第壱幕 八
デスクの端っこに拳をどんと突き落とすと、ピエールは「ヒイ」と甲高い声を出して、縮み上がった。上司には強気に出るのが信条。評価を上げて、出世をしていくには、何よりも目立つのが大切。
「妖頭會に逃げられたって! ざけんじゃないわよ」
「田島くーん。怒らないでよ。相埜谷くーんみたいになっているよ」ピエールの小さな丸眼鏡が今にもずり落ちそう。
すぐに熱燗みたいになる酒之助は昼休みでどこかに出かけている。
「だって、米軍が捕らえたんでしょう」
「そうなんだけれどね、逃げちゃったって」
「逃げたって、ありえないでしょ? がっちり羽交い締めにされていたじゃない」アメリカンマッチョイズムを体現する米兵が、狐をきゅうっと締め上げていた光景が頭をよぎる。あそこから逃げ出すなんてなかなか考えられない。
「確かにそのとおりなんだけどなあ」
ピエールは超といくつも飾り付けられたカップ焼きそばのフタをめくり上げると、ソースやら薬味やらをばらばらと散らし始める。
「うちが直接、米軍とかけ合ってもいい?」
「そ、そりゃあ、だめだよ。お達しが来ているんだ。これ以上は酒類取締課の仕事じゃないって」ピエールは丸っこい人差し指をむんむんと天井に差し向けながら、困ったように唇をひん曲げた。
「上に言われたから何よ。黙っていろって言いたいの? そんなのおかしいでしょう。もう少しで殺されるところだったのよ」
「分かっているよ。そりゃあ、ピエールだって怖かったよ。でも、上の命令は絶対でしょう? 命令を破ったら、組織として成り立たなくなる」
「正論を吐くのね」
「そりゃあ、課長だからね。部下を守るのも仕事だよ」ピエールは、ふにゃっとなった焼きそばを割り箸でべちゃっとかきまぜて、ソースと薬味を馴染ませている。
「と言いつつ、本当は自分の保身が一番じゃないの?」
ピエールは分かりやすくビクンと両肩を上げて、うちを確認すると、消え入りそうな小さな声で、「そんなことないよー」と呟いた。
「米軍のセンは諦めるわ。別路線から開拓していくしかないのかも」
「今まで通り、地道に足を使ってやっていくしかないね。大変だけど」ずぞぞぞ、濁音混じりの美味そうな効果音を奏でつつ、ピエールが焼きそばを食らう。
「それでさ、田島くーんはどう思うの」
「どうって、何が?」
「最近の相埜谷くーんの様子」
「さあ、あいつはいつもどおりじゃないの?」
ひょろっとしているし、のっぺりとした顔つきはいかにも日本人らしく、何を考えているか分からない瞳はうろうろしていて、男としての魅力はない。あれを好きだという女はよほどの変わり者か、何か別な魂胆があってお近づきになろうとしていると思うわ。
「うーん、言葉にするのは難しいけどさ。最近の相埜谷くーんはちょっと変だよ」
「何か、得体の知れないものに取り憑かれている。そんな感じかしら」
「それだよ、それ」
ピエールはソースがたっぷりと染みこんだ割り箸をうちに向けた。
「お祓いに行ったほうがいいかもねえ」
「課長はそんな非科学的なものを信仰していたのかしら」
「ピエールのお父さんは牧師だからね。多少は信心深いところがあるんだよ」ピエールは胸元で十字を切る。
「あれ、上院議員っていう設定はどこにいったの?」
「やめてよね。思い出すじゃないか」ピエールは恐怖を受信して震えている。ぷるぶるふる。
「まあ、仕事をちゃんとやっていれば、とやかく言うつもりはないわ」
「そうなんだけどね。上司の勘がピンと働くわけさ」
うちは持ってきた弁当の包みを開く。冷凍食品を温めて、適当に詰め込んだ代物だが、ピエールの焼きそばと比較すると、充分に健康に配慮されている。ピエールの昼飯も手作りしたほうがいいかしら。
「課長は鋭いものね。どんな、勘なの?」うちはマヨネーズがついているブロッコリーを箸でつまみながら言った。
「あれは呑んでいるよ」
「……禁酒の鬼のように、呑むなと叫んでいる酒之助が呑んでいるの? 冗談でしょ」
「ピエールも、最初はあり得ないと思っていたんだけどね。でも、見ちゃったわけなんだよ」
もりもりっと、焼きそばを食べ終えると、ピエールは自席を立ち上がって、酒之助の机の前に向かう。引きだしを開けると、掌に包んで隠せるくらいの小瓶を取り上げた。
「栄養ドリンクじゃないの?」
「そうだったらいいんだけどね」
ピエールはそうぼやくと、開栓してから、うちの机の端に置いた。鼻を近づけて、確認するまでもない、アルコールだ。
「これ、本物のお酒じゃない」
「そうだね。相埜谷くーんはお酒を隠し持ち、職場に持ち込んで、嗜んでいるわけだ」
「注意したほうがいいわ。というより、検挙したほうがいい」
「やっぱり、田島くーんもそう思う?」
「当然でしょ。身内から出た錆を許すわけにはいかないわ」
ふんと鼻息を荒く吐いて、卵焼きに手を伸ばす。
こればかりは早起きをしてフライパンを使って丸めたもので、新鮮な卵の風味が口いっぱいに広がる。うーん、できる女って感じ。
「そうなんだけどね。果たして、正しいのかって、ピエールは思うんだよ」
「どういうことかしら」
「言うまでもなく、ピエールも田島くーんも、妖頭會から流れ出した酒を口にしている。表では厳めしい顔をして、鞭を振るい、酒を取り締まる側を演じているが、一度、酒類取締官の業務が終われば、各々自宅なり、赤提灯なんかで、ちみちみと酒を呑むわけだ」
「うちは赤提灯なんて行きませんけどね」
「でも、呑むだろう。常識的な範囲内で、のんべえだッ!」ピエールは勝ち誇った顔でうちを見やる。視線が顔に突き刺さったような気がして、唇を居心地悪くむにゅむにゅさせる。
根付いてしまった飲酒習慣を引き剥がすのはかなり難しいのよね。
禁酒法制定、明日からお酒を呑んではいけませんと言われて、どのくらいの人が実際にやめるのかしら。おまけに、脱法酒やら罰金やらで、飲酒を取り巻く環境はかなり甘いものだと言える。
正義の線はどこからどこへ引っ張ればいいのかしら……ね。
ああ、目が回りそう。大声を上げて、酔っ払いを取り締まっている方が性に合っているわぁ。とりあえず、デザートのいちご。
「田島くーんは何も言わなくていいよ。ピエールが話をするから。それも、課長の仕事だからね」
ピエールは酒の入った小瓶を、ポケットに入れる。
ほどほどに出世はしたいが、管理職にはなりたくない。それをそつなくこなしているピエールは優秀なのかも。
「ちょっと待って、ポケットに入れた酒瓶はどうする気?」
「ええ? ポケット? そんなところに入れたっけなあ」
「誤魔化さないで。ちゃんと排水口に流してきて」
ピエールは体をちんまりと縮めて、給湯室へと歩いていく。
全く、油断も隙もあったものではないわね。
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