第参幕 五


 心臓の鼓動が耳のすぐそばで聞こえる。

 お母さんのお腹の中は、こんな感じだったのかもしれない。

 今は、どうしているのだろうか。

 元気でいるのだろうか。

 お父さんは煙草をやめたかしら。

 お母さんは夜にぐっすりと眠れるようになったかしら。

 もう、何年も実家には帰っていない。

 お父さんも、お母さんも、優しさを肉の衣で包み込んだような人だった。おかげで、あたしは自由だった。

 就職先が決まり、家を出ることになって、その縁はぷつんと切れってしまった。あたしにとって、育った巣はあまりにも温かで、満たされていた。幸せすぎて、生きているという実感がなかった。

 だから、心にも、体にも、傷をつけてしまったのかもしれない。

 痛くて、苦しくて、生きていることを確認したくて、死ぬことの外殻を掌で触り続けた。

 今のあたしを見たらなんて言うだろうか。

 抱きしめてくれるかな。

 ああ、お家に帰りたい。

 口を開けると、液体が流れ込んできた。

 目を開くと、増幅した痛みが騒ぎ出した。

 水ではない、何か酸味のあるような味がするが、それを特定するほどの余裕はない。

 手足は浮遊している。

 足が地面に着いていない。

 えいやと足の裏で蹴りを入れると、もぞりとした抵抗感を覚えた。空中ではない。

 水中。

 うちは、浮かんでいる。

「茜。大丈夫かい」

 どっと安堵が心の隙間に流れ込む。

 ピエール。

 その声を聞くだけで、無条件に救われたような気分になる。どこに行っていたのよ。もっと早く助けに来なさいよ。と言いたくなるが、あちらの世界にぶっ飛んでいたのはうちだし、現実ではない世界に手を突っ込んで引き上げるのはどんなに難しいことか分かっている。

 だから、ピエールの声で正気に戻れたのは奇跡だと思う。

 愛の力ってやつかしらね。

 気味が悪い狐の輪郭はいなくなっていた。

 どうやら、意識が現実にきちんと接続されたらしい。右手にしっかりと握っている銃はひらひらと水中で踊っている。こんな状況でも銃を手放さなかったのね。うちは偉いわ。

「ええ、これは全部、酒なの?」

「そうだよ。どうやら、ここは人間が行き交う通路ではなく、酒を移動させるための水路だったみたいだね。茜が踏んづけたのは、酒の注水を制御するためのスウィッチだったんだろうね」

「迂闊だったわ。そういうのを踏んで慌てるのはピエールの役目でしょう?」

「ピエールがいつもそんなドジを踏むと思うかい? こうやってね、命に関わるようなミスは絶対にしないの。肝心なところはちゃんとコントロールできるのが浦島ピエール」

 ああ、もう、キスのひとつでもしてやりたいわ。

「ピエールは泳げるの?」

「泳げるよー。酒の中を泳いだことはないから、ちょっと不安だけどね。まあ、プールとそう変わらないだろう」

 ぱぁっと暗かった視界に光が差し込む。

 また、狐かと身構えたが、どうやらピエールがペンライトを点したらしい。

「あれ、足が着くの?」

「ピエールでぎりぎりだから、茜は、潜っちゃうだろうね。立ち泳ぎ大変じゃない?」

「分かっているなら、手を貸してちょうだい」

「レディに勝手に触るのはどうかなと思って躊躇していたんだよ」

「今更、遠慮をする間柄でもないでしょ」

 うちはピエールの背後まで、立ち泳ぎで移動をして、彼の両肩を握った。そして、背中にのしかかるようにして体を固定させる。

「うわ、重い」

「殺すわよ」

「嘘、嘘、軽すぎるくらいだよ」

 ピエールは底を蹴って体を浮遊させる。

「遊んでいないで、ここから脱出する方法を考えて」

「遊んでないよー。もうね、ジャンプしないと沈んでしまいそうなんだ」

「どうにかして、ピエール!」命令をする。命令は課長の役目なのだが、二人きりのときはよく立場が逆転する。

「どうにかって言われてもねえ」ピエールは助かるための名案を考えているのか、顔を上にあげる。その口の形が、あっと大きく開かれた。

「ハッチがあるじゃん」

 迫ってきた天井には自転車の車輪のような形をしたハンドルがあった。ハンドルの先にはマンホールのような扉がついている。こればかりは木製ではなく、頑丈そうな金属であった。あれをくるくると回せば、立派な出口になりそうね。

「ちゃんと、逃げ道があるじゃない。どうして、気づかなかったのかしら」

「天井付近は暗くてよく見えなかったからね」酒の水面がピエールのあごの辺りまで来ている。

 もう、時間がないわ。

 ピエールは両手を伸ばして、ハンドルを回す。

 しかし、固着しているのか、すんなりとは回転しない。

「もっと、力を込めて。沈んじゃうわよ」酒が意思を持っているように揺れる。底へ引っ張り込もうとする見えない圧を感じる。

「やっているよー。でも、固くてさあ」のんびりと引き延ばすような、ピエール特有の口ぶりだが、言葉の端々には焦りが見え隠れしている。

 うちもハンドルを掴み、反時計方向へと力を込める。ロックでもかかっているのか、全く動く気配を見せない。

「ああ、もうダメだあ。死んじゃうんだあ」

「黙れ、豚野郎!! まだ、生きているじゃない。諦めたら、そこでおしまいなのよ。良い結果が出ないのはね、努力の試行回数が少ないの。だから、もっと努力する。限界なのはね、幻想なの」

「ふぇえ、良いこと言うねえ」

「当然よ。そうしないと、田島茜は死んじゃうんだから」強くないと、うちはとっくの昔に廃人になっている。

 渾身の力を込めて、ハンドルを回すと、ぶしゅっと炭酸が抜けるような音がして、抵抗感が消失した。ハッチを押し込んでいた圧力に勝利した。やればできるわ。

 ハッチがだらんとぶら下がった。白いペンキを塗りつけられたそれには脱出するためのハシゴがついている。

 金属の格子を握りしめ、上半身の筋肉を総動員して登る。足を引っかけ、上体を起こしていく。そういえば、自衛隊の体験入隊時に似たような訓練を行ったことを思い出した。訓練もたまには役に立つものね。

 ハシゴを登りきり、深々と息を吸った。肺の中に充満している気化したアルコールを吐き出す。酔っ払っているのか、薬物の禁断症状が出ているのか、ひどく気分が悪かった。

「ピエール!」うちは、彼の脱出を手伝うために手を伸ばした。が、姿がない。

「う、うそ、嘘でしょう! いなくなっちゃ、いやよ。あなたが死んでしまったら、どうやって生きていけばいいの。もう、わがままを言ったりしないから。困らせたりしない。意地悪もやめるわ。シャブもやめる。だから、戻ってきて、お願い」

 酒の中に手を突っ込み、ピエールの肉体を探す。まだ、空気が残っているはず。引き上げれば間に合う。

 祈るようにして、酒をかき混ぜる。

 しばらくして、水音が響き、酒の中から右手が突き上げられた。楕円形の可愛らしい親指の爪がピンと跳ね上げられ、人差し指から小指まで揃ってぎゅっと握られている。

 ああ、愛おしい手。

 うちはその瞬間を逃すまいと、腕を掴んだ。腰を落として、背筋を使って引き上げる。

 ピエールの顔がわずかに見えた。

 眼鏡がない。

 落としたのかもしれないが、探すのは難しいだろう。

 彼の手がハシゴを掴む。良かった。

 助かりそうだわと、安堵すると、彼は言った。

「I'll be back」

 

 人肌ほどに温められていた酒から出ると、身を切り裂くような冷気が漂っているのが分かった。くしゃみを連発し、鼻水がじゅるりと音を立てる。ハンケチでちーんとやりたいが、目隠しを外すわけにはいかない。

「アルコールだからね。すぐに気化すると思うけど」たっぷりと花粉が舞っている杉林から出てきたような声でピエールが言った。

「焚き火でもあれば暖まりたいわ。でも、うちらが近づいたら火だるまになりそうね」

「火だるまは言い過ぎだよう。あの酒は不純物が多いように感じたし、燃え移らないだろうね」さすが、学校で化学の先生もできそう。

「温かいお風呂に入りたいわ」

「ピエールは豚汁がいい」葱を刻んだやつ、あと生姜を入れると暖まるんだよねえとピエールは口にする。たっぷりの七味もね、と相槌を打つ。今度、作ってあげるわ。

「そう言えば、お腹が空いたわね。何か食べ物を持っていないの?」

「あるよー。ちょっと待ってね」

 ピエールは手錠を吊っている左腰にあるポーチの中に指を突っ込み、引っ張りだした。それは長方形の形をしたビスケットで、一日に必要な栄養成分が全て含まれていると謳われている携帯食料であった。

「ああ、それ好きよ。あたしはフルーツ味がいいの」

「奇遇だね。ピエールもフルーツ派だよ。でも、持ってきたのはチョコレートなんだ」

 ピエールは包まれていた銀紙を取り除き、茶色い焼き菓子を露出させる。酒のせいで少し湿っているだろうが、食べられるだろう。

「半分こっこ」ピエールは携帯食料を割った。概ね、三分の二のところで亀裂が入る。

「下手くそ」

「えー、下手くそじゃないよ。半分こっこでしょ」

「半分っていうのは真ん中で割ることを言うのよ」

「体格差を考慮したんだ」ピエールはそう言うと、三分の二のほうをうちに突き出した。

「いや、ピエール。そっちがあたしでいいわよ」

「何を言っているんだい? 食べさせて、分け与える。それが、親の務めなんじゃないのかい?」あたしが言った言葉が繰り返される、覚えていてくれたのね。うれしい。

「あたしはピエールの子どもじゃないわ」

「子どもみたいなものさ。それに、お腹が空いているんだろう。ピエールはお腹がいっぱいだから、いいんだ」そう言い終えた途端に、ぎゅるる、お腹が鳴き声を上げた。

「ありゃあ、スズムシが鳴いているね。ずいぶんと、季節外れだなあ」ピエールはそっぽを向く。

 うちはピエールから受け取った携帯食料の端っこを唇で咥えた。香り立つ麹のにおいに混ざって、チョコレートがほんわか香る。このまま、もそもそと食べてしまいたかった。お腹が空いていて、頭の芯がぐずぐずになっている。少しでも落ち着いた場所で精神を整えたかった。

「うー、」うちは唇を開きながら、唸り声をあげた。

 目尻にしわが寄っているし、

 化粧も剥げてしまっているだろう。

 しかし、眼鏡を失ってしまったピエールはよく見えないはずだ。ならば、チャンス。心と体の栄養補給。大丈夫、長くはかからない。

 両手を左右に広げても、収まりきらない肉体を抱いて、うちは携帯食料の端っこを彼の唇に押し当てた。ピエールが半分に割った、ぎざぎざのある部分。

 どちらが、

 何を、

 どのくらい食べたかなんて、

 分からなかった……が、精神は背中を丸めて大人しくなった。

「それで、死んだのか?」感情を排除した声音が鼓膜を揺るがす。

 ハートフルな茜色に染まっていた意識が瞬間的に現実へ引き戻される。条件反射が発動する。ピエールと背中を付き合わせ、銃を構える。

 荒い息遣い、

 心臓の音が体内をうねる。

 どちらのものか分からないし、どんな感情によって起因したものか分からない。ただ、それは相手がそこにいるという確かな証拠をもたらし、代えがたい安心感となってうちを動かしていた。

「妖頭芭蕉様、死んだと思われます。排水スイッチは止めましたし、酒が漏れる隙間はございません。今頃、ぷかりと良い具合に浸かっていると思われます」

 ですますのかしこまった声には相当な重圧と緊張感が含まれていた。恐らく、冷や汗を流し、瞳孔が開いて、呼吸は荒くなっているはず。

「酒類取締官を漬けた酒はどんな味がするのかしらねえ」

 麦酒のような喉を締め付ける酸味を迸らせた声。銀狐だ。今度こそ本物のはず。

「銀狐や、舌が焼け付くように苦いはず。彼らが妖頭會に与えてきた損害の数々を見れば一目瞭然。苦酒としてね、大衆に売り出すのがいいわ」

 葡萄を跡形もなくなるまで踏みつけて、滓を絞ったような声。金狐だ。余裕と優雅さが、すこし調子の外れた高音に混ざっている。妖頭芭蕉に、金と銀、恐らく茜ちゃんもいるはず。現実か、幻覚か。分からなかった。

 銃を握っていない左手の指先を動かして、ピエールの掌を弄る。恋人のそれのように指同士を絡めて……強く握り合う。

 トン、トン、ツー。

 リズミカルにそれは繰り返される。緩みと握りが意味のある形を生み出していく。

【うちね、幻覚を見ているみたいなの】

【幻覚じゃないよ。ピエールにも聞こえる。妖頭芭蕉に、手下の子狐、金と銀もいるでしょう】

【じゃあ、現実なのね。踏み込む?】

【一気に制圧するのは難しいよ。銃撃戦になる。でも、覚悟はしている。茜に教わったことを総動員して、戦うよ。また、酒の中に戻りたいとは思わないからね】

 背中合わせの隊形を解き、足音を殺して、歩き出す。

 酒を輸送するための水路から出た空間はなかなかの広さだった。地面に置かれた狐の和燈だけではとても全体を照らし出せず、淀みのような闇の溜まり場があちこちに点在している。邪悪を切り裂くように伸びたペンライトだけが頼り。

 真っ白な光の線に顔を出すのは酒樽。

 見たことがない大きさだった。樹齢数千年といった大樹から切り出した幹をくり抜いて作ったような存在感がある。樽に触れて、軽く小突くと、鈍い音がした。中身は酒がみっちりと満たされているに違いない。

 酒樽の影に身を潜め、周囲を窺い、次の酒樽の影へと移動する。運動神経があまり良くないピエールも遅れることなく続く。妖頭芭蕉と狐たちの声は少しずつ大きくなっていた。

「酒の需要が高まっている。外出してはいけない、人に会ってはいけない、お家にいようという、政府の圧力のせいで人々のストレスは限界に達しつつある」

「それを解放するのはお酒なのだわん。だから、もっと作らなければならないわね」

「機械を導入すれば、効率的に酒をつくれるのは分かっている。しかし、酒類取締官の目を欺き、設備投資をするのはなかなか苦労するんだ」

「あら、相埜谷酒之助は酒類取締官なのでしょう。彼が目を瞑ればいいだけじゃない」

「それができたら苦労しないさ。相埜谷酒之助は正義感の強い男なんだ。機械を導入するとなったら、妖頭會をくしゃりと潰すと決断するかもしれないだろう?」

「ふふん。意志は弱い男だけどね。すぐに酒に逃げて、禁酒の誓いを守れない」

「弱ったなあ。相埜谷酒之助は渋い顔をしている。禁酒をしようとする努力は認めてほしいと思っている」

「努力より結果よ」

「彼は結果を出せない男だからね」

 妖頭芭蕉と思しき男は相埜谷酒之助を客観的に見て、話をしている。

 すると、妖頭芭蕉は酒之助ではないのだろうか。

 色々の声が乱れ飛び、誰が誰でという区別をつけるのは難しくなる。せめて、その姿を拝める位置まで移動をしたい。聞き耳を立てて、真相を盗み聞き、一網打尽に逮捕をする。

 それが取るべき、最善策だということは分かっているが、樽の死角を確認する度に、鼓動が最大化されて、はっはっと喘ぐ。

 見てはならぬものを見ようとしている感覚。鶴が自分の羽根を引き抜いて、機を織っているのを見てしまったように、人ならざる不気味さが肉の外で爪を立てているようだった。

 ピエールにぐっと腕を掴まれて、酒樽の影に戻され、小さな悲鳴を上げそうになった。掌で唇を覆い隠し、ぐっと声を潰す。

 ピエールは腕を絡めて、ジェスチャーを作る。前方を指さし、胸の前で×印を作る。彼の嗅覚は鋭い。すぐそこにいるというのが分かるのだろう。

「一応、確かめておきたい。奴らが完全に死んだかどうか。どんな顔をして溺れ死んだのか見ておきたい」

「あの水路には覗き穴が付いている。それで、中を覗くと良いのだわぁ。きっと、良い顔をしている。遺影に使えそうな立派な表情が、酒に浮かぶ果実にように彩りを加えているはずだわ」

 行くしかない、田島茜は動いてナンボの女。

 人差し指を伸ばし、引き金に指の腹を押し当てる。息を吐いて、腹の底に沈んだ怯えを叩き出し、うちはピエールと共に酒樽の影から飛び出した。

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