幕間  弐

 鳩貝は菓子パンの包装を破ると、狐の毛皮のような色を持つパン生地に歯を立てた。歪な歯形に沿って切り取られた断面には、ルビーのような苺ジャムがとろりと顔をのぞかせている。

 傍らにはシートベルトを締めて、ハンドルを前にした女がシートに腰掛けている。白と青のパッケージに『朝のまきば』と表記された牛乳パックを手にして、ストローの端っこへと唇を窄めている。しわの寄った唇には赤と橙を混ぜ合わせたリップがたっぷりと塗られている。

「はとぽっぽのご自宅もこんな感じなのでしょうか」ぷはっとストローから唇を離して、息継ぎをしてから女は言った。

「どうしてそう思う?」

「そりゃあ、左右衛門ですし」

「偏見だろうが。左右衛門でもよう、普通の戸建て住宅に住んでいるぜ。機械警備が入っているし、チワワとミニチュアダックスフンドのミックスの番犬もいる」

「可愛い番犬ですね」

「俺のことを唯一理解してくれる女だ。睨みを利かせても、平然とうんこをするしな。あいつは肝が据わっている」

「なるほど、意外でした。コースタルカーペットパイソンでも撫でながら、番茶でも啜っているようなイメージがありました」

「なんとかパイソンっていうのは分からんが、番茶じゃなくて、煎茶を飲むぞ。俺が二番摘みや三番摘みで満足するような舌を持っていると思うか?」

 ぱくりとジャムパンは削り取られていく。女は牛乳パックをカップホルダーに置くと、サンドウィッチの包みに記載されている数字の順番どおりにプラスチックフィルムを剥いていく。ハムとタマゴとレタスとツナとカツとコーンとエビをマヨネーズと辛子で和えたものだ。

「いつも、机に置いているのは番茶ですよ」

「なんだと! 煎茶にしろと言っておいただろう」

「おまけに出涸らしです。自分にたっぷりと濃いのを注いでから、お湯を足していますから」女はつんとあごを前に出した。

「……」鳩貝はショックを隠しきれないと言わんばかりに目を見開き、ぶるぶるっと首を横に振った。

「一時間くらい経ちますかね」女は視線をすっと運転席の窓辺から外へと流しながら言った。視線の先にはいかにも、鳩貝が住んでいそうな日本家屋があった。

「そうだな。出てくる様子はないし、銃声も聞こえない」

 ジャムパンは姿を消し、鳩貝は掌に付いたパンくずを払った。

「防音仕様になっていたら、銃撃戦になっても聞こえませんよ」

 女がそう言うと、鳩貝はダッシュボードへと手をした。今年の春に更新されたばかりのパトカーには最新式のタッチパネルが備え付けられている。たんたかたんとタップをするだけで、空調装置から警察無線の連携までこなす優れものだ。

「そりゃあよう、人間の耳には聞こえないかもしれねえが、あくまで防音だからな。空気中の微細な音波の振動を捉えられれば、銃声くらいだったら簡単に拾える」

 タッチパネルに緑の波形が浮かび上がる。

「あれ、マニュアルにこんな機能の説明が載っていましたっけ?」

「俺が入れたんだ。そんなに難しいプログラムじゃないし、集音するマイクは赤色回転灯の端っこにくっつけてある」

「げげっ、はとぽっぽってプログラミングもできるんですか」

「褒めてもいいぞ」

「絶対に褒めませんが、パトカーにプログラムって勝手に入れてもいいんですか?」

「ダメだろうなあ。セキュリティ部門が聞いたら怒るぜ」

「密告してもいいですか?」

「沖ノ鳥島に、警察庁の出先機関があってだな……行くか?」

「やめておきます」

 女は口を大きく開けて、サンドウィッチを頬張る。ハムの欠片がぽろりと紺色のタイトスカートの上に落ちた。肉付きのよい太股が筋肉のしっかりとした線を伴って、ふっくらと浮かび上がっている。「ああ、染みになっちゃうわ」と女はぼやきながら、指先でハムをつまむ。ネイルはべた塗りの茜色をベースコートとして、透明感のあるトップコートを纏い、クリスマスをイメージするような緑の斜線がアクセントとして入っている。

「妖頭芭蕉について、少し聞いてもいいですか?」

 女が訊ねると、鳩貝は面倒臭そうに鼻柱にしわを寄せた。

「世の中には知らないほうがいいこともあるって、パパから習わなかったのか?」

「馬鹿にしないでください。気になるじゃないですか。妖頭芭蕉は誰なのか、はとぽっぽはどうして酒類取締課に目をつけているのか、狐たちは一体何者なのか」

 鳩貝はコンビニエンスストアで抽出したカップコーヒーに口をつけた。濃厚な豆の香りがゆっくりと車内を満たしていく。

「答えを与えるのは簡単だ。推理の道筋を示し、こうだという真実に指を突き刺す。結構快感なんだぜ、そういう眼差しを浴びるっていうのは。でもな……」

 鳩貝は一度言葉を区切ると、カップコーヒーをホルダーに戻してから、自由になった右手の指先をタッチパネルに這わせる。

 緑の波形がびいいんと音がしそうなほど激しくのたくっていた。ギザギザと曲線が連なり、幾ばくか間を置いてから、再びうねる。

「おっと、死んだな。誰かの命がお空へと飛び立った」

 鳩貝の言葉を聞いた女の顔に影が走る。唇を真一文字に引き結び、湧き上がってくる感情を抑え込むかのように、視線をすっと下げた。

「パトカーで待っていてもいいぜ。現場に出ることだけが仕事じゃねえ」

「いや、行きますよ。弱くないですから」

「弱さは否定すればするほどに、弱く、脆くなっていくっていうけどな」鳩貝は体を捻って後部座席から漆黒のロングコートを手に取った。

「大きなお世話です」

 鳩貝左衛門はパトカーの扉を開けて、車外へと出る。押し迫る師走の末が風となって、冷たく吹き付けてくる。ばさりと風を孕ませて、ロングコートの裾が宙を舞った。折りたたまれたしわが伸び、仕立ての良さそうな生地に、鳩貝は袖を通す。

「真実はひとつじゃねえ。そりゃあよう、客観性のある科学的な真実はひとつしかないかもしれない。それは大多数の人間にとっちゃあ、真実だし、ああ、そうだよねって納得できるオチだと思うぞ。でもよう、人間は主観的な生き物だ。異なる考え方を持ち、異なるフィルタを通して、世界を観察している。その数だけ真実があるんだ。俺はそういう真実も見つけてやりたいと思っている」

 鳩貝と女が乗っていたパトカーの前後にずらっと縦列駐車をしていた車の群れから一斉に人が降りてくる。防弾チョッキや顔を隠す覆面を被り、ドイツ製の短機関銃を手にしている。

「ちょっと、大袈裟過ぎる気がするが?」鳩貝は所定の配置につく、機動隊の面々を見やりながら言った。

「はとぽっぽ、妖頭會ですよ」

「それもそうだな。うん、このくらいは必要か」

 鳩貝はロングコートの懐からマールボロの箱を取り出した。とんとんと箱の上部を指で叩いて、煙草を浮き上がらせる。端を唇で挟み、いつものように慣れた手つきでマッチを擦った。

「さて、諸君。仕事だ。命令はひとつ」鳩貝は煙をたっぷりと吸い込み、しっかりと味わってから続きを口にした。

「生きて、お家に帰ること」


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