第9話
エロかった……否。充実していた週末が終わり、平日が始まり、また週末を迎えたというのに、私はせかせかと学校に通い詰めありとあらゆる業務をこなす日々を送っている。
休みと言える休みはなく、平日も昼休みですら様々な理由でやって来る生徒たちの対応や、やってもやっても終わらない資料作成に追われ全然休めていない。
唯一の癒やしであった鵜飼先生も最近は忙しそうで、保健室にこもりきりかと思えば、校内のあちこちを奔走している。
だから学校でも外でも長く会うことはできず、悶々とする気持ちをごまかすため仕事に逃げ始めた、ある日。
「あおいちゃーん、勉強教えてー」
「…下の名前で呼ぶのはやめなさいって、いつも言ってるでしょう」
「ごめんごめん。…でさ、ここ分からないんだけど」
放課後になって生徒のひとりがわざわざ勉強を聞きに来たと思ったら…私の担当じゃない数学の問題で、困惑して眉をひそめる。
「なんでこれを私に聞きに来たの…?」
「だって数学の加藤ちょー怖いんだもん。あおいちゃんなら優しく教えてくれるかなって。先生なんだから分かるでしょ?」
「…数学の問題は数学の先生に聞いてください。ほら、加藤先生ならまだ帰ってないと思うから行っておいで。あの人そんな怖くないよ。ちゃんと話せば優しいから」
「え〜、けちぃ」
「やめなさい。触らないの」
肩をクリクリと指の腹で押してくる、やたら距離感の近い生徒にため息を返して、手の甲でさり気なくガードした。
たまにいる、こういうナメてかかってくる生徒でも、雑な対応はできない。
それに、嫌われているわけではない……むしろ好かれていると捉えれば、悪いことじゃないと前向きに思うようにしていたが、
「ねぇ、冷たいこと言わないで教えてよ。せんせ」
「ほっぺをつつかない。いい加減にしなさ…」
「失礼します」
距離が近くても適当にあしらっていたところを、たまたま何か用があって来たんだろう鵜飼先生に見られて、さっそく後悔した。
真面目な彼女のことだから、もっと厳しく指導すべきと怒られそうで……緊張感から口を噤む。
「…お取り込み中のようなので、また後で出向きます」
しかし心配していたことは起きず、鵜飼先生は静かにそう告げて準備室を後にした。
「相変わらず綺麗だよねぇ〜、鵜飼先生」
「……いいから加藤先生のところに行ってきなさい」
年頃の女子も羨む美貌を前に感嘆とした感想を呟いた生徒には、同じ過ちを繰り返さないよう厳格な態度で接するよう努める。
何か用があったみたいだから、こちらから行かなくてもそのうち鵜飼先生の方からまた来るだろうとたかを括ってたけど、その日は遅くまで残っていても来ることはなかった。
不思議に思うことはさらに続いて。
「蒼生〜、ちょっと来て!」
「んー?どうしたー。…あと何度も言うけど、名字で呼ぶようにしてください」
「お、鵜飼先生だ。あの人まじ美人じゃない?」
「話しかけたなら要件を言ってよ…」
廊下で生徒に話しかけられた時や、そうじゃなくても授業準備のため空き時間に体育館へ移動してる道中なんかでも、鵜飼先生の姿を見かけることが多くなった。
たまたまにしては遭遇する率が高すぎるから、もしかして会いに来てくれてたりするのかなぁ…なんて自惚れた気持ちでちょっと浮かれる。
「先生ー、わたしこけました!」
「見てたから分かってる……うわぁ、痛そう。保健室行っておいで」
「歩けないです!」
「そんな自信満々に言うことじゃないでしょう、まったく。…大丈夫?ほら、立てる?」
「あ。おんぶしてもらえれば大丈夫です」
「…分かりました。先生が付き添いますから。乗って」
「あーあ。せっかくなら伏見がよかったな…」
「悪かったね、先生で…」
そんな時に、授業中ひとりの生徒が思いきりずっこけて怪我をして、流れで背負って久しぶりに保健室へと出向いた。
ただまぁ…生徒がいるからそんなに話すことはできないんだけど。
それでも会えることに胸を踊らせて保健室の戸を開けたら、私の姿を見た瞬間に鵜飼先生の瞳から光が消えた。
「鵜飼先生。生徒が怪我をしてしまって。診てもらえますか?」
「……はい。では、こちらへ」
口調も怖いくらいに冷たくて、何か怒らせるようなことした…?とビクビクしながら女子生徒を下ろして、肩を貸して支えつつ椅子に座らせた。
生徒の様子を窺うため顔を覗き込めば、赤い眼鏡の奥から睨んでくる視線をひしひしと感じる。…が、今は仕事中だ。目の前の生徒に集中しよう。
「高良、先生すぐ戻っちゃうけど…平気?ひとりで戻ってこれそうかな」
「…必要なら私が送っていくので結構です。勝先生は出ていってください」
「あ、はい……すみません。よろしくお願いします…」
棘のある言い回しに驚いて、謝ってすぐ逃げるように保健室を飛び出した。
あんなにも不機嫌なことは初めてで、気が動転したままその後の仕事も進めたけど……悲惨なくらいミスを連発した。
自分の失態を取り返すために残業時間はさらに長引いて、定時をとうに過ぎて深夜が近付いても準備室で紙やパソコンと向き合う。
「あー……くそ…」
集中しなきゃいけないのに、いつまでも鵜飼先生の冷めきった声と表情が頭に浮かんで、盛大にため息を吐き出した。
これは一度、タバコでも吸って落ち着こう。そうでなければやってられない。
苛立つ足取りで準備室を出て、シャワー室へ向かう前になんとなく保健室の方にも寄ってみる。
見ればまだ電気がついていて、彼女もまたこんな時間まで残業していることを知った。
踵を返して自販機でご機嫌取りも兼ねて差し入れにお茶とカフェオレを購入してから、顔を出した。
「…お疲れさまです」
「……まだ居たんですか」
「鵜飼先生も、まだ帰れないんですか?」
「私はあなたと違って、生徒とイチャイチャする隙もなく忙しいんです」
やっぱり怒っているようで、嫌味全開の言葉には苦笑で返した。
彼女は私の方には目も向けず、パソコンと向き合ったままの状態で唇を薄く開く。
「生徒との距離が近すぎます、不適切です。教師失格です。もっと教育者であることを自覚して、弁えて、謹んでください」
「はい……すみませんでした…」
「おんぶするなんてもってのほかです。体が触れ合うような接し方は以後、しないと誓ってください」
「あれは必要な対応をしたまでで、他意は…」
「ほっぺを触らせるのも、必要な対応なんですか?下の名前で呼ばせるのも?…信じられない。ありえないです」
鵜飼先生からの説教は止まらなくて、次第にキーボードをカタカタ叩いていた手も乱暴な動きへと変わっていた。
残業続きでイライラしてるのか、いつもと様子が違う鵜飼先生が心配になって、飲み物をテーブルに置いた後で手の甲に手のひらを乗せる。
「一緒に、休憩しませんか」
「……生徒にも、こういうことしてるんですか」
「するわけないでしょう。…もしかして、嫉妬ですか。相手は生徒ですよ」
「いつ、誰が、あなたに嫉妬してるなんて言いました?付き合ってるわけでもないんだから嫉妬なんてしません。…そ、そもそも付き合いたいとも思ってませんし、あなたに特別な感情なんて微塵も抱いてませんから」
「…そんなこと、言われなくても知ってますよ」
つられて感情的になってしまったのは、ただ疲れているからか……それとも、言葉全てを鵜呑みにして本気で傷付いたからか。
自分でも分かっていないまま、イライラをどうにも堪えきれなくて触っていた彼女の手から離した手で濁り拳を作る。
そばにいたら八つ当たりしそうなのが嫌で、何も言わず保健室から出て行った。
その足で喫煙所となっているシャワー室へ急いで、ポケットから雑にタバコを取り出してライターを何度も落ち着きなくカチカチと親指で押しては火がつかなくて頭の後ろを掻いた。
「チッ……なんでつかないの…」
こういう時に限って、使えない。
モヤモヤした思いは加速して、一周回って泣きたい気持ちでその場にしゃがみこんだ。
「…タバコ、吸わないんですか」
そこへ、追ってきてくれたらしい鵜飼先生の声が届いて、顔を上げた。
単純すぎる心は、その行動一つで嬉しくなっちゃって、情けないことにへらりと笑う。
「はは……ライターがつかなくて。吸おうにも吸えませんでした」
「……私、持ってますよ」
「え?…タバコ吸わないのに?」
「誰かさんが吸うので、家にも用意しておこうと思って買ったものがちょうどあります」
「…私のためにわざわざ買ってくれたんですか」
「なかなか家に来てくれないので、無駄だったかもしれないけど」
「今助かったから、無駄じゃないですよ。…それに」
立ち上がりながら、素直じゃないのに素直なよく分からない態度を取る鵜飼先生の手を引く。
「今日、これから泊まりに行きます。…せっかくのライターを、無駄にしないように」
その勢いのまま抱き寄せて、握られていたライターを奪えば、緊張のせいか腕の中で肩を萎縮させた動きが伝わってきた。
何をされるか分からなくて怖いんだろう、可哀想なくらい震えた手で服を握られて、良心と一緒に恋心も痛む。
さっきフラレたばかりだというのに、私は彼女を好きで好きで仕方ない。
「あくまでも練習……保健の授業ですから。そんなに警戒しないで、緋弥さん」
安心してもらうための材料と、自分への言い訳を同時に提供して優しく背中を撫でたら、僅かに体の力が緩んだのが分かった。
「この間の、おうちデートの続きをしましょう。…こういうハグなんかの触れあいにも、慣れていきましょうね」
「…生徒には、しないでくださいよ」
「当たり前です。これは緋弥さんにしかしない、特別な授業ですから」
「……ならいいんです」
そんなにも疑われるくらい普段の対応が教師として不適切だったのかと、少し落ち込んだ。
……嫌われてないといいけど。
少なくとも好かれてなさそうだ……と気付きかけて、普段なら使い勝手のいい察しの高さが今は恨めしくて。
「はぁ……タバコ吸って帰りますか」
「…今すぐ帰って、私の家で吸ってもいいんですよ。車の中でも」
「じゃあそうします…」
仕事なんかしてられるメンタルじゃなかったから、一度解散して片付けを済ませてから、鵜飼先生を連れてふたりで駐車場へ移動した。
「私がつけてみてもいいですか?」
「…ん、助かります」
車の中で、乗り込んですぐ彼女は慣れない手つきで火をつけてくれて、その火に向かってタバコの先端を押し当てた。
息を吸い込めば赤くぼんやりと光って、火がついたことに満足してくれたらしくご機嫌な笑顔へ変わったのを、微笑ましく横目で捉える。
「…おいしい?」
「んー……うん。まぁ、いつもよりは」
「もう一本吸う?」
「……まだつけたばっかで、吸い終わってもないですよ」
タバコ吸わせまくって肺を壊して殺す計画でも立ててるのかな…ってくらい乗り気なのがちょっとだけ怖くて、実はものすごく嫌われてるんじゃ?と不安になった。
今日は疲れてるせいか、やたらネガティブな思考に陥りがちだ。
「家に帰ったら…保健の授業ですよね。今日は何を教えてくれるんですか?」
「…やってみたいこととか、ありますか。されたいことでもいいですよ」
「……お姫様だっこ」
「それはもう少し元気な時に…」
「じゃあ、おんぶして」
「それくらいなら全然いいですよ」
まぁ、なんか甘えてくる鵜飼先生かわいいし、なんでもいいか。
疲れすぎて回らない頭は思考を放棄して、落ち込む暇も与えてくれない彼女の積極さが今はありがたくて感謝しつつ……願いを叶えるため、アパートの駐車場から部屋まではおんぶして運んだ。
そのせいで体力は限界を迎え、せっかくのお泊まりも爆睡で終えたのは、本当にもったいないことをしたと翌日の朝、起きて早々に後悔するハメになった。
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