第27話

























 文化祭終わりには、振替休日がある。


 いつも通り仕事に出向いても良かったが、そんな気分にもなれなくて家でひとり。

 音楽を聞きながら、ひたすらに筋トレしていた。

 悩んで気が沈む時は、体を動かすのが一番。だから今日は特にきついメニューを組んで、朝からプロテイン片手に気合を入れて励んでいた。

 汗かいたから夕方には銭湯でも行こう…と、換気のため開けていた窓から入り込む空気の肌寒さに秋を感じつつ、激しい運動で疲れた体を休ませるためのスケジュールを組み立てる。


「……よし」


 なんとなく昼食もストイックにしたくなって、昼が来る前に一旦ランニングマシンから降りて出かけるための準備を始めた。

 軽くシャワーを浴びて、体を冷やさないよう薄手のコートを羽織って車の鍵を持つ。

 そして玄関で靴を履いている時に、リビングの方からインターホンの音が鳴り響くのが聞こえた。


「はーい、はいはい」


 ちょうどいいから、確認もせず不用心に扉を開ければ、


「……どこか行くんですか」


 会って早々、不機嫌な声が投げられた。


「鵜飼先生……なんで…」

「もしかして、デートですか。マッチングアプリですか」

「いやいやいや。違いますよ。アプリはもう消してますし…」

「じゃあ、どうしてこんなコート羽織ってるんですか」


 ほとんど胸倉を掴まれる形で、いきなり問い詰められて言葉に詰まりながら身を引いた。

 な、なんでそんな怒ってるの?…と、聞いていいのかどうか迷う。


「こ、こんなコートって……別に普通のやつですよ。外寒いかなって着ただけです」

「じゃあ今すぐ脱いでください。そんなお洒落して行きたいところがないのであれば」

「っこ、コンビニに行くだけですって。何をそんなに怒ってるんですか」

「怒ってません。浮気を疑われるようなことをする蒼生さんが悪いんです」

「う、浮気って…」


 前も思ったけど、付き合ってもないのに浮気判定するのなんなの?…メンヘラ?

 それだけ必死で感情的になってるのは可愛いし、好かれてる気がして嬉しいけど、過度な束縛は良くない。

 いずれ、ふたりの関係性が破綻するのが目に見えて分かってしまうから。


「鵜飼先生……そんなに嫉妬深いと、本番の恋愛でやっていけませんよ」

「っべ、別に嫉妬なんてしてません。女性のために舌ピまで開ける人を信用してないだけです」

「……開けたのは自分のためだし、信用されてないのは普通に傷付くんですが」

「あ……ご、ごめんなさい。言いすぎました」


 そこは素直に謝るんだ……かわい。

 本当に私を傷付けたかった訳じゃなかったんだろう、とりあえず立ち話もなんだからと家に上げてからは文句ひとつ言わなくなった。


 が、質問攻めは止まらず。


「どこに行こうとしてたんですか?」

「お昼を買いに、コンビニに…」

「…ひとりで?」

「ひとり暮らしなので…そりゃひとりです」

「なに食べようとしてたの?」

「サラダチキンと冷凍ブロッコリー」

「どうして?」

「さっきまで筋トレしてたから…」

「なんで筋トレしてたの?」

「……嫌なことがあって、考えたくなくて」

「嫌なことって?」


 あまりにズケズケ聞いてくるから、これはもう正直に言おうと腹を括った。

 お互いベッドを背もたれに座ってたから、隣にいる鵜飼先生の方を向いて、目が合う前に何も言わず抱きつく。


「?……勝せんせ…」

「加藤先生と仲良くしてたの、嫌で。…それで、拗ねてました」


 戸惑った手が肩に置かれて、その手に向かって唇を押し当てたら、相手の呼吸が苦しそうに止まった。

 今どんな顔をしてるのか気になって顔を上げれば視線が絡んで、キスしたくなった欲深な感情にはそっと蓋をする。

 潤みきった瞳はきっとキスを切望しているのが分かっていて、密着していた体を離した。


「…お腹すいたんで、なんか食べに行きません?」

「……はい」


 ごまかすため話題を逸らして、彼女も恥ずかしかったのかすんなり私の提案に乗ってくれた。

 ふたりで家を出て、外で食べたい気分になったから近所のファミレスへ車を走らせた。着いてからは、適当に料理を選んで待つ。


「か、加藤先生とは、何もありません」


 待っている間、彼女の方からそう教えてくれた。

 もちろん言われなくても分かっていたが……本人から聞けると安心できるのは確かで、ホッと胸を撫で下ろす。

 付き合ってなくとも、彼女の中で“相手はひとりまで”と決めているらしい。

 だから浮気はしない、とも教えてくれた。


「……あの時、何を話してたんですか?」

「そ、それは内緒です」

「…どうして?」

「な、内緒だから、内緒です」


 そのわりに答えてくれないのは……やっぱり、やましいことがあるからなんじゃ。

 なんて、普段思わないような疑念を抱く。

 彼女に対しては冷静になれない心が、勝手に自分で自分を傷付ける。

 それ以上を聞く勇気はなくて、押し黙った。

 運ばれてきた料理を食べる間はお互い無言で、黙々と食べ終えてからは雑談を楽しむこともせずさっさと帰宅することにした。

 もちろんこんな気持ちで一緒にいられるわけもなく、まず先に鵜飼先生の家へと送り届ける。


「それじゃあ、また」

「え……な、なんで帰すんですか」

「…帰って筋トレしたいので」

「私も勝先生の家に…」

「今日はひとりでいたいんで」

「お、怒ってますか…?」

「はい」


 正直に頷いて、背もたれに肘をつきながら助手席に身を乗り出した。


「怒らないと思いますか」


 真っ直ぐに見つめて不機嫌な声を出せば、鵜飼先生の眉が可哀想なくらい垂れ下がる。

 飼い主に怒られた飼い犬のような瞳と上目遣いに、罪悪感を刺激されつつも……責めるのをやめるつもりはなかった。


「どんな内容を話したか言わないのは、不誠実ではありませんか」


 いつだか言われたことをそっくりそのまま返す。

 彼女も覚えていたようで、何も言い返せず俯いたことにもまた苛立つ。

 私に内緒で何を話していたんだ、そう強く問いただしたくなる思いは、さすがに胸の奥に押し込めた。


「た、たいしたことでは…」

「たいしたことないなら、言えますよね?鵜飼先生」

「それ…は」

「それともなんです。ふたり同時に相手する気だったんですか?人に言っといて」


 それでも全ては抑えきれず、漏れ出た怒りを受け取った鵜飼先生は泣きそうな顔で首を横に振った。


「ち、ちがいます」

「じゃあなんで教えてくれないの」

「あ…相手との約束なんです。勝先生には言わないでって」

「……ふたりだけの秘密があるの?」

「ぅ……そ、それは…」


 反応からして、絶対に何かある。

 なのに言ってくれないのがもどかしいくらい辛くて、傷付きもして、衝動に突き動かされた体は彼女の唇を無理やり奪った。


「ん…っ!ん!」


 感触を楽しむ余裕もなく舌を入れれば、驚いて肩を叩かれる。

 それも無視して舌を絡ませていったら、硬直していた体から次第に力が抜けていって、自ら吸いついてきてくれるようにまでなった。

 必死なのが可愛くて、胸が締め付けられるたび……加藤先生の顔がチラつく。

 取られるくらいなら、今すぐ抱いてしまいたいと思えば思うほど、それは良くないと自制する理性が働いてしまう。

 漫画のようになりふり構わずがむしゃらにはどうしてもできなくて、大人になってしまった心はどこかで冷静さを残していた。


 苦しい。


 心身共に成長した弊害は、恋愛においてはあまりに大きく、


「……ごめんね、緋弥さん」


 心を押し殺すことに慣れた社会人としての経験が、喉奥に“告白”の文字を閉じ込める。


「いきなり、びっくりしちゃったね」


 肩で息をして、陶酔しきった鵜飼先生の少し汗ばんだ頬の輪郭を撫でて、額に口づけた。

 頬についた髪を耳にかけてあげて、そのまま何度か宥めるようにゆったりとした手つきで撫で続ける。


「私…も、ごめんなさい…」


 落ち着いた頃、私の服を掴んで謝ってくれた彼女に、さっきまでの不機嫌も吹き飛んで微笑んだ。


「…いいんですよ。鵜飼先生は悪くないですから」


 相手の頭にぽんと手を置いて笑いかけたら、鵜飼先生の眉がだらしなく垂れ下がる。

 それどころじゃないのか笑顔を返されることはなかったが、代わりに震えた唇がそっと持ち上がった。


「あ、の……勝先生…」

「はい。なんでしょう」

「帰りたく、ない…です」

「…え?」


 何を言おうとしてるんだろう、そう疑問に思う前に彼女は素直な口を開いて。


「今日、帰りたくない…」


 意味が分からないで言っている発言か、それとも。

 期待に胸が高鳴る単純な自分には苦笑して、不安げに瞳を揺らす彼女には優しい笑みを返した。


「…うん。うちにおいで」


 まるで捨てられた子犬を拾うみたいに、相手からの素直なお願いを拾って、頭をなでながらキスを一つ落として車を発進させた。

 結局、加藤先生との会話を知ることはできなかったが、私の家に帰ってからは、


「き、今日は練習してくれないんですか」

「うーん……うん。しません」

「……やっぱりまだ怒ってます…?」

「はい。…これはお仕置きです」


 やたら私の唇に触れたがる彼女には、少し意地悪をさせてもらった。

 同じベッドの上、練習と称したキスも何もせずただ抱き締めるだけ抱き締めて、腕の中で寂しい顔をする鵜飼先生の反応を楽しむ。…怯えてビクビクしてんのかわい。

 人の顔色を窺っては、目が合うだけでサッと人の胸元に隠れて、また見上げる…というのを何回も繰り返される。

 そのたびに愛しさと微笑ましさが重なり合って、加減を忘れて強い力で抱き締めた。


「もう怒ってないから。…大丈夫だからね、緋弥さん」

「…で、でも…キスしてくれないじゃないですか」

「……そんなにしたいの?」


 いつもならここで「別にそんなこと言ってません」とツンデレをかましてくる彼女だが、その日は違った。


「……したい、です」


 服をぎゅっと握って、震えた声で伝えられる。


「…一回だけですよ」


 この期に及んで意地悪なことを言ったのは、何も彼女を困らせるためじゃない。


 あまりの可愛さに、歯止めが効かなくなることを恐れたからだ。


「ん……蒼生さん…」


 目を閉じて待ってくれる彼女を見て、確信に変わる。

 こんなのもう、誘ってるでしょ。

 ヤキモキした気持ちは心の奥底に沈めて、浅く唇を擦り合わせた。

 離さなければ一回判定かな…と、すぐには離さないでしばらくいつもより高い温度を感じつつ、挟み込んでみたりと弄ぶ。

 舌までは入れないよう気を付けながら、物足りなそうに眉を垂らす鵜飼先生の表情を薄目で確認した。

 今、どんな気持ちで私とキスしてるのかな。

 加藤先生ほかのやつと仲良くしておきながら……なんて。醜い嫉妬で心を焦がした途端、キスする気も失せてしまった。


「……はい。終わりです」

「…私のこと、嫌いになりましたか」

「ん?どうして?」

「……いつもと、全然違うから…」


 目に涙が溜まっていくのを見て、ギョッとする。

 さすがに冷たくしすぎた…?と焦って彼女の体を抱き寄せた。


「少し拗ねてただけです。嫌いになったとかじゃないから大丈夫。泣かないで、緋弥さん」

「でも……でも…ぅ」

「ごめんね。ごめん、嫌いになってないよ。ほら、練習も朝までだって付き合いますから。大丈夫だから」


 必死で宥める言葉を並べて、証明のつもりで軽くキスを落とせば、相手からむにっとした感触と共に押し返される。


「…あ、蒼生さんのこと、嫌いじゃありません」


 素直じゃない言葉を、はたして告白と捉えていいのかどうか。


「……私も、嫌いじゃないですよ」


 分からないまま、相手の気持ちに応えるため言葉をそのままそっくりお借りして返しておいた。













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