第壱幕 九

 大都会の地下を縦横無尽に走り、複雑に入り組んだ迷路のような場所を抜けて、地上に出ると、僕は地図に示されたとおりの道を歩いていく。

 地図を鼻に近づけると、頭に思い浮かべた架空の花がぷわっと香るが、その濃度は時間が経つにつれて薄まっていった。

 女の肉のどの部分を拭えば、このにおいを手に入れられるのだろうか。もしかして、お手製の香水でもあるのだろうか。などと、想像力を働かせるのは実に楽しい。

 狐の面を着けて歩いていると、多くの視線に出くわす。

 妖頭會の子狐だと明白に分かるので、奇異な視線を向けられたり、さっと視線をそらしたりする者もいる。

 高層ビル群の中をあちらやこちらやほいほいと移動をして、路地裏にひょいと足を踏み入れる。

 地図は煉瓦造りの古めかしい建物を示していた。

 路地裏からぽっかりと開けられた入り口は、今し方掘ったばかりでござんすといった雰囲気があった。狐が葉っぱでも貼って呪文でも唱えたのかもしれない。

 僕はアーチ状に縁取られた煉瓦の門を潜り抜け、地下へと続く階段をひとつずつ降りていった。階段は今にも崩れ落ちそうなほどにぼろぼろで、縁が欠けたり、穴が空いたりしている。

 階下には、扉がひとつあった。呼び鈴を鳴らすとややあって、扉が小さく開いた。狐の面がちらと顔をのぞかせる。

「おやおや、相埜谷酒之助様ではありませんか。お待ちしていましたよ」

 深みのある年代物の古酒を思わせるような声色で、狐はそう言った。白く、綿を思わせる毛色を持つ狐で、瞳は血を注ぎ入れたかのように赤みを帯びている。

「僕の名前が分かるのか」

「ええ、分かりますとも。妖頭會の狐の面はひとつとして同じものが存在しません。顔と一緒ですよ。大体は分かります」

 扉が大きく開く、油の差されていない軋む音は趣深さがあった。部屋の中は薄暗く、閉塞感がある。壁にはガス灯を模して作られた洋燈があり、暖色の明かりが薄墨の闇をじわじわと溶かしている。

 レコードに針を落として奏でているような滑らかさを持つ、ジャズが室内に響く。

 部屋は細く長く、向こうの方まで伸びていて、カウンターテーブルと丸椅子が並んでいる。そこには、様々な表情をした狐たちが思い思いにくつろぎ、談笑を重ねていた。お伽噺が始まりそう。

「お好きな席にお座りください。それとも、席はお決まりですか?」

「ここに来るのは初めてなんだ。決まった席なんてないよ」

「そうでございますか。しかし、待ち人がおられるようですよ」

 白くて長い、骨をむき出しにしたような細い人差し指が伸びる。

 奥から三番目の丸椅子に金狐が腰掛けている。思わず、右手の腰に手が伸びかけて思いとどまる。

 米軍の手からすり抜けるようにして消えてしまった、金狐と銀狐の二人組は、尻尾の先さえ掴めずにいた。

 視線を感じた。

 見渡すと、部屋中の狐たちが動きやおしゃべりを止めて、僕を見ていた。

 殴られて顔が腫れあがった狐、

 切り傷がある狐、

 白と黒で構成された狐、

 灰褐色のローブをすっぽりと覆って顔を隠している狐。

 個性豊かな面ではあるが、表情が抜け落ちていた。

「酒之助。こっちに来るといいわ」

 女の声が合図だったのか、狐たちの喧噪が戻ってくる。

「来ないかと思った」甘えるような声音がおずおずとこちらに向けられる。

「やっぱり金狐は君だったのか。その髪はカツラかい?」

「いいえ、切って染めたの。わたしだってわかりやすいように」ぽってりとしたつき立ての餅のような唇が印象的な狐の面を被っており、頬には朱で殴り書きをしたような書体で『Gold Fox』の文字が刺繍されている。

「面を取ってくれないかな。君だって、確かめたい」

「接吻をして、舌を絡ませたいの? やらしいわね」ふふふ、面越しにくぐもった吐息が漏れ出す。

「スピークイジーではね、狐の面を取ってはいけないの。肉の面は重要なことを隠してしまう」

「狐の面の方が重要なことを隠してしまうんじゃないのか?」

「マスター」

 金狐はすっと手を上げると、先ほどの白狐が氷の上を滑るようにしてやってきた。

「ジントニックをみっつ」

「かしこまりました。お嬢様」

「もしも、自分に限りなく似通った顔がもうひとつ存在したとしたら、どっちが本物の自分であると思う?」

「僕は僕で、君は君だよ。似た顔がもう一人いて、どっちが本物の自分かなんて考えないろう」

 そう言って、僕は笑おうと思った。

 でも、笑えなかった。自分によく似た自分はいるではないか。頭の中に潜んでいて、僕はね、と声をかけてくる。僕と僕以外の誰かを切り離そうとして、いつも四苦八苦しているのは誰だろうか。それは他ならぬ、自分ではないか。

 僕は膝の肉をぎゅっとつまんだ。今の人格は自分が握っているだろうか、自分に似た誰かが握ってはいないだろうか。

「わたしはだぁれといつも思っているわ。どんな場所で生まれ、どんな親に育てられてきたのか、どんな学校に通い、どんな仕事をしているのか分からなくなる。どこに住んでいるのかさえもね」

「記憶はあるだろう」

「そう、確かに覚えている。けれども、記憶が本当にあった事実かどうか証明できないの。もう終わってしまったし、わたしという主観の方角はわたしにしか見えない。たとえ、わたしの人生の目撃者が十人いたとしても、みんなぺちゃくちゃと違うことをしゃべり出すわ」

 ジントニックが運ばれてくる。ジントニックを注文するとバーテンダーは緊張するらしい。なんせ、カクテルの基本であり、バーテンダーの腕の見せ所だから。白狐は自信たっぷりといった具合で、ワイシャツに茜色の蝶ネクタイをした胸をぎゅっと反らせている。

 僕は口の部分を覆った面を押し上げて、グラスに口を付けた。青々としたライムの香りが喉元から鼻腔へと駆け上がってくる。ほのかな甘さを兼ね備えたトニックウオーターと、主張しすぎないように抑えられたジンの熱源が絶妙に合わさって、心地の良い舌触りを演出している。グラスの底には黒い果実が沈んでいた。アクセントのブルーベリーといったところだろうか。

「缶詰や瓶詰にされたものとは全然違うな」

「そりゃあ、そうでしょ。バーテンダーという存在そのものが否定されている現代では、目の前で酒を調理されて出てくるなんて、めったにないもの。だから、スピークイジーは大事な場所なの」

 金狐は面の狭間から見える唇をぱにゅぱにゅ、動かす。

 僕がいつも絞りかすを残さないように吸い付いていた朱い果肉は、みずみずしさとジューシーさを蘇らせており、今にも滴り落ちんばかり。ああ、食みたい。愛しさが僕の唇の端っこから涎のように流れ出す。耳元で甘々しい言葉を囁きたい。

「僕は本当にあった事実を知っているよ。君が住んでいる場所とかね」

「へえ、わたしの住んでいる場所を知っているのね。どこだか言ってみなさいよ」金狐の唇が挑戦的に歪む。濡れそぼったそれはトニックウオーターが良い塩梅にかけられて、濃密なる甘美を生み出しているはずだ。人目ならぬ、狐目がなければ、押し倒している。

 僕は小径が折り重なり、住宅が密集した、都会の果てにひっそりと建つ、日本家屋を思い浮かべながら。東京都から始まる住所を述べた。

「ふうん、わたしはそこには住んでいないわよ」

「ええ、そうなのかい? もう、引っ越したとか?」

「引っ越しなんてしていないわ。面倒くさいでしょ。わたしの家は本がたくさんあってね、引っ越しをしようとすると、大変なの」

「本? そんなの一冊も置かれていなかったじゃないか。君の家は酒瓶が埋め尽くされていて、目が回りそうだった」

「家に酒なんて置かないわよ。捕まっちゃうでしょ」

 おかしいぞ。何かが噛み合っていない。

「あたしの家は酒瓶であふれている。ねえ、竹刀で付けた赤い染みは治ったかしら」瓜二つの声音が折り重なるようにして木霊する。

「あら、銀狐に竹刀で殴られたの? 防具をしていたんじゃないの?」

「それがね、手元が狂ってしまって、脇腹を打ち付けてしまったのよ」

「まあ、ひどい。絶対わざとね」

「金狐までそんなことを言うのね、ひどいわ」しくしくしく、銀狐は嘘くさい泣き声をあげる。

 僕は丸椅子をくるりと回転させて、金狐とは反対方向を見やった。頭まですっぽりと覆い隠すような灰褐色のローブを着た狐が座っている。

「こっちが金狐で、こっちが銀狐?」

「そうよ」金狐が中指と薬指を親指にひっつけて、こん、人差し指と小指の耳を立てながら言った。

「どっちがどっちなんだい? 僕がいつも一緒にいたあの女は」僕は口の中で甘さを転がすようにして弄んでいる名前の連なりを吐き出した。

「あたしはあたし」

「わたしはわたし」

 フードを脱いで、つんと尖った銀髪を露わにすると、銀狐がグラスを持ち上げた。金狐もそれに応じて、僕の正面で丁度合わさるようにこつんとグラスの縁を打ち付け合う。左頬に殴り書きされた『Silver Fox』の文字が生き生きと浮かび上がっている。眼帯をしていない右目にはくっきりとアイラインが引かれており、銀狐の性格を現すような躍動を感じた。

「嘘だろう。僕の愛した女は継ぎ目なんて存在しなかった。完全で、完璧で、美しく、おんなの代表のような女だった。別人が入れ替わっていたなんて、考えられない」

「じゃあ、酒之助が愛した女はどっちだと思う? わたしか?」

「あたしか?」

 競い合うようにして、金狐と銀狐は顔を近づけてくる。僕は腹を決めて、目を閉じた。鼻梁に意識を集中させる。嗅覚を鋭敏に、あのFlowerを回顧させる。が、どちらも香るのは合わせ鏡のFlowerであり、摘み取ったばかりの芳香を放っている。

「僕はどちらを愛していたのか分からない」

「酒之助が困っているわよ、銀狐」

「あら、困らせたのは金狐じゃない」

「どっちの愛が濃かったか教えてあげなさいよ」金狐がそう言うと、

「わたし」

「あたし」

 両方の手が同時に上がる。お互いに譲る気はないようで、火花が散って花弁を開かせている。愛する女が分裂をした。二つの別人格が相互に愛を囁いてくる。

 ひとつだったものを愛し続けるために、新たにふたつ愛することは許されるのか。

「どっちか選びなさいよ。酒之助」

「そうよ、きっとあたしがいいに決まっている」

「あら、わたしよ。ベッドで寝た回数はわたしが多いもの」

「口づけをした回数はあたしが多いわ」

 選ぶ基準はそこではない。回数の多さや色の濃さだけで愛が決まるのならば、僕はもっと多くの女性を愛していただろう。とっかえひっかえ試し、Blume以外のにおいに惹かれていたかもしれない。が、僕はBlumeがいいのだ。女がいいのだ。

 歴史というにはおこがましいほど小さな接点の連続が、僕を確信たらしめている。

 ならば、これからもふたつとなった愛する対象と接点を結び続け、どちらが僕によりふさわしいか、選別する必要があるのではないだろうか。

 が、そんな傲慢は許されるのか。

 

「銀狐、怪我は良くなってきたのかしら」金狐は面を軽く持ち上げ、丸く、削り取られた氷をむんぐと唇で咥えこんだ。前に突き出した八重歯が、がりり、掘削をしていく。

「弾は貫通したのよ。傷口もようやく塞がってきた感じ」銀狐は右手で、左肩を優しく撫でつけながら小さく言った。

「そっか、銀狐は撃たれたんだっけ」

「酒之助と一緒にいた酒類取締官の女は何者なの? 凄まじい射撃のセンスで驚いたわ。あそこで撃たれるつもりはなかった。あたしが一網打尽にしてやる計画だったのに」銀狐の声が悔しそうに響く。

「ああいうときは、すぐに身を隠さなければだめよ。どんな相手か分からない場合は最大限用心して臨む。なのに、銀狐は突っ走るんだから」

「あたしは、戦略が苦手なの。すぐに、引き金を引きたいでしょ。剣道も一緒、竹刀を握ったら、下段に構えて猪突猛進」銀狐はうひひのひ、喉を引きつらせて笑った。面の狭間から見える生え揃った真珠のような前歯が唾液を纏って光っている。

「でも、傷口を医者に診てもらうのは苦労したわよ」

「日本で銃創なんて、すぐに警察だからね。あの女に言っておきなさい、次はあなたの番よって」

「それは酒類取締課に対する宣戦布告なのかい?」僕は面の下で眉間にしわを寄せる。

「そうよ、頂上作戦になるかもね」

「あら、芭蕉様もそろそろお縄かしら」

 僕は視線を狐の目のように細く長く伸びた室内に流す。

 もしかすると、妖頭芭蕉はこの中に紛れているのかもしれない。身分証明書を突き出し、拘束して、狐の面を剥ぎ取っていけば分かるだろうか。いや、妖頭芭蕉の顔は割れていないのだ。

「芭蕉はここにいるのか?」

「うーん、どうかしらね」金狐は白々しく。

「それに答えて、メリットがあるとは思えないわ」銀狐は否定。

 僕はジントニックを呑むふりをして、左手首に捲かれた腕時計を見やる。歯車を組み合わせて作られたそれは毎朝ネジを巻いて、時刻を調整している機械式のもの。もうすぐで、午後の八時になる。そろそろ頃合い……か。

「なあ、自首をしてくれないか? 真っ当な道を歩く覚悟を決めてほしい」

 僕は金狐と銀狐の双方に訴えかけるようにして言った。

「君たちはまだ若い。いくらでもやり直しが利くと思う。酒の違法流通に手を染めていてはダメだ。酒は気軽に呑んでいいものじゃない。薬物なんだ。覚せい剤や大麻と同じくらい危険なものなんだよ」

「でも、昔は呑んで良かったじゃない」銀狐は拗ねるようにぺっと言葉を吐き捨てる。

「状況が変わっただろう。新型コロナウイルスの出現によって、既存の社会は崩壊し、新しい生活様式が根付いた。酔っ払うと感染リスクが断然に上がってしまうというデータもある」

「そうやって、飲食店を敵視するのね。どれだけの努力をしていると思っているの? 融資を引いて、商品を揃え、家賃や人件費を払い、顧客が満足するサービスを提供する。デスクに座っていれば、給料が入ってくる公務員とは訳が違うの。リスクを背負い、どうすれば社会に貢献できるか、知恵を絞っているのに、ひどいわ」金狐はジントニックの底に沈んでいるブルーベリーをマドラーでつんつんと突きながら、愛想なく言った。

「分かっている。だからこそ、協力金を惜しまずに、支出してきたじゃないか。過去最大級の財政出動をやっている。そりゃあね、助けるべき人はたくさんいて、お金は圧倒的に足りないかもしれない。それでも、可能な限り救おうとしている」

「こぼれ落ちた魚は仕方ないから、水のない場所で死んでくださいってわけね。なんだか、残酷な話」今にも死にそうな銀狐の声色。

「酒之助は自首を勧めたり、逮捕するぞと脅してみたりするけど、結局あなただって呑んでいるじゃない。あなたを逮捕しなくていいの? 毎回、呑む度に罰金を払っているわけ?」銀狐は笑いながら、氷が溶けて薄くなってきたジントニックのグラスを指さしながら言った。

「君が……君たちが強引に勧めてくるからじゃないか。僕は呑みたくないといつだって思っている。法に忠実でありたい。だって、それが酒類取締官だろう」

「わたしたちのせいにしないで。あなたの意志が弱いからでしょ。わたしは知っているわよ。酒之助は一人でもお酒を呑んでいる」金狐はそう言うと、手を伸ばして僕のスーツの内側を弄った。僕は観念して、されるがままになった。

 アルミニウムで作られた文庫本ほどの大きさの水筒。

 アウトドアで使うような深緑をしていて、一見すると飲み水が入っているとしか思えないが、金狐は左右に振って水音を立てると、「開けるまでもないわね。完全にお酒よ」と断言する。

「酒を持ち歩いているのね、もう立派なアルコール中毒じゃないの。お医者様に診てもらったほうがいいわよ」

「でも、病気だとバレてしまったら、酒類取締官に逮捕されてしまうんじゃないかしら」

「誰が逮捕するのよ。彼自身が取り締まるべき者なんでしょ? 酒に溺れた、酒類取締官、自分の手首にお縄って、新聞に出るかもしれないわね」ぷぺえっと金狐が濡れた唇を金管楽器のように震わせてあざ笑う。

 冗談ではない。そんなことはあってたまるか。いい加減、この好き放題にしゃべる口を塞いでやりたいと思った。いつもならば、酔いに任せた口づけなどで、強引に迫るのだが、今日は女がふたつに化けている。

 僕は再び腕時計に視線を落とす。敏感な秒針はまもなく、十二を差そうとしている。

「ねえ、さっきから時計を気にしているけど、この後用事でもあるの?」

「ああ、重要な用事だ」

「あたしたちと酒を酌み交わす以上に大事?」銀狐の問いに、僕は首を縦に振った。

 そんなときだった。カウンターの向こうで酒づくりに勤しんでいた白狐が駆けてきて、「お嬢様、お逃げくださいまし」と言った。

「なに?」

「ガサ入れにございます」

 室内を揺るがす衝撃音が響く。甲高い拡声器のノイズの音が聞こえ、スピークイジーの外から聞き慣れた。もしゅもしゅと口ごもった男の声が流れ込んできた。

「相埜谷くーん」

「酒之助、やってくれたわね。わたしの誘いに泥を塗ったってわけね」

「あたしたちって、愛されている女なんでしょう? それなのに、罠にはめて、御用にしようってどういう神経をしているの?」

「そりゃあね。いつだって、僕が正しいからさ。正義の線を引く。僕が真っ直ぐだと言えば、たとえ、ピサの斜塔のように曲がっていたとしても、それは直線だと言える」

 僕はくしゃりと狐の面を握りつぶすようにしてはぎ取り、肉の面を表に晒す。

「まあ、非道い顔」嫌悪。

「極悪人って感じ」嫌厭。

「黙れ、お前たちには酒類取締法違反の罪と殺人未遂の罪もある。銃刀法違反も追加だ。これじゃあ、罰金では出てこられないぞ」

 痛快。ついに、女を拘束できる。金狐と銀狐のふたつに分裂したのは予想外だったが、逮捕できるのならば、素晴らしい。

 嬲って、痛めつけてやる! 

 妖頭芭蕉の名前を吐くまで、餌や水をやるつもりもない。人権問題など、知らない。なぜなら、こいつらは狐だから。人間として定義されていない。

「銀狐や、酒之助はわたしたちを手中に収めたと思っているらしいわ」

「本当かしら、金狐。それは愚かというものよ」

「なんだと?」

「わたしたちが米軍からどうやって逃げたか知っているの?」

「司法取り引きかなんかをしたのだろう。酒の供給を融通してやる代わりに、逃がしてくれとでも言ったんじゃないか。でも、今回は頼みの綱の米軍もいないぞ」

「ふうん、勇ましいのね。後で、泣いても知らないわよ」

「泣くものか。子どもじゃあるまいし」

 部屋の入り口にはいつの間にかバリケードができあがっていた。狐たちが協力をして、椅子や棚などを移動させて、積み上げ、扉が開かないようにしている。

「全員、両手を頭にやって、膝を突くんだ。僕は酒類取締官だ」身分証明書を見せながら、声高に叫ぶ。が、誰一人として僕の命令を聞こうとしない。

 それどころか、ガラス玉を縫い留めて作られた目玉をぎょろりと光らせながら、全ての狐たちが椅子から立ち上がり、ゆっくりと僕の方へ近づいてくる。

「観念しろ、公務執行妨害も追加してやる」法の絶対的なベールに包まれた言葉を撒き散らすが、効果はない。

「子狐にならないのね」

「芭蕉様は悲しみになるわ」

 悪の誘いは脆くも破綻した。やはり、正義は勝つ。勧善懲悪は美しい。

 勝利の痺れに酔いしれている僕の耳に、しゅうっと炭酸が空気中に抜ける音が聞こえた。それは、刻一刻と大きくなってきている。

「何の音だ?」

「酒之助の魂が肉の器から漏れ出す音よ」銀狐がぷしゅうとガスが抜ける口真似をする。

「冗談はよせ。何か、仕掛けをしたのか?」

「ここはスピークイジーよ。妖頭會の隠れ家なの。人目を忍んでお酒を提供することはリスキー。いざとなったら、ドロンとできるように、色々と細工が施してあるわ」

 薄暗く沈み込んだ室内に、ぼんやりとした煙が浮かび上がった。それは足下のほうからゆっくりと渦を巻くようにして、立ち上ってくる。

 や、やば。焦りが猛然と背筋に這い寄った。毒ガスかもしれない。

 こいつらは僕を巻き添えにして死のうっていうのか。確かに、女は好きだ。が、心中をするのはごめんだった。

 両手で鼻と口を塞ぐ。息も止めてみる。新鮮な空気を求めて、バリケードが施された入り口へと向かう。ピエールと茜は気づいているだろうか。

「大丈夫よ、死なないわ。ただの煙だから、シーシャみたいなものよ、お好きでしょう?」金狐は淫靡な雰囲気を崩さずに言った。

「煙に紛れて逃げようっていうのか」

「そうね、米軍に捕まったときもそうして逃げたものだから。あたしたちはね、自由自在に消えたり、現れたりできるの」ひゅーどろどろどろ、銀狐がからかう。

「ありえないだろう。こんな狭い空間から、これだけの狐が逃げ出すなんて正気の沙汰とは思えない」

「それができるのよ。妖頭會に不可能はない。だって、できなければ芭蕉様に迷惑がかかる。あの人の涙を見るのは耐えられないわ。だから、わたしたちは一生懸命に働き、祈るの。奇跡が起きますように、煙になって消えますようにって」

 煙が完全に視界を覆い隠した。僕をぐるりと囲んでいた狐たちの姿はすっかりと消えてしまった。

 それでも、金狐と銀狐の声だけは煙の世界の向こう側から聞こえてくる。

「酒之助、また会えるといいわね。やっぱり、あなたとお別れをするのは寂しいわ」

「酒之助、ご機嫌よう。呑みすぎには注意してね」

 僕は煙をかきまわすようにして、両腕をぶんぶんと振った。

 しかし、狐たちや金狐、銀狐の姿は見えず、両手は虚空を掴むばかりであった。

「待ってくれ、金狐、銀狐!」僕はあらん限りの力を込めて叫んだ。

 煙の中から金狐と銀狐の声が……。

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