第弐幕 四

『ねえ、酒之助。わたしとあたしは茜ちゃんを誘拐したの。そうよ、ピエールの娘。田島茜じゃないわよ。あっちは手練れ過ぎて攫うのが大変だから。この娘は良い子ね。わたしやあたしの言うことをちゃんと聞くし、お行儀良くご飯を食べられる。殺してしまうのはあまりに惜しいわ。だから、酒之助が助けにきてちょうだい』

 仕事を終えて帰宅すると、壁にトランプが突き刺さっていた。スペードのエースだ。

 金属製で、端っこは鋭く尖っており、指の腹をさっと走らせると裂けて血が滲んだ。こんな悪戯をするやつは誰だと憤っていると、机上に言い訳をするような手紙が置かれており、正体が割れる。

 狐。

 彼女たちはどうやって部屋に侵入したのだろうか。僕はオートロックが導入されているマンションに住んでいるし、扉の鍵は種類の違うものをふたつ備え付けている。易々と部屋の中へと入り、壁に傷をつけ、手紙を置いていくなんて芸当はなかなかできるものではない。

 狐は進化している。スピークイジーへのお誘いがあったときは、郵便ポストに手紙が入っているだけであった。しかし、今回は茜ちゃんを誘拐し、複数の鍵を打ち破って、部屋の中に侵入している。背筋がぞっと寒くなった。

 僕の背後に立ち、気取られぬまま殺すことも……。

 視線を感じて振り返った。首筋に狐の眼球が縫い付けられているような気がした。

『酒之助だけで来てちょうだい。他の人には秘密ね。警察なんてもってのほかよ。酒之助が思いもよらぬ、あの人も妖頭會と繋がっているから、無作法な真似はすぐに分かるわ。酒之助だから、心配はしていない。頭に血が上って、銃を引っ掴んで、すぐにやってくるんでしょう? それでいいのよ、待っているわ。それと、持ってきて欲しいものがあるの』

 僕は手紙から視線を離し、部屋の片隅を占有している黒いキャビネットの前に歩み寄った。

 映り込みのないマットなデザインは業務で使う銃とよく似ている。

 キャビネットは人肌よりも熱くなっており、うーうーうーとモーター音を発して、腹の中の温度を一定に保っている。先端技術が密集し、複雑な半導体に直結しているパネルに指先を押し当て、僕を承認させる。

 錠前が外れる音が響いて、扉が自動的に開いた。

 空気が変わる。

 ほんのりとアルコールの香りがするような、しないような、判別がつかないうちに飛ぶように消える。

 中に入っている酒をカテゴライズできない。

 なぜなら、日本酒もあるし、ウイスキーもある、ワインだってあるし、リキュールだってある。酒の種類ごとにキャビネットを用意して、温度管理をするのが理想なのだろうが、そうすれば、僕が住む賃貸マンションはキャビネットで埋めつくされてしまうし、コンセントの口は足りなくなってしまう。ひとつのキャビネットに収納するのが現実的なセンだ。

 僕はとっておきの酒瓶をひとつ、抜き取った。視線を細部にやって、異常がないか確かめる。

 表面をウェスで磨き、愛おしさを込める。

 どの角度から視線を放り投げても、

 それは、

 美しい酒であった。

 息を呑み、身震いする。

 高級感のあるラベルに視線を落とす。

 妖頭會がブレーンを務める闇取引でも滅多にお目にかからない代物。放流をすれば、酒類取締官を辞めても、有り余るほどの財産を築けるだろうが、僕は手放すつもりはなかった。

 ちゃらんぽらんと悠々自適さを享受しても、

 酒類取締官としてあくせく働いたとしても、

 時間というものは平等に流れていく。

 乱雑に時間を弄ぶのは苦手だ。

 なんだか煙草に火をつけて一口も吸わずに、火種を灰皿に押しつけているような感じがして、人生を謳歌していない気分になる。

 それに酒類取締官をやっていれば、思わぬところで酒と出くわす。市場には流れていない美品を押収という名目で手にできる。

 僕は酒瓶が割れないように緩衝剤を巻いて、箱の中へと丁寧に梱包した。銃を振り回せるように、両手の自由が利くリュックサックを選び、慎重に中に入れた。

 荷造りを済ませ、僕はマンションを出た。銃を取りに庁舎へと寄らなければならない。引き金を引くような事態にはならないだろうが、用心は重ねたほうがいい。


 庁用車のエンジンを切って、運転席から車外へと出る。

 ジャケットの内側の膨らみを軽く指先で撫でて、目を閉じた。

 エンジン音が消え去り、静寂が渾々と湧き水のように萌えて、浸潤していく。

 不気味さが影のように僕の背後にまとわりつき、不安を煽っていく。

 僕は銃把を握ってホルスターから抜き出すと、先端を前方に向けて構えた。

 目を開けて表札へと視線をやる。狐の名前がさらりと描写されている。

 金狐と銀狐は何者なのだろうか。

 妖頭會とどのように関わり、どの程度酒の違法流通に関わっているのだろうか。長らく、狐たちと接してきたというのに、僕は彼女たちを何も知らない。だのに、親密な付き合いを重ね、唾を飛ばして愛を囁き、ベッドの上でごろごろと丸くなった。

 そんな関係性は心地が良い。が、今日で引き裂こう。

 真実を暴き、時を先に進めるのだ。

 老獪で重々しい引き戸を開けて、三和土へと足を載せる。靴は脱がず、土足のまま廊下へと上がり込む。呼び鈴は鳴らしたし、狐の名前も大声で叫んでみた。

 だが、目脂の付いた起きたてのあんにゅいな顔で狐が顔を見せることはなく、屋敷は沈黙を守り通している。

 土足で踏み荒らしたと知れば、狐はむきいっと怒るような気がする。

 彼女たちは酒を呑みながら、忙しなく手を動かすのだ。ボトルの水滴を拭き取ったり、グラスの曇りを見て、眉間にしわを寄せたり。そんなの気にせずに飲酒に集中したらいいじゃないかと諭したのだが、こまめに掃除をしないと酔っ払えないらしい。

 周囲の汚れは心の汚れ。心が汚れれば、感情の襞の中にあるアルコールの受容体が麻痺をしてしまうらしい。

 銃の先端で空間を嘗め回すように、索敵。

 狐の気配、なし。留守にしているのか、息を潜めて隠れているのか。悪戯好きな彼女たちだ。きっと、びっくりどっきりの仕掛けを施しているに違いない。

 幾度となく逢瀬を楽しんだ部屋は生活感があふれている。

 キッチンには食べ終わった皿や調理道具がシンクに放置されていたり、ダイニングテーブルには、ビールの空き缶が転がっていたりする。

「ったく、こんなんじゃあ、一生嫁になんていけないな。僕が逮捕をするから、獄中には行けそうだけど」まんざらでもない。僕は世話好きなので、こういうだらしないところはツボだ。そそくさと手を動かし、片付けをしてやりたい。

 居間から床の間へと移動をする。畳の上に敷かれた布団は乱れ、シーツはくしゃくしゃに丸まっている。僕はシーツに鼻面を押しつけた。狐の濃いにおいが脳を灼く。

 絡め合った足、

 つんと天空に向けて肥えた尻、

 仰向けになってだらんと重力に従ってこぼれようとする乳房。

 息んで暴力的に振り切った腰の強さを思い出す。

 僕は畳の上に転がっている飲みかけの酒瓶を手にした。黄色い液体がちゃぷんちゃぷん、水音を立てる。甘いにおいが漂う。ラベルのない名前の分からぬ酒、唾液が混じり、どのくらい放置されているか分からないそれを僕は呑む。

 喉が焼けるように熱くなる。

 パイナップル、オレンジ、グレープ、ドラゴンフルーツ。パパイヤ、びりびりとするブルーベリーも入っている。

 南国を思わせるような陽気な酒だ。狐のどこか南国でゆっくりする夢でも見たいという願望を感じられるが、お前がゆっくりするのは冷たくて寒々しい、金属の楼閣だ。

 銃を構えたまま部屋から部屋へと移動をする。ふと、靴底に慣れぬ違和感を抱いた。しゃがみ込んで、床板に視線をやる。その有様に、僕はほほうと口角を左右に広げた。

 茶と灰の色をぶっかけて、練り込んだような表面は、経年劣化によって、空気中の塵芥を含んだかのよう。それが、スパッと刃物で切り取られている。

 継ぎ接ぎをするように切れ目から続いている板っぱは、未だ汚れを知らぬといった具合に白々しい、木の肌を晒している。

 真新しい床板の上を足で踏みつける。靴底にくぽんとした緩やかな落下を感じる。たわんでいる、きしんでいる。床の底は空洞なのかもしれない。僕は床板の切れ目に爪を立てる。もぞもぞと指先を動かし、隙間の中に指の骨と肉を爪ごと押し込む。手前に力を込めて床板を持ち上げると、深淵なる暗闇が僕を出迎えた。

 脂汗がたらりと額の上にある生え際の毛穴から垂れる。

 ワイシャツの肩口でぶるりと顔を拭う。

 もうすぐ街中では赤一色となり、陽気な鐘の音を響かせながら、人々の足取りと懐が軽くなる季節。暑さ、故ではない。脳の髄を人差し指の爪でがりがりとやる、奇妙なこそばゆさから来る、塩辛い雫。

 僕は構えていた銃の武装を解いて、細工をした。銃身の上部にペンライトを取り付ける。かちりとしたはめ込みやねじねじの具合や、ペンライトのスイッチを入念に確かめた。

 再び、銃を構える。

 銃口を穴の底へと向ける。とても、底まで照らし出せるものではない。精々、僕が両腕をぴんと広げてふたつぶんといったところだろうか。

 現れた穴は四角や、丸や、三角など、そういうありふれたものではなかった。

 細く尖った輪郭のどん尻、

 膨らませた頬のような曲線、

 林檎の芯のように伸びた直線、

 それらが手を取り合い、結合されて作られた形を僕はよく知っていた。

 ♠

 美しく左右対称で、精密な集積回路を手首にはめ込んだ妖精が仕事をしたかのような切り口。縁の部分は丁寧にやすりがかけられ、怪我をするような微細な凹凸も存在しない。

 僕はリュックサックの中から、例のトランプを引っ張り出した。透明なファスナーが付いたプラスチックバッグに入れられたそれは、自分の顔がくっきりと映り込むほどの鏡面仕様になっている。金属の板に刻まれた造形は疑いようもなく、♠を表している。おまけに、その♠はぽっかりと穴となって向こうの世界を穿っている。

 酒之助よ、♠の穴の中に入っておいでと狐が囁いているような気がした。

 僕はぱさついて甘皮がめくれた唇に舌を這わせて、緊張感を含んだ吐息を漏らした。

 それから、トランプをリュックサックにしまいこみ、銃身にへばり付いたペンライトの灯火を穴の中に向ける。

 ♠の形をした縦穴の壁面には、一歩ずつ身体を降下させられるように、等間隔に並んだハシゴが延々と底のほうまで続いていた。

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