第弐幕 三

 アイボリーの壁に囲まれた通路を歩く。

 ぺたんぺたん、規則正しい靴音が反響する。

 真っ先に頭に浮かんだのは誰かにつけられていること。

 こんなに靴音が耳朶を打つなんておかしいわよ。

 正常なころ、それは遠くに光る幻のようだけれど、靴音なんて気にしなかったわ。堂々と前を向いて、仕事や将来に思考を染めていたの。

 しかし、今は足音が気になる。

 足音は重なっていないかしら。足を止めたら、足音も止まらないかしら。

 試しに立ち止まってみる。

 後ろを振り返ってみる。

 煌々とした蛍光灯が歩いてきた地下通路を照らし出す。

 しかし、窓がなく、太陽光が差し込まず、人気もないこの空間にのさばっている。孤独という空気だけは照らし出せずにいる。当然、足音も止まる。

 うちが足を止めたから足音が止まったというのが正しいのは分かっているけれど、うちと同じように誰かも足を止めた可能性も捨てきれない。

 誰かいる。

 確実にいる。

 人間の形を取らない、周囲のものと完全に同化した、存在が背後にぴったりとついている。正体は小癪な銀狐かもしれないが、今はおしゃべりな口はどこかに行っていた。肝心なときに役に立たない狐。寂しいわ。

 通路の先には口を閉ざした門番が立っていた。分厚い金属の扉によって行く手を阻み、暗号キーと秘密キーの組み合わせで鍵をかけられている。

 それは何も持たない侵入者にとっては攻略不可能な要塞なのかもしれないわね。しかし、うちの前では無力。

 顔写真とIDナンバーが刻印された身分証明書を内包した名札をカードリーダーに読み込ませる。錠はあっさりと開かれた。うちがセキュリティを構築する部門にいるとしたら、薬物に汚染されていないかどうか、検査をするわね。指先から一滴の血を拭い取るだけで反応が出るのですもの。

 危険よ。押収した薬品を保管する場所に薬物中毒者を招き入れるのは、壊滅的な打撃になる。

 収穫時期を迎えた薬物たちが、棚の上に所狭しと並んでいる。

 ここは麻薬取締部が管轄する保管庫だから、酒は置かれていない。

 大麻、覚せい剤、LSD、マジックマッシュルーム、シンナー、ヘロイン、コカイン、MDMA。その他、化学式を弄くり回して合法化へ足掻こうとした危険ドラッグたち。

 美しく、淫らで、繊細な子たち。

 体の中に招き入れたら、優しく包み込んでくれるの。愛している、一緒にいれば怖いものなんてない、そんな囁きが聞こえるわ。

 やめるのは簡単だと思うわ。大学には行けなかったけれど、薬学に関する勉強は人一倍やってきた。深い知識と、行動力、強い意志を兼ね備えている。ただ、先延ばしにしているだけなの。いつだってやめられると断言できるのなら、今は楽しんでもいいよね。

 唇でペンライトを咥えて、暗闇の中に一振りの光を呼び込むと、指先をひらひらと動かして、蝶々のように戸棚を漁る。本当は南京錠がかかるキャビネットで保管しなきゃいけない決まりだけれど、全員が律儀に守るわけない。

 鍵は入り口に大きなものがひとつかかっている、それで充分だと思っている職員が多いわけ。怠慢よね。うちは押収した酒はしっかりと管理しているわよ。念には念を入れて用心をして、個別に鍵がかかる保管庫にしまっているわ。だって、うちみたいな悪知恵の働く不届き者がいるのを知っているから。

 どれにしようかしら。一通り試してみたいわね。マジックマッシュルームなんていいんじゃないかしら。トリプタミン系アルカロイドのシロシビン。ワライダケ。ひょろりと伸びた軸、おかっぱのような傘は、華奢な少女のよう。これを口にするだけで笑いが止まらなくなる。

 ああ、どのくらい笑っていないんだっけ。

 自分が堕ちてしまったと知ってから泣いてばかり、後悔してばかり。

 悲しみと苦しみがチャンプルゥされて、そうね、まずい味だけが口の中に残る。

 マジックマッシュルームは密封瓶に入れられて、箱入り娘のように澄ました顔で、うちが手を伸ばすのを待っている。今行くわ。手を伸ばす。

 届かない。阻むものなんて、何もないのに、うちの手は空間に虫ピンで縫い留められてしまったように、動かない。

 ええ、今更ためらうっていうの? 

 嘘でしょう。冗談じゃないくらいに注射してきたのよ。皮膚が腫れあがっているのはもちろん、血管が分厚くなって、注射するのを拒否しているの。べろんって何回も皮膚が盛り上がった、傷の治りが間に合わなくて、腐った体液が膿と一緒に、肘から滴るの。

 最近はね、血管を探すのに勤しむの。

 ある程度太い静脈じゃないとダメだわ。動脈だと体を回っている間に濃度が薄まってくるし、筋肉に注射してもじんわりとしか効かないから無駄なのよね。

 視界の内側から液体が湧き出す。

 ニンゲンヤメマスカという道を走っているのに、涙だけは一丁前に出てくる。

 うちはまだ、人間なのかしら。

 

 扉の開閉を知らせる警告音が鳴り響いた。

 ぱらり、蛍光灯が明滅する。

 風船を破ったかのような衝撃が頭を揺さぶり、意識が晴れ間を見た。

 隠れなきゃ。まだ、見つかるわけにはいかないわ。

 丁度良い具合に、コンテナを見つけた。ううん、懐かしい響き。酒之助と一緒にコンテナの秘密を破り、密輸酒を暴いたんだっけ。

 扉が開き、足音が聞こえる。思い出に浸っている余裕はなく、コンテナの中に何が入っているか確認する前にずぶりと足をつっこんだ。プラスチックやガラスが触れ合う音。薬品を保管する容器を入れているものかしら。上手い具合にうちの姿を隠せるといいんだけれど。

 ずぶずぶ、顔まで埋める。幸い呼吸はできた。

 視界が前後に揺れる。

 遠近の感覚が薄れる。

 まばたきを繰り返し、どうにかして新鮮な視界を手に入れようとするが、泥酔したままお絵かきをしたような、稚拙な光景が網膜を彩る。

 救われたい、

 死にたい、

 楽になりたい。

 神様、

 仏様、

 観音様、

 僅かばかりの慈悲を。

 祈っても仕方ない、他力本願に頼って、どうにかなるほど、世界は甘くないと知っているわ。

 足音が徐々に大きくなってくる。先ほどまで感じていたつけられているという感覚が蘇ってくる。

 うちは間違っていなかったのかもしれない。足音の主はうちを追跡し、薬品の保管庫に入るのを見届けていたのかも。何をするか、不審に思ったから、自分のICカードを取りに戻ったのかもしれないわ。

 万事休す。絶対に発覚されたくない気持ちはある。だけれども、どこかでうちに気づいてほしいという気持ちはあった。

 肩を叩いて、呼び止めてほしい。

 やめたほうがいいという助言がほしい。

 幻覚や幻聴じゃなくて、ちゃんとした実態のある、温かみのある存在に立ちはだかってほしい。

 ピエールが頭をよぎる。

 圧倒的な肉をぼてぼて、骨格にはりつけた愛しい人。

 素っ裸で彼の体にまとわりつくと、包み込まれているような気分になる。

 寸詰まりのごちごちとした掌で頭を撫でつけられると、肯定感が高まる。

 厳しく、強烈に首を締め上げ、切磋琢磨するように強迫し続けている自分に待ったがかかる。

 けれどね、もう抱かれるのは無理そう。傷だらけの腕を見せるわけにはいかない。

 仰天するわ。

 詮索してくる。

 証拠を揃え、自白を引きだし、司法のラインに載せて、罪を悔い改めよと宣言される。

 それがね、きっと、彼ができる最上の愛情だと思うから。

 期待はしていない。

 奥さんと別れてくれという期待を抱いた時期もあったから。

 それは無惨に破られてしまったから。

 げふんと喉に絡んだ痰を払う音が聞こえる。肥満のせいで呼吸器があまり強くないのだ。たった一音で、彼だと分かった。

 息づかいや心臓の音まで、よく知っているから。

「おかしいな。確かに、田島くーんがこの中に入っていくのを見たんだけどな」

 やはり、あれは妄想じゃなかったんだ。

 ピエールの視線と、

 ピエールの足音だ。

 より分けなければならない、混ざり合った思考の中から真実だけを抽出して掌に載せる。できるわよ。だって、こんなにぼろぼろになりながらも、ピエールの追跡に気づけたのよ。真実の細い糸をたぐり寄せて、銀狐を逮捕し、妖頭會を壊滅に追い込むの。それが、救われる唯一の手段のはずよ。

 電子音がけたたましく鳴り響いた。

 思わず、悲鳴を上げそうになる。しかし、ぐっとこらえた。腹の底に力を入れて、声を潰す。強烈なる摩擦が熱となって、脳を焼き切ろうと試みる。

「もしもし。ええ、今日の晩ご飯? ううん、山盛りにしてほしい。一升くらい炊いておいて、ええ、マヨネーズがないの? バターもない? じゃあ、帰りにスーパーに寄って買っていくかあ。うん、帰りはね、遅くなりそうだよ。早く帰れるように努力するけどさ。今は忙しくてね」

 顔を少しだけ、プラスチック容器の海から浮上させる。

 ピエールの巨躯が影になっていた。どうやら、彼はコンテナを背もたれにしているらしい。スマートフォンを耳に当てて、ふんふんと嬉しそうに鼻息を吐きながら、聞きたくもない会話を垂れ流す。

「もう、大変なんだよー。死体ばっかりでね。うん、酒類の取締なんだけどね。そこの元締め、そう、妖頭會の連中が殺されまくっているんだ。参っちゃうよね。残酷な殺しかたでさ。毎日、夢に出てくるんだ。うん、だからいつもうなされているんだよ。お腹が空いているからうなされているんじゃないよ。ピエールはそんなに食いしん坊じゃないから」

 幸せがピエールの背中からだらだらと流れ落ちて、コンテナを満たそうとしている。そこに体を埋めて、隠れているうちは、今にも溺死しそうだった。

 いっそ、このままピエールの首を後ろから絞めて、うちも死のうかしら。

「茜ちゃーんの声が聞きたい。もう寝ちゃった? まだ寝てないよね。うんうん、魔法少女マッシュルームを観るまで、いつも起きているもんね。ああ、茜ちゃーん。パパでちゅよう!」

 どうして、自分は茜なのだろう。

 親を呪うしかなかった。あやね、あやか、あかり、そういう名前だったらどんなによかっただろうか。

 でも、茜なの。うちも茜で、ピエールの娘も茜なの。漢字も一緒なの。名前が重なったのは単なる偶然。

 ピエールはうちと娘を正確に分離して、違う愛を注いでくれているはず。そういう風に信じるしかない。娘と自分を重ね合わせて、錯覚した愛を注いでいる。違う、あり得ないわ。

「うんうん、元気ね。小学校は楽しかった? そうかそうか、お友達と遊んだのか。ちゃんと、お手々は洗った? バイ菌がたくさん付いているからね。偉いね。今度、お菓子を買ってあげよう。ええ、いらない? おデブになる? ハハハ、そうだね、茜ちゃんは痩せているもんなあ。パパによく似ているからね」

 電話よ終われ。

 うちを探すのを諦めて、

 保管庫から出て行ってくれ。

 もう新しい刺激を求めて、薬物を探さない。

 押収品を盗んだりしない。

 もう一度、健康のために闘うわ。

 平穏を維持するのって難しいのよ。

 体の異常を外部に発信して、叫び、狂いたいの。

 拘束具つきのベッドに縛り付けて、導いてほしい。

 良くなる方角を指し示してほしい。

 だって、どっちか分からないのよ。

 今、うちはどういう向きなのか、

 進んでいる方角は正しいのか。

 間違っているのならば、どちらに向けばいいのか。

 誰か、教えてちょうだい。

「ちょっと心配なんだ。うんうん、部下がね。最近、元気がなくて。人が変わったみたいなんだ。どう接していいか分からなくてね。試行錯誤だよ。上手くいかないほうのが多いかな。ちょっとずつ、嫌われているのかもしれない。ええ、そんなことないって? いやあ、ピエールは結構ひどい人だからね。自覚はあるよ。良い人間になろうと頑張っている。あんまり、頑張りすぎちゃダメって? 体を壊す? 食べ過ぎはよくない? うん、そうだね。分かっているよ。また電話してきてよ。うん、早く帰る。ありがとうね。茜ちゃーんにもおやすみって」

 始まりがあれば、必ず終わりがある。

 永遠に続くと思われた電話は切れて、ピエールはふっと大きく溜め息を吐いた。何かを考えている。それは通話に出てきた、茜ちゃんのことかもしれない。はたまた、薬品保管庫に消えてしまったうちを思っているのかもしれない。

 いずれにせよ、浦島ピエールはそういう男。

 ごくごく一般的で、少しばかり優しい方角に振り切れている。その不器用で、曖昧に濁された優しさが、うちの心に丁度良く染みる。

 がさごそと包み紙を剥く音が聞こえた。目を細めて、少しでも視力の回復に努める。どうやら、ピエールはチョコレートを頬張ろうとしているらしい。いつでもどこでも、食べるピエール。

「どこへ行ったのだ、田島くーん」

 うちの名前が呼ばれた。

 様子が変なうちの扱い方に悩み、ストーキングをして、急に消えてしまったものだから、慌てているのかしら。

 誰か一人を幸せにしようとするんじゃなくて、

 自分も幸せになりたいし、

 家族も幸せにしたいし、

 不倫相手の部下も幸せにしたい。

 それは、彼の体のように強欲で怠惰なるものなのかもしれない。

 ぶつ切りに、引き延ばしていった幸せは、乳酸菌たっぷり飲料のように薄まって、幸せの味なんてしなくなる。

 幸せの味って、どんな味だったかしら。

 うちは証拠品として押収された、プラスチック容器に封入された使用済み注射器の海の中で考えていた。

 汚染された赤黒い血液の跡が、視界の隅々に点々と広がっている。

 アア、星々の海、絶景かな。

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