第5話



























 いよいよ週末の休みを明日に控えた、その日。


「勝先生、言い忘れていたんですが……月曜までの書類がいくつかあって…」


 放課後も近くなってきた時間に、主任からとんでもないことを知らされた。

 言い忘れてた…って、こいつ……そんな軽いノリで伝えるなよ、くそ。明日から休みなのに…


「ははっ。主任も大変ですもんね、忘れちゃいますよね!月曜までですね、わかりました!」


 脳内に浮かぶ文句の数々は押し込めて、努めて軽快に笑えば、相手は自分の失態を許されたと勘違いして安堵していた。口には出さないが、許してはないぞ。

 おかげで今日は残業確定……それどころか終わりきらずに、明日も出勤するハメになった。

 まぁ…こればっかりは仕方ない。みんな忙しいんだから。持ちつ持たれつだと思おう。…はぁ、にしてもなんで今日……最悪だ。

 頭を抱えたい気持ちで、とりあえず夜が耽る前に早い段階で鵜飼先生へ予定を変更したい旨の連絡と謝罪を送った。


『仕事なら仕方ありません』


 彼女からは一言だけそう返ってきて、またさらに『すみませんでした』と送ってからはもう……返信すらなかった。

 急なキャンセルをしたから失望して嫌われちゃったかな…と心配で嘆く暇もなく、激務には抗えなくて泣く泣く深夜近くまでかかった残業を一旦終わらせて帰宅して、翌日も朝早くに家を出た。

 ついでに頼まれた書類以外の仕事もこの週末で片付けられるとこまで片付けてしまおう……気合を入れて、パソコンの前で作業すること数時間。


「……疲れた…」


 喉も乾いたし、休憩がてら自販機でお茶でも買おうと、ひとりきりで過ごしていた準備室を後にした。

 休日の学校に人は少なく、お茶を買ってから太陽の照りつける中庭にわざわざ出て、普段の騒々しさがない静まり返った校舎を見上げながら一息つく。

 …後でタバコ吸いに行こう。

 初夏の空気は過ごしやすい気温で、若葉が揺れるのをぼんやり眺めた。


「はぁー……帰りたい…」


 本当なら今頃、鵜飼先生の家でデートを楽しんでいたはずなのに。

 ひとりぽつんと学校に残って、私は何をしてるんだろう…と虚しさを心に宿らせた。

 とはいえ、部活で来ている他の教員や生徒もいる。広い校舎内ですれ違うことはないが、時折遠くから活気ある声が聞こえることには勇気づけられた。


「もう少しだ、がんばろう」


 自分に言い聞かせて、立ち上がる。

 早く終わらせれば、夕方頃から鵜飼先生に会えるかもしれない。…いや、会えるように仕事を終わらせて約束を取り付ける。

 だからここはひと踏ん張りだ。それで、夜は一秒でも長く彼女と過ごしたい。


「……会いたいなぁ…」

「誰に、ですか」


 中庭から渡り廊下に戻ったところで、誰に言ったわけでもない独り言を、静かな声が拾った。

 驚いて声のした方を向いたら、休日だというのに白衣を身にまとった鵜飼先生が、カツカツとサンダルの音を響かせてこちらへ歩いてくるのが見えた。


「お、おはようございます…」

「…もう昼ですよ」

「は……はは。そう…でしたね」


 突然現れた彼女に戸惑って、頭の後ろに手を置きながら同様を隠しきれず声が震える。


「…それで?私以外の…いったい誰に、そんなに会いたがってたんですか」


 私の前までやってきた鵜飼先生は不機嫌で、いつもより冷たい眼差しで見上げられて、言葉を詰まらせた。

 何をどう勘違いしてるのか……どうやら私が他の誰かと会いたがってる、そう解釈したみたいだ。もしくは言わせたがっているだけか。

 どちらにせよ正直なことを言うか、迷う。

 ここで変な気を持たれていることを勘付かれて警戒されるのは、好ましい展開じゃない。


「…あなた以外にいると思いますか、鵜飼先生」


 それなのに、意に反して口は素直な言葉を吐いていた。

 やらかしたと思うより先に、照れて僅かに尖った唇の些細な表情の機微に気が付いて、ひとまず嫌な思いはしてないようで安心する。


「ちょうどこの後、会いに行こうと思ってました」


 重ねて言えば、今度はまた機嫌が悪くなってフイと顔を逸らされてしまった。


「それなら、連絡のひとつでもくれればいいじゃないですか」

「…拗ねてるんですか?」

「べ、別に!…特別楽しみにしてたとかではありませんから。勘違いしないでください」


 あぁ……これは相当、楽しみにしてくれてたんだなぁ。

 と、察した途端に余計かわいく見えて、思わず抱きしめたくなった感情は、気になった他の疑問をぶつけることで解消させようと試みた。


「鵜飼先生は、なんで学校に?」

「……か、勝先生に会いに来たわけじゃないです。たまたま立ち寄る用があっただけで…」

「会いに来てくれたんですか?嬉しいなぁ」

「ち、違うって言ってるでしょ!」

「はいはい。とりあえず保健室でも行きます?」

「…今日は休みなので、鍵を開けるつもりはありません」

「あー…そっか。それじゃあ、どうしようかな…」

「仕方ないから、仕事が終わるまで付き添います。勝先生の作業する場所まで連れて行ってください」


 何が仕方ないのか全然分からないけど、一緒に居たいだけだな…ってことは分かった。


「隣に居ても、退屈ですよ?ずっとパソコンいじってるだけですから」

「……邪魔なら帰りますけど」

「邪魔だなんて、そんなそんな。…そうだ。戻る前に、一服だけしにいっていいですか」

「…タバコ吸うんですか?」

「はい。…嫌いでした?」


 嫌そうに目を細めた感じから、嫌いなんだろうと察した。

 一瞬、やめることも検討したものの……やはり日頃のストレスを発散させる至福の時間には敵わず、平謝りで乗り越える。


「喫煙所、あるんですか?この学校」

「……実は教員用のシャワー室が喫煙所代わりとなってまして…」

「へぇ……知らなかった」

「生徒達には内緒で」


 口元に人差し指を立てて口止めをしといて、ふたりでそそくさと例のシャワー室へと移動する。

 ほとんど物置と化した2帖もない狭い空間で、窓を全開にして換気扇をつけた。

 シャワー室の中までついてきたから、置いてあるパイプ椅子に鵜飼先生を座らせて、自分は窓際ギリギリに立ってなるべく室内に煙がこもらないよう配慮しながらタバコを取り出した。


「…煙が苦手なら、外で待っていてもいいですよ」

「苦手なわけじゃありません。意外に思って、びっくりしただけです」

「そうですか…」


 火をつける前に最後の確認をしたら、彼女は意地でも出ていこうとしなかった。

 だから仕方なく、気にはなるもののライターで火をつける。

 最初の一口だけは肺に入れずそのまま吐き出したのを、鵜飼先生は興味深くじっと見つめてきていた。

 こんなにも吸いづらいことはない…と煙を吸い込んで、ため息まじりに吐き出す。吐息はタバコの先でゆらゆら揺れる煙も巻き込んで、風の流れによって窓の外へ溶けていった。


「……あ。なんか、ベリーのいい香りもしますね」

「おぉ、分かりますか」

「はい。タバコ独特の匂いに混じって……そういうやつなんですか?」

「そうなんですよ。メンソールだからちょっとスースーするやつでもあります」

「タバコも色々あるんですね…」


 あまり馴染みがないのか、感心した様子で呟いた姿を、微笑ましく見下ろす。


「ん……でも、それ吸った後にキスはしたくないかも」

「……くさいですか?」

「好きな匂いではないです」

「はは。それはすみません……ま、キスする予定もないんで、大丈夫でしょう」

「え」


 視線を窓の外へと向けて何気なく発した私の言葉に反応して、鵜飼先生が驚いた声を出した。

 なんだろう…とまた彼女へと視線を戻せば、引きつったような、拗ねたようにも見える気がする顔と目が合う。


「鵜飼先生…?」

「そういった練習も、含まれてると思ってました」

「……はい?」

「いやだから、キスとかの練習…」

「は?」


 自分がけっこうやばいことを言ってる自覚もなく小首を傾げた鵜飼先生に、なんて返していいか分からなくてたじろぐ。

 私的には、あくまでも練習だからキスとか…そういうことをするのは避けた方がいいだろうと思っていたのに、どうやら本人はそこまで許してくれるつもりらしい。

 それが何を意味するのか……分かってての対応なら、ワンチャンある?…とか思ってしまうのが、人間の愚かなところだ。


「…私と、キスしてもいいってことですか」


 確認だけじゃない、彼女自身の口から言わせたくてあえて聞いてみたら、恥じらった瞳が揺れて長いまつ毛によって隠された。

 ……これは本当に、キスできるんじゃ?

 期待で膨らんでしまった心はタバコの火を雑に消させて、脇目も振らず綺麗な輪郭の頬に手を伸ばして当てる。

 親指の腹で唇をなぞって、顎の下に人差し指を差し込んだ。

 顔を上げさせれば、彼女は目線を伏せて私の手首をやんわりと掴んだだけで、抵抗する意思は見えなかった。


「今しても…いい?」

「……嫌です」


 だけどしっかりと言葉では拒否されて、一瞬で絶望へ叩き叩き落とされた。

 まぁそうだよね……と落ち込んで手を離そうとしても、どうしてか手首を掴んでいた手により力が込められる。

 

「初めてがタバコくさいのは、いや」


 あぁ、なんだ……そっちか。

 真っ直ぐに伝えられた本心に気が抜けて、その場にしゃがみこむ。

 キス自体を嫌がられてなくて良かったって気持ちと、紛らわしい言い方しないでよ…って苦情が心の中でせめぎ合って、なんだかおかしく思えて笑ってしまった。


「ある意味、駆け引きの天才ですね」


 惑わされてばっかりで、すっかり負けた気分で白旗をあげる。


「しかし鵜飼先生……初めてのキスは大切なものなんで、練習でするのは極力やめておきましょう」


 冷静になってから、相手の手を取って真摯にそう伝えた。

 私も私で、彼女の天然な煽りにまんまとハマッて夢を壊すところだった理性のなさを反省した。


「運命の人相手に、ちゃんと大事にとっておきましょうね」

「……い、言われなくてもそうします」


 そんな未来、来てほしくもないけど。

 私の務めはあくまでも彼女の恋愛経験値を高めることで、ゲームで言うならばレベル上げのための雑魚キャラだ。

 雑魚キャラは、勇者にも騎士にもなれない。

 だけど、たとえ踏み台でもいいんだ。


 そう思えるくらいには、この頃にはもう…私は彼女に心酔しきっていた。


 












 その後、準備室にて。


「…手伝えることありますか?」

「いや……今は特には…」

「早く終わらせて帰りたいんですけど」

「先にひとりで帰っててもいいんですよ?まだ終わりそうもないんで…」

「あとどのくらいかかるんですか」

「うーん……どうだろう。夕方までに終われば…って感じですね」

「……待ってるから、早くして」

「善処します…」


 帰ればいいのに、わざわざ他人の席から持ってきた椅子に座って、鵜飼先生は私の隣でずっと待ってくれていた。

 最初は申し訳なさから遠慮してたけど、十分おきくらいに「手伝えることありますか」と聞いてくれるから、せっかくの厚意を無駄にせず印刷したものの整理なんかをお願いしていった。

 結果的に予定より仕事は早く終わり、夕方に近い昼過ぎにふたりで学校を出た。

 彼女はバスで来たらしく、帰りは私の車で送ることにして、


「…タバコ吸ってもいいですよ」

「お、いいんですか。ありがとうございます」


 乗り込んだ車の中、聞かずとも相手から許可を貰えたから嬉々としてタバコを咥える。


 ん?でもここ……私の車なんだけどな。


 そのことに気付いたのは、鵜飼先生と食事を終え、家まで送り届けてからのことだった。
















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