第23話





















 水族館デートなんて、いつぶりだろう。


 本能的に泳ぐ魚と、吹き上がる気泡たち、澄んだ水の揺らぎやスポットライトが与える煌々こうこうとした眩さを分厚いガラス越しに見上げて、ぼんやり海馬をまさぐった。

 近い記憶の中に水族館へやってきた思い出はなくて、さらに遠い記憶の中を探してみたけど……やはり見つからなかった。

 社会人になってからというもの、忙しさにかまけてこういうデートらしいデートから無意識のうちに逃げていたんだと、そこで気付く。

 そんな面倒くさがり私が、


「綺麗ですね」


 隣で笑う彼女のためなら、この先の休日は何度潰れたっていいと思えるくらい溺愛してる相手⸺鵜飼先生は、青い光に照らされて柔らかく微笑んだ。


「…キスしていいですか」


 思わず人目も憚らず出た言葉に対して、瞳の奥に照れを宿らせたのを、見逃さず真っ直ぐに眺めた。

 この反応は、今告白したらイケるんじゃ…?と打算的な思考が過ぎる。


「き、キスは後で……人前ですから」


 だけど理性的な彼女を前に、やめた。


「じゃあ、後ほどじっくりがっつり楽しむとしますかね」

「……言い方がムードなくて嫌」

「はは。すみません」


 その上ふてくされてしまったから、ここは大人の余裕でドキドキさせよう…と企んで肩をそっと抱き寄せる。

 突然の接触に驚いてこちらを向いた鵜飼先生と目を合わせて、戸惑う反応を楽しんだ後で向かって顔を落として、


「…後でたっぷり、緋弥さんを堪能しますね」


 耳元で囁くように伝えれば、言い方をほんの少し変えただけなのに彼女の頬が赤く染まる。


「ま、まぁ……許しましょう」


 どうやらこういうのも好きらしく、やたら上から目線で許された。

 その後はマイルドな言葉責めでテンションが上がったのか手を繋ぐことまで許してくれて、むしろ相手からしっかり離さず握られる。

 歩きながらさり気なく指を絡めれば、明らかに動揺していたものの、嫌がられはしなかった。


「水族館って……ほんと綺麗…」

「…鵜飼先生は、かわいいね」


 神秘的なクラゲコーナーで、ガラスに手をついて感嘆とする相手に見惚れつつ、ちゃっかり本心を入り混ぜては口説く。

 しっかり照れた顔を見せてくれるたび心臓は縮こまって、恋愛ってこんなに楽しかったっけ?と不思議に感じた。

 たかだか魚を眺めるだけの空間も、彼女と居れば途端にドキドキとワクワクの溢れるデートスポットへ早変わりだ。

 当の本人は自覚があるのか、ないのか。


「……確かにこれは、キスしたくなるかも」


 私の心をさらに鷲掴みする言葉を吐いて、ふわりと気の抜けた笑顔を浮かべた。

 薄暗い室内の中、ライトアップされた水槽の前。

 人が少なかったことも相まって、つい額に唇を押し当てる。

 なんとかギリギリのところでがっつりキスをする前に理性を働かせて……それでも物足りない表情を視界に捉えた時、耐えきれず相手の唇を親指の腹で触ってしまった。


「…こっちは、また後で」


 焦らした言葉ひとつで、期待感を多分に含ませて見上げてきた鵜飼先生の頭を撫でて、その場から退散するため手を引いて歩き出した。


「やっぱり…慣れてますね。蒼生さん」

「ん?…そうですか?」

「……今までもああいうこと、他の人にしてきたんですか」


 どうしてか拗ねた口調で聞かれて、はははと笑ってごまかす。

 してきたと言えばしてきたし、してないと言えばしてないから……なんとも言えない。


「私ばっかり嫉妬するの……嫌です」


 過去に対してすら嫉妬していたらしい鵜飼先生の足が止まる。

 つられて私も立ち止まって振り向けば、泣きそうにも見える瞳がうるうると揺れては、隠すように瞼が伏せられた。

 かわいすぎて、抱き締めたくなる。

 嫉妬なんてされたら面倒くさい……そう思わない時点で、今までの相手とは抱く感情が違うというのに、本人には伝わってくれていないようだ。


「…蒼生さんは、私に嫉妬とかしないんですか」


 不満とも捉えられる聞き方に困って、ちょうど真横を通り過ぎた大きなサメを視線で追う。

 館内でもひときわ大きな水槽の前に来ていたことをようやく自覚して、自分の倍はある高さのガラスを感嘆と見上げながら答えを模索した。

 嫉妬はするにはする。…しかしそれで心が荒ぶるようなことはない。冷静に対処できてしまう。

 悲しいかな。大人になるというのは、情緒が安定していくばかりで……揺れ動かされることから遠ざかる。

 心の平穏を保つための我慢が、時折恋の邪魔をしてくる。


「それとも練習だから……嫉妬しないの…?」

「いえ、そんなことは」


 そこは即座に否定して、「じゃあなんで」と聞かれる前に続けて口を開いた。


「私ももう、いい大人ですから。慣れてるだけですよ」


 嫉妬するかしないかの答えは曖昧にして返せば、彼女はそれ以上は期待できないと悟ったのか何も聞いてこなかった。

 ……実際、大きな嫉妬はそんなにしない。

 これまでの恋愛経験から嫌でも感情の抑え方を学んできた弊害で、自動的にブレーキがかかる。

 だから、なりふり構わず嫉妬に狂うなんて、この年になると“しない”というより“できない”と言った方が正しい。


 そう思っていたが。


「楽しかった…!また来たいです、蒼生さん」

「もちろん。今度はもっと大きなところに行きましょう」

「そうね!今から楽しみ」

「あ。…車戻る前に、タバコいい?」

「うん、平気よ。私はお土産コーナーでも行って待ってようかな…」


 水族館の建物を出てすぐ、タバコを吸う私に珍しくついてこなかった鵜飼先生と別れて外に設置された喫煙所へと向かった。

 曇りガラスに遮られただけの空間に入り、チラホラと見える他人に紛れてタバコの火をつける。

 ついでにスマホを開いて、休日にも関わらず入ってくる生徒や教員からの連絡に返信しつつ、この後の予定も確認した。

 予定と言っても、鵜飼先生を家に送るだけで何もない。明日は休みだが出勤しようと思ってるから、早めに帰りたいところではある。…彼女が帰してくれそうもなかったらおとなしく泊まろう。

 

「……さて、と」


 タバコも吸い終わり、鵜飼先生の待つお土産コーナーへと急いだ。

 この時までの私は、必死こいて焦るなんて微塵も想定すらしていなかったが。


「へぇ、そういうのが趣味なんだ」

「はい」

「僕も好きですよ。よかったらこの後…」


 見知らぬ他人……それも鵜飼先生が好きそうな眼鏡のイケメンと仲睦まじく話してる姿を見て、頭の中が白くなった。

 おそらくナンパでもされたのだろう。

 魅力的な彼女のことだ、何もおかしなことじゃない。むしろこんなの、想定の範囲内であったはずなのに。


「緋弥」


 まんざらでもなさそうな彼女を見たら、そのまま連れ去られてしまうんじゃないか…って不安で。

 余裕な素振りを見せて内心は焦りながら歩み寄って彼女の手を取った。


「…私の連れが、お世話になりました」


 眼鏡イケメンには、ニッコリと微笑みかけて無言の圧と牽制をかけておく。

 連れがいたのか、と戸惑ってたじろいだ相手とこれ以上の接触をさせないよう、鵜飼先生の肩をしっかりと抱いた。

 ……狂うほどの嫉妬なんて。

 もち太郎くらいにしかしないと思ってたはずが、現実はどうだ。


「…もう私から離れないで」


 男が立ち去った後で、人の目なんか気にならなくなるほどに余裕を無くした私は、華奢な体を抱き寄せて必死な声でそう告げていた。


「……はい…」


 大人気ない私に対して、か弱い声で頷いてくれた彼女を連れて車に戻る。

 車に乗り込んですぐ一度タバコを吸って心を落ち着けて、その間に彼女もなにやら心の準備をしていたらしく。


「このまま家で良いですか」

「う、うん…いいですよ」

「他にどこか行きたいところとか…」

「あ…の、蒼生さん」


 勇気を出したように鵜飼先生は持っていた袋の中からとある物をふたつ取り出した。

 こんな時になんだろう…と見てみれば、


「っし、しろくまとあざらし……どっちが好きですか」


 ちょっと太った猫くらいの大きさのぬいぐるみをずいと私の方に突き出して聞いてきた。

 あまりにもかわいい行動に、嫉妬して淀んでいた気持ちも一瞬で晴れて、同時に口元が緩んで笑ってしまう。


「ははっ。かわいい。なにそれ」

「わ、笑わないでください。真剣に選んだんですから…」

「すみません。…じゃあ、しろくまで」


 感謝を示すため軽くお辞儀をして受け取ったら、安心した表情で胸を撫で下ろしていた。

 それもまたかわいくて、もうすっかり焦りの感情は消え失せる。


「実は私、あざらし大好きなんです」

「そうなんだ」

「ええ…!だから、蒼生さんがしろくま選んでくれてよかった」


 人に選ばせておいて彼女はあざらしを希望していたらしく、嬉しそうに抱きしめたのを横目で見ながらぬいぐるみを足の間に置いてハンドルを握った。


「…あ。そうだ。どっちが好きかって話ですけど」

「?……はい」

「私が好きなのは、緋弥さん一択です」


 思い出しがてら、この告白ならイケるか…?と邪な思いを抱えて伝えてみる。


 結果、


「……わ、わ…私…は、あざらしのが好きです」


 見事にフラレてしまった。


 まぁ照れ隠しなのは言わずもがなで分かったから、今回は不問としよう。…私も急ぎすぎたかな。

 

「べ、別に蒼生さんが嫌いとかじゃありません。ただ、あざらしの可愛さには勝てないってだけです。そんなに落ち込まないでくださいね」

「今の発言で大打撃を受けましたねぇ…これは責任持って付き合っていただくしか」

「そ…そんな脅しみたいな告白なんて嫌です」

「ふははっ、それは失礼。…しろくま、ありがとうございます」


 膝の上に乗せていたしろくまの頭をぽんと触って、車を発進させる。

 しばらくは照れ隠しで態度の冷たかった鵜飼先生も話しているうちに緊張も解けてきて、帰る頃にはいつも通りの調子に戻っていた。

 家まで送り届けて、駐車場で別れを告げれば、


「き、今日は泊まっていきますか?」

「明日は出勤なので帰ろうと思っていましたが…鵜飼先生、どうしたい?」

「…と、泊まっていってもいいんですよ」

「ん〜……素直じゃないのは減点だなぁ…」

「……まだ、帰らないでほしい…です」


 最後には甘えた手が裾を掴んだ。


「…緋弥さん」


 もうあと部屋に行くだけだというのに耐えられず、助手席へと身を乗り出す。

 拒否られる隙を与えたくない手が鵜飼先生の後頭部に伸びて、顔を近づけると同時に相手の顔も近付けさせたら……あと一歩のところで、何かに阻まれた。

 見れば小さな包装紙がふたりの顔の間にガードのように取り出されていて、いつの間に…と思うのと同時に、キスを遮られ変わりに包装紙とキスさせられたことには落胆した。


「……なに?これ。邪魔なんですが」

「こ、ここでキスしていいなんて言ってませんから」

「では……早く家に帰ってキスしましょうか」

「そ…その前に、これ」


 ここに来て焦らされたことに僅かばかり不満を溜めるものの、なにやらゴソゴソと紙袋を漁り出したのを見て今度は期待感で胸を躍らせる。


「実はもうひとつお土産を…買ってたんです」


 そう言って取り出したのは、ガラス製の小さなイルカが付いた色違いのキーホルダーだった。

 まさかのお揃い。

 それも、さすがにデザインはオシャレな大人向けとはいえ、いかにもなイルカの装飾……あまりにもピュアすぎる。

 まさか現代にここまで純粋無垢な二十代後半女性がいたなんて…と色んな意味の感動で口元を押さえたくなった気持ちは静かに押し込めた。


「お揃い……嫌でしたか…?」


 私が感動のあまり何も反応を示せなかったからだろう、不安げな声が聞こえてハッとなる。


「いえ。…綺麗ですね、とても」

「き、気に入ってくれましたか…?」

「もちろん!どこにつけようかなぁ……あ。後で仕事鞄につけよう…」

「私はスマホにつけます」

「いいですね!」


 まるで中高生になった気分で、お互いお揃いのキーホルダーを片手にテンションを上げた。

 彼女といると、私はどんどん子供じみていって……それがどうしてなのか、どうしようもなく居心地がいい。


 こうして、水族館デートは無事に終わり。


「今からは、たくさん練習しましょうね」


 いよいよ夜になって、私はまたさらに……理性をひとつ失うことになる。











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