第参幕 一

 永遠に続くかと思われるほど長く伸びた縦穴にも終わりがやってきた。

 肩口に食い込んでいるリュックサックを背負い直し、ホルスターにしまっていた拳銃を抜いて、ペンライトを点す。ぢわっとした、光のサークルが円く伸びた。

「すっげ」賞賛が口から漏れる。

 芳ばしい樹木の香りが鼻腔へと殺到する。光の中に踊り出た材木たちの赤茶けた太い木目はぎらぎらとした入れ墨のように浮き上がり、フリーダムな楕円を作っている。蒲鉾状にくり抜かれた通路は冒険を促すように彼方まで伸びていた。

 僕は呼吸を整え、精神の泡立ちを鎮めてから、歩を進めた。木質の柔らかな感触が靴底から伝わってくる。素足で歩いたのなら、さぞかし気持ちが良いことだろう。しかし、ここは妖頭會の中枢。狐と面妖な術が木の葉と共に入り乱れる空間だ。足を吹っ飛ばすための地雷や、マキビシがばら撒いてあっても不思議ではない。

 限定された視界が恐怖を煽る。もっと、大きな光源を持ってくればよかった。ペンライトの位置を忙しなく変えて、少しでも全容が把握できるように努めてはいるが、ライトをどこに向けても、拭えない感情があった。

「酒之助だ。金狐、銀狐」叫んだとて、出てくるわけがないのは分かっていたが、それでも言わずにはいられなかった。わっと眼前に飛び出されるのは困る。心臓がいくらあっても足りない。

 ちっか、ちっか、光が頼りなく明滅をした。慌ててペンライトを小突く。こんなところで真っ暗闇はごめんだ。明かりの中央を黒い物体が駆け抜けた。はっと息を呑んで、追いかける。ゴキブリか、鼠か。あるいは……。

 考えを巡らせていると、それは現れた。

 どこからか続いている文章の一部で、ベリィ系の果実を潰して塗りつけたような赤を用いて壁に書かれている。流暢な筆記体で、ハネやハライをぴょんと跳ね上げる独特な筆跡。僕はその文章の先端を探した。まるで、古代遺跡の発掘に勤しむ考古学者のような気分だ。

 文章の書き出しはこんな風に始まっていた。

『物心がついた頃から、僕は特別な人間だと思っていた。普通とは明確に変質していた。そのせいで、僕は人々から人差し指を突きつけられた』

 自分が特別だという感覚は僕にもある。その特別性をアピールするために色々とやってきた。生徒会長に立候補してみたり(落選した)、手の届きそうにない高嶺の花に愛の告白をしてみたり(見事に振られた)。

『僕はトクベツを証明するべく、精神の凹凸を常識と摺り合わせることに苦心した。すると、僕の特別性は急速に萎んだ。失敗を避けるようになり、効率が良くて楽な手法を探し、怠惰を貪った』

 神童が掻き消えていく、とでもいうべきなのだろうか。成長して、大人になるにつれて、自分は特別な人間ではない。他の人間と変わらないんだよという現実をまざまざと見せつけられる。きっと、知恵がついたのだろう。それはとても嫌なことだよな。僕は特別だからすごいのだし、特別だから他者と分けられる。その他、大勢にラベリングされるのは我慢がならない。

 分かるよ、分かる、

『おやじは特別ではなかったと思う』

え、おやじ?

『なぜなら、同じことを繰り返すからだ。夜明けと共に目を覚まし、掃除や洗濯、食事の用意をして、野良仕事をする。えんやえんやと畑を耕し、僕が起きてくる頃には蔵にこもる。故に、活動を開始する頃には、全てが終わっている。完璧に文句がつけようもない仕事が横たわっている』

 ふん、このおやじは何も分かっちゃいないだろ。この【僕】というのが欲していたのは何気ない会話や、お前というやつはだらしないというお説教や、そういうのだ。何でもそつなくこなす完璧性ではない。人間と人間のコミュニケーションの中にある緩みが欲しかったのだろう。

『おやじのおかげで飯が食えたし、大学にも進学ができた。おやじは忘れずに仕送りをしてくれて、僕は勉学に励んだ。そんなおやじと一度だけ、喧嘩をした。僕が就職をすると言い出したときだった』

「…………」歯茎がたわむほどに、奥歯を噛む。前頭葉にぼうっと冷たい炎が点火されるのがわかった。

『おやじは匕首を抜いて騒ぎだした。失敗作! なぜ、お前を育ててきたのか分からんのか? 健康に気を遣った食事を出し、見識を広げるために大学にもやった。それらは全て、うちの蔵を継がせるためだ。就職なんぞ、許さん。僕は逃げ回った。必死だった。おやじだったら、間違いなく僕を殺すのがわかった。確実にやり遂げる男なのだ。魚の腹のような刀身がぎょろりぎょろりと光の角度を変えながら、襲いかかってくる。幸いなことに、僕は身のこなしが素早かった。剣道の有段は伊達ではない』

【僕】は僕じゃないか!

 僕について、多かれ少なかれ触れられるのは問題ない。ただ、他言したことがない、僕の頭にだけ保管されていることまで、言及されるのは尋常ではない。おやじが匕首を持って騒ぎ出したことはしゃべったことはおろか、日記に書いたことすらないのだ。どうして知っている? まるで、その場にいて、カメラを回して、写し取ってきたかのような正確さ。

『おやじは悪の権化であった。法律で禁止されている酒をつくり、闇で酒を売り捌いた。今や、令和の世だというのに、国会議事堂を取り囲んで、酒を解放せよとシュプレヒコールを行い、自由な飲酒を謳った政党を作り、代議士を送り込もうとした。それらは少なからず国民の支持を得た。凡庸なはずのおやじが少しずつ、特別な色に輝いていった』

 ペンライトはそれ以上先に進まなかった。

 何が書いてあるか、分かる。

 だって、僕が見たこと、

 考えたこと、

 感じたなのだ。

 それを文章に丁寧に落とし込んだら、こんな感じになるはずだ。

 殺すしかないと思った。

 僕を作った原材料が、

 成果物である僕を上回ることがあってはならない。

 ひっこんでいれば、良かったのだ!

 酒づくりという単純作業の連結を崩すことなく、酒をかき混ぜ続けていれば長生きできたものを……。

 あろうことか、作ってしまった。

 酒と金が精緻に織り込まれた組織、その名前は……。

 銃口から火焔が噴き出し、ぬらぁっと暗闇が切り開かれる。

 衝撃によって爆ぜた火薬がばつんと空気を裂いた。

 僕の人差し指は引き金にかかっており、きっちりと奥まで押し込まれている。

 ぽぉうっと明かりが灯った。夕暮れの海辺に漂う太陽光の残滓のよう。

 べべんべんべんべべんべんべん。

 三味線が静寂を吹き飛ばす。

「いらっしゃったわ」中指と薬指を親指にひっつけ、金狐が狐のぽぉじんぐ。

「妖頭芭蕉様のおなぁりぃ」妖頭會と書かれた扇子を銀狐は口元に当てている。

 どちらも、例の仮面を被ったまま、素顔は隠している。

 通路の端っこに、狐の造形を縁取った照明が等間隔に置かれ、狐たちの背後に延々と伸びている。地下に潜り込んだ道はずっと先まで続いていた。

 新顔か?

 金狐と銀狐の背中に隠れるようにして一匹の狐がいた。金と銀の腰ほどしか背丈がなく、肩口まで伸びた金髪がぱっつん、切り揃えられている。顔を覆っている仮面は子どもが落書きをしたように、うねうねと脈絡のない線が走っていて品質が低く、狐の未成熟さを際立たせていた。

 仮に、童女とでも名付けておこう。

 童女は両手で三味線を大事そうに抱え、雰囲気を演出するように小さな指で、べん、べん、べんとバチを叩き続けている。

「妖頭芭蕉がいるのか?」僕はもわぁんと煙を吐いている銃を狐たちに向けながら言った。

「あらーん、怖い」

「ちょっと、眩しいわよ。酒之助」

 狐の抗議を受けて、銃を下ろす。が、銃把は強く握ったまま、いつでも構えられるような体勢を整えておく。

「そりゃあ、いるわよ。わたしの目の前に」

「あたしの目の前にもいるわ。驚きで唇を尖らせながら、こっちを見やっている」

「僕が妖頭芭蕉だと言いたいのか?」

「そうに決まっているじゃない。今更、隠そうっていうわけ?」

「往生際が悪いわ」

 金狐と銀狐は顔を見合わせると、「ねー」と声を揃えて言った。

「僕は相埜谷酒之助だぞ。妖頭芭蕉じゃない!」

「相埜谷酒之助であり、妖頭芭蕉である」金狐が空をかくように両手を動かし。

「妖頭芭蕉であり、相埜谷酒之助である」銀狐は扇子をばさばさと振った。

「訳の分からないことを抜かすな。そんな記憶はない」

「記憶障害なのかもねー」金狐は人差し指をこめかみに押し当て。

「知らないふりをしているのかもねー」銀狐は扇子をばちんと閉じる。

「壁に書かれた文章はなんだ? 誰が書いたんだ」僕は銃口を壁のほうにやった。さっき、発射した弾丸が壁にめり込まれていて、文章の一部を破壊している。

「これはね、わたしたちが書いたのよ」金狐は牙のように長く伸びた爪の先で壁の文字を突き、「妖頭會の歴史よ。滅び行く酒を必死で守るレジスタンスの手記」銀狐は金狐の爪の上に扇子を押し当てる。

 べべん。

 童女が同調するように三味線を弾く。

「僕はこんなことまで話した覚えはない」

「あら、また覚えていないふりをするのね」

「都合の良い記憶だわ」

 銀狐が扇子を再び開き、金狐はその後ろに掌を隠した。しばらくして、銀狐が扇子を取り払うと、手品でござんすと、金狐の指先にワイングラスが出現した。

 グラスには真っ黒な果実がたっぷりと詰まっている。見てくれはブルーベリーそのもの。

 ブルー……ベリー?

「ベラドンナ」金狐は言った。

「イタリア語でね、美しい女性を意味するのよ、オオカミナスビとも言うわ」銀狐が補足する。

「あらやだ、わたしのことね」

「何を言っているの、金狐。あたしのことに決まっているじゃない」

 視線が静電気を帯びているようにヴァヂッと一瞬交錯した後、ふん、と振りほどかれる。

「これはね、ナチス・ドイツが開発した自白剤にも使われている果実なの」金狐は指先でベラドンナをつまみ上げる。べべん。

「トロカンアルカロイドの成分がね、大脳新皮質をほぐし、舌の根を柔らかにして、しゃべらせるの。こういうのはお得意な分野でしょう」銀狐はごりり、首を傾げる。べべん。

「おひとつ、いかがかしら?」金狐が果実をつまんだ右手をこちらに伸ばした。

「正気か? ベラドンナは猛毒だぞ。触れただけでも、ひどい気触れになる」僕は顔を顰めた。

「あら、知っているのね」

「麻薬取締部に在籍しているのは嘘じゃないのね。お酒ばっかり呑んでいるから、酒之助の商売が分からなくなるのだわ」

「今すぐ、その果実を捨てて、指先を洗浄したほうがいい。悪いことは言わん」

 僕は一歩、二歩と後ずさって、金狐を窘めた。

「優しいのね。じゃあ、あなたが舌先で舐めとって、洗浄してちょうだいなぁ」

「いつも、甘い、甘いって言いながら、やってくれるでしょう」

「銀狐やぁ、酒之助はそれを金狐の唇でもやるのよ」

「金狐よぉ、酒之助はそれを銀狐の乳房でもやるのよ」

 金狐と銀狐は顔を見合わせて、うふふのふぅと笑い声を漏らす。

「僕がベラドンナの果実を食べて、べらべらと秘密を漏らしたと言いたいのか?」

「そうよ、やっと思い出した?」呆れた銀狐の声。

「時にはブルーベリータルトの表面に混ぜて」べべべんべん。

「時にはワインのアクセントに絞り出す」べべべんべん。

「バレないようにやるって大変なのよ」金狐はお腹を押さえて大笑い。

「僕は食べないぞ」あごを引いて、断固とした拒否を示す。

「いいわ。銀狐、食べるわよね」

「もちろんよ。糖蜜漬けなのでしょう。生姜とシナモンを混ぜて、大鍋でことこと煮たのよね」

「酒之助に食べさせようと思ったのに残念だわ」

 金狐はそう言うと、ベラドンナの果実をつまんだ人差し指と親指を銀狐の仮面のそばまで宛がった。銀狐は仮面の口元の部分を扇子でちょんと押し上げて、隙間を作ると、ベラドンナを仮面の内側へと受け入れる。

「あわわのわ」もぐもぐと咀嚼した銀狐が奇声を発した。けんけんけん、片足で飛び上がり、「痺れるのだわ。舌がぷしゅんと力を失っていくのだわ」と叫ぶ。べべべん。

「吐き出させろ。死ぬぞ!」

「死なないのだわ。銀狐は強い子、頑張る子。こんなことで、生から退場するほど、やわな狐ではないのだわ」金狐は無邪気に言った。

 そして、山積みになっているベラドンナをもうひとつ手にした。それを今度は自分の仮面の下へと持ってくる。

 狂気が雨あられ。

 そこまでして死にたいのか……。

「甘いのだわん。頬が痺れる。喉の奥にかゆみが走る。甘露甘露」

 金狐の仮面の縁から液体がこぼれる。だらんと長く、透明で真っ直ぐ伸びた水の糸は、錯綜する明かりの中を駆け落ちて、暗闇の中へと消えていった。

「ごごんごんごん♪ ごごんごん」金狐が不可思議なリズムで体をくねらせると、

「ぎぎんぎんぎん♪ ぎぎんぎん」銀狐が呼応するようにして踊り狂う。

 三味線は重なった音符をなぞるようにして、じゃんじゃかじゃんと乱れ打ち。

 童女は疲れた様子も見せず、一心不乱にバチを叩く。この世のものではない存在に導かれているようで、不気味だった。

「酒之助は殺人がお好き、ごんごん」

「人が息絶える瞬間を感じるのがお好き、ぎんぎん」

「頸動脈に紐を巻き付け」

「びくんと喉仏が跳ね上がるのはたまらない」

「動かぬ証拠が残ったとしても」

「自分の手は自分で汚す」

「それが相埜谷酒之助のやり方」

 金狐と銀狐はちゃ、ちゃ、ちゃ、と合いの手を入れながら、しゃべり続ける。

 僕は我慢できず、口を挟む。

「僕は誰も殺していない!」

「嘘よ。おやじを殺したじゃない」金狐はワイングラスに接吻をして。

「全てベラドンナを口にした酒之助がしゃべったのよ。それを聞いたあたしたちが、ベラドンナを食べて、ベラベラと自白しているわけ」銀狐は扇子を刃物に見立てて、喉仏を刺す。

「おやじは銃で撃たれたんだ。課長か、茜先輩が撃った弾に当たった」

「確かに弾は当たったわ。でも、銃弾は太い血管を外れ、貫通しており、致命的ではない」

「わふうん。酒之助は言った。僕はおやじが崩れ落ちそうになるのを見て、とっさに手を伸ばした。心中は死んで欲しくない気持ちでいっぱいだった。だって、おやじがいなかったら生まれて来なかった。成長できなかった。親は存在するだけで肯定されるのだ!」銀狐が僕の声を真似る。渋柿から渋を煮出して、丹念に練り込んだような声色。頭の中でいつも反響し、僕自身を懸命に定義している。

「だけども、だっけどぉ。おやじに触れた瞬間、それは変色した。おやじを抹殺する、大のチャンスだ。酒の利権を全て手にできる。邪魔者はすぐに離れていった。浦島ピエールも田島茜も正義の塊のような人間だから、真っ先に助けを呼びに行った。そして、おやじが振り回していた匕首を奪い、喉元にずっぶり」かあああっと、金狐が奇声を発する。

 べべんべべべべべええええっ。

「そんなことはない。嘘だ」

 首を振って、猛然と否定する。

 おやじは勝手に死んだんだ。

 僕は誰も殺していない、殺していない、善、良。

「妖頭芭蕉様、次は誰を殺しましょうか」

「刃物の準備はできております」

「それとも銃がようございますか?」

「毒物がようございますか?」

「やっぱり、ひぃもですかあ?」

 金狐と銀狐はくるり、僕に背を向けて、通路を歩き始める。

 踊りゃな損損といった具合に、てれこてれこと手足を振り回す。その後を童女が三味線を爪弾きながらついていく。狐を模した照明の中には、ろうそくがあるのだろう。通路を照らす明かりはまるで呼吸をしているみたいに、狐たちが撒き散らす風のせいで揺れた。

 僕はペンライトの明かりを落とし、狐たちの背中にぴったりと銃の照準を合わせながら、追いかけていく。

 餅のように長く伸びた影には狐が象られていた。

 耳や尻尾が歩く振動に合わせて、揺れる。

 おかしい。

 金狐と銀狐と童女は仮面こそは被っているものの、耳や尻尾はない。

 しかし、

 人間の輪郭からはみ出るようにして伸びたそれはなんなのだろうか。

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