飼先生の怯えた表情を見て吹き飛んだ。
「…すみませんが、橋田主任」
どう思われるか、とか関係なくふたりの間に手を伸ばして割って入って、庇うように立つ。
「これから打ち合わせも兼ねて食事に行く予定ですので、今回は私が送っていきますね」
角が立たないようニコリと笑って、さり気なく後ろ手で探って鵜飼先生の手を握った。
大丈夫、と伝えるため背中に隠れた手で何度か撫でたら、マイペースな彼女はこんな時だと言うのに手のひらに何かを書き始めた。…文字?
何を書いたのか気になるところではあるけど、先に橋田主任を帰らせよう。
「これから打ち合わせって……鵜飼先生が可哀想じゃないですか」
「なんにせよ、ついでに私が送っていくので大丈夫ですよ。ご安心ください、橋田主任」
「でも…」
「家で奥さんと子供が待ってるんでしょう?鵜飼先生を送ってる時間がもったいないですよ。…こんな夜ですし、今日はもうお帰りになられたらどうです」
丁寧な言い回しの中に気疲れはしない程度の敵意を混ぜて伝える。
気まずい空気は察しておらず、そういうことなら…と私の言葉を鵜呑みにして身を引いた橋田主任は、用がなくなった途端そそくさと保健室から退散した。
今後も心配だなぁ……あの感じだと、いずれ無自覚にセクハラしそうで。
もちろん彼の身を案じてはいない。
私が案じているのは、
「で……何を書いてるんですか、鵜飼先生」
未だ人の手で呑気に遊んでいる、背後の彼女だ。
ため息混じりに呟いて後ろを向けば、パッと手を離されて顔も背けられた。
「わ、分からなかったならいいです」
「気になるんで、教えてもらえますか?」
「…ば、ばかって書いただけです」
「ひどいなぁ……冗談でも傷付くんですが」
「……女子って書きました」
「は?じょし…?」
「っも、もういいから!行きますよ、送ってくれるんでしょ。早く車に乗せて」
橋田主任の時とは打って変わって図々しくなった鵜飼先生は机に向かい、パソコンを閉じたりと帰る準備を始める。
私も彼女を置いて準備室へと戻って、軽く片付けながら帰宅するためデスクトップパソコンをいじった。
「……あ。これだけ印刷したいなぁ…」
他の先生はもう帰宅していて誰も居ない室内でひとりぽつりと呟いて、たったままマウスを動かしながらカタカタとキーボードを触りだす。
こういう感じで、次から次へとやりたいこと、やらなきゃいけない事が出てくるから帰れないというのに……一度気になると、どうしてもやらずには帰れない。
そうしている内に帰り支度を終えた鵜飼先生が拗ねた顔で迎えに来て、
「…なんで何も言わずにいなくなっちゃうんですか。きらい」
「……そんなすぐきらいきらい言うと、鵜飼先生まで嫌われちゃいますよ」
準備室に入ってすぐ苦情を受けたから、画面に目を向けて集中を維持した状態で、つい無遠慮な本音を吐いた。
でもまぁ、その通りだと思うから撤回はしない。
厳しいような言葉を聞いて鵜飼先生なりに反省したらしい。
「…さびしかったの」
すぐそばまで歩み寄ってきて、スーツの袖をつままれた。
「急にいなくなって、さびしかった」
もう一度はっきり伝えられた事と、印刷するところまでいけた事に満足感を得て「うん」と返事をした後で鵜飼先生の方を向く。
「よく言えました」
今この場で抱きしめる事もキスすることも叶わないから、ぽんと頭に手を乗せるだけで終わらせた。
物足りない表情をする彼女には、特大の愛情を持って、
「…帰ったら、ご褒美です」
そう一言だけ、耳元で囁いておいた。
「ぜ…絶対、ですよ」
予想外に喜ばれて、自ら差し出された小指に向かって指を絡ませる。
印刷を終えて車へ戻ってからはいつものことながら一服させてもらって、帰りに24時間やってるスーパーに立ち寄って手短に夕飯の買い物を済ませることにした。
「この時間だと……お弁当ないですねぇ」
「…私、作る?」
「いやいや。鵜飼先生も仕事で疲れてて大変でしょう。冷食でも買って帰りましょう」
「別にいいのに…」
「手作り料理はまた今度、もっとゆっくり味わえる時に食べたいから。…だめ?」
「そ、そういうことなら……今度、たくさん作ってあげます」
本音とご機嫌取りを入り混ぜつつ、仕事で疲弊した互いの体にも気を遣う。
結局、冷凍パスタとカップ麺をいくつか購入して帰路についた。
鵜飼先生宅に帰宅後はご飯を食べ、会話を楽しみながらビールを飲み、タバコを吸い……ひとりの時とあまり変わらない夜の過ごし方をして、手短にシャワーまで済ませた。
そしていつも通り、鵜飼先生の風呂待ち時間には少女漫画を読む。
「なるほどねぇ……こういうのも好みなんだ」
今回はヤクザの若頭が登場する、なんとも物騒なもので。
殴って助けるような過激なシーンもあれば、大事な部分は伏せられてはいるがゴリゴリ無理やり■ッてるシーンもあった。
「あ…それ。面白いですよね」
読んでる途中で戻ってきた彼女にオススメポイントを聞くのも、もう慣れたもので。
そうやって着実に情報収集を行い、鵜飼先生への理解と好意を深めていった。
「…さて。それでは、ご褒美の時間です」
かくして密かに、溜めに溜めた欲望は色んな口実を持って毛布の中で発散されることになる。
今日は“練習”ではなく“ご褒美”と称して、私にとっても嬉しいことをする予定だ。…要はここで日頃の欲をぶつけさせてもらう。
とりあえずまずは、彼女の上へ馬乗りになって、ヤル気……否。ご褒美を与える方のやる気満々で腕の中へと閉じ込めた。
私の腕の中、鵜飼先生は動揺して縮こまっていた。それもまた可愛くて心やられる。
何をしようかな…なんて考えることもしない。なぜなら今日はやりたいことが決まっていたから。
「仕事もたくさん頑張ったので……意地悪じゃない言葉攻めでもしましょうか」
「意地悪じゃ、ない…?」
「うん。例えばほら……こうやって…」
耳元に口を持っていって、もうほとんど耳たぶを挟むくらいの距離で言葉を紡ぐ。
「かわいいね、緋弥…」
私の囁きに反応して唇をきゅ、と閉じたのを見て、さらに続けた。
「恥ずかしがってるのも、かわいいよ」
「っ……勝先生、これ…」
「やだ?…嫌がっても、やめる気ないけど」
意地悪なところはちゃんと意地悪くして、緩急つけながら声と言葉で彼女の心へと入り込んでいった。
かわいい、めちゃくちゃにしたい…と、たまに本音を入れてるのは、もちろん内緒だ。
こんな風に優しい言葉攻めを続けて、最終的に鵜飼先生がどうなったかと言うと……
「は、ぁ……ふ…あおい、さ…」
見事にとろけまくった顔で、腰を浅く動かし始めた。
それでも続けていたら、
「蒼生さ……もっと…」
「…もっと言ってほしいの?」
「うん…っ。もっと、いっぱい言って…?」
ついには自分から素直におねだりするくらいまでになった。
ただ、言ってるうちに私がムラムラしすぎてしまって、これ以上は我慢の限界である。
「緋弥…」
だから、「抱いていい?」と聞く前に、
「今日はもう、おしまいです」
最後に軽いキスを残して、その日は無理矢理にご褒美タイムを終わらせた。
物足りないことこの上ない表情には目をつぶって、ひたすらに耐える。…私だって、できることならもっと言いたい。
それでもっとめちゃくちゃに乱したい。
が、彼女の理想のためだ。
ここは私が大人になって、理性を効かせよう。
こうして、その日はなんとか自制心のみで乗り越えたのであった。…偉いぞ、私。
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