第壱幕 七

 微睡みから産み落とされるようにして、のっそりとベッドから起き上がった。スマートフォンの時刻を確認すると、起床するまでにはずいぶんと時間があった。

 僕は照明を付けず、暗がりをのそのそ、物のふちを指先で確かめながら進んで、キッチンの脇に立つ、冷蔵庫の前に這い寄った。しなだれかかるようにして、冷蔵庫の扉を開けると、ガラスが触れ合う音が響いた。

 ごくん、喉を鳴らす。

 ぱりぱり、乾いた粘膜が擦れる。

 並んでいるのは、酒瓶。

 白く、冷たく、四角く、遮断された空間の中で、透明な瓶が身じろぎせずに、配備されている。

 呑んではいけない。分かっている。

 飲酒は違法行為、所持は犯罪である。口を酸っぱくして、指摘を続けてきたではないか。

「サ……ケ」

 僕ではない何者かが、僕の手を動かし、くびれた酒瓶に手を伸ばした。

 女の横っ腹のように、滑らかで、いつまでも触れていたいような優美さを兼ね備えている。酒は優しく、美しく、冷たく、残忍さを併せ持つ、複合体だ。

 開栓すると、アルコールのにおいが爛漫と立ちこめる。頭の中を流れる血がめりめりと音を立てて血管の肉を蹴り飛ばすのを感じた。ぐぐうっと呷る。僕の意思とは関係なく酒が喉の肉で作られた検問所を突破していく。

 フローリングの床にべしゃりと座り込んだまま、僕は酒を呑んでいく。

 まるで、湖の中を泳いでいるようであり、

 まるで、湖の底へ沈んでいるようだった。

「もう会えないの。会うべきではないの。これ以上、酒之助と顔を合わせていたら、壊れてしまう」

 スマートフォンにメッセージが飛んできたのはいつだっただろうか。最近だ。妖頭會壊滅のためのチャンスとして、踏み込んだ横浜港で、とある狐の面をはぎとり損ねた直後だったかもしれない。

 なぜ、会ってはならないのだろうか。

 僕たちは上手くやれていたはずだ。結びつきを強め、上等な関係を築けていたと思う。ハサミで結び目をちょっきんと切り刻んでも、すぐに新たな結び目を作って、絆を創造できた。

 が、女は一方的に別れを告げてきた。

 恋だったのか、愛だったのか、それは分からない。明確に付き合おうといったわけではないし、愛しているというのは淡い嘘っぴだったのかもしれない。

 しかし、僕は好きだった。女が十番目くらいにはと、嘯いていても、僕の中で彼女の序列は先頭だった。

 夜目が利き始める。

 闇に沈み込んだ、

 部屋の中の物言わぬ陳列物たちが、

 わらわらと存在性を主張して、産声を上げる。

 床には狐の面が落ちていた。傷が付き、毛が毟られ、赤い点々がいくつも見受けられるおどろおどろしいもの。差出人のない封筒に入れられて、郵便ポストの中に入っていた。

 鼻を動かすと誰が送りつけてきたのかすぐに分かった。存在を証明できない花のかおりが面の溝に潜り込んで棲みついている。

「あなたにぴったりだと思うの」

 封筒の中に入っていたメッセージカードにはそう書かれていて、日時と簡単な地図があった。僕は海面に漂う浮標のように、頭を揺らしながら、面を顔に宛がった。

 鼻一杯に女の体臭がなだれ込んできて、くらくらする。

 女の髪に付いた油と、

 痺れるような唇と、

 汗の珠が浮かび上がった鳩尾の窪みが走馬灯のように駆ける。

 涙が、慟哭が、号泣が、肉の蛇口を捻り、頬を伝う。

 下らぬ女ではないか。妖頭芭蕉の手先であり、僕を悪に唆そうとしている悪い女だ。そう自分に言い聞かせようとしても、しゃくり上げて、首を横に振ってしまう。

 女はそんなおんなではないのだ。

 では、どんな女なのだと問われても、ぴっちりと合う言葉が存在しない。端的に、単語を重ね合わせて、表現したとしても、生まれた言葉たちは途端に鮮度を失っていき、女になり得ない。

 会いたいという感覚に生々しい粘り気のある液体が混ざるのを感じた。ああ、女の愛らしい粘膜が僕の性器を包み込んでいるようだ。きモ、キモい、キモヰよな。そう、思われるのは分かっている。

 でも、離れていても繋がっているね、なんて女々しい言葉が小さな穴から抜け出そうとするシャワーのように次から次へと頭蓋骨の内側に打ち付けるんだ。思考の湧き水は止まらず、僕の頭を満たしていく。どうしたらいいんだ。センチメンタルが、わおーんと遠吠えを続けている。

 女が欲しい。戻ってこい。僕の腕の中でにゃあにゃあごろごろと喉を鳴らして欲しい。時間を戻してほしい。その一挙手一投足を再考し、理想的な結果になるようにやり直したい。

 横浜港なんて行かなければよかった。

 酒類取締官なんてならなければよかった。

 素っ裸の男として女と向かい合えばよかった。

 逮捕はしないから。

 打算的にお近づきになったわけではないから。

 指先を立てる。

 女のほっそりとした腕を引っ掴まんと、

 腕を前方に何度も伸ばし、

 何度も空を切って、

 何度も絶望した。

 虚無は暗澹たる絵の具をぶちまけたような色をしている。吐き気と酔いが冷え切った尻の肉の先端からづるづるとその身を捩らせて登ってくる。それが頭に届くまで、僕はまともな理性を保っていられるだろうか。

 酒瓶を何度も口に運んだ。

 強迫的に酔いを確かめ続けた。

 いや、生きているを確かめているのかもしれない。

 イキテイルネ。


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