第壱幕 十
扉をぶち破って室内に侵入すると、綿毛のような煙たちが一斉にやってきて、うちの体にまとわりついた。
「酒之助は無事か!」
「相埜谷くーん。ピエールたちがやってきたから、もう安心だよう」
ピエールと背中を突き合わせ、銃を正眼に構え、風車のように回転をしながら、進軍する。自衛隊から指南を受けた最も有効な隊列で、攻守ともに優れている。
「この煙は何?」
「めくらましのものだろうね。においを嗅ぐ限り、害はないと思う」
「ならば、突き進むわよ」
柔らかいものがつまさきに当たった。
「酒之助を発見! 課長、外まで運び出せるかしら」
ピエールは酒之助の足を掴んで、打ちっぱなしのコンクリートの上を引きずっていく。煙の中から脱出すると、酒之助に覆い被さる。
「脈拍正常、呼吸もしているわ」
「軽い酸欠かもね。一応、病院に連れていこう」
「いいえ、ここで目覚めさせる。何があったか、話をさせるの」
握っていた銃をホルスターに戻し、右手で酒之助の頬を打ち付けた。酒之助の意識が戻ってくる。良かったわ。死んじゃいない。
「酒之助、分かるか。茜先輩よ」
「あかね……先輩」
「そう。部屋の中で何があったの? 妖頭芭蕉はいた?」
「芭蕉? そうだ、狐たちは?」
「子狐かい? 狐なんていなかったな。部屋の中は煙が満たされていてね。どうにか、君だけを助け出せたんだ」
「そんな! あんなに大勢いたんだぞ。一斉に消えるなんてあり得ないじゃないか!」
「まだ部屋の中に残っているかもしれないわね。煙が晴れるまで少し待ってみましょう」
ピエールは煙草のフィルターを噛み、酒之助は「金狐が銀狐で、銀狐が金狐で」などと、意味不明な台詞を口走っている。
頭を打ち付けたのかしら、病院に連れて行った方が賢明ねと思ったが、煙の中に隠された真相を暴いてみたい気持ちが先走った。
小一時間ほど待って、羊毛のような煙が晴れると、室内に潜入する。一寸先は闇、光は欠片も見いだせない。
左手にペンライトを持ち、右手に銃を握って、手首を交差させて構えた。
なんだか、黒く敷き詰められた暗黒の向こう側に、得体の知れない怪物が潜んでいるような気がする。最大の狂気は人間の精神で、お化けや幽霊といったものは信じていないのだけれど、逮捕をした薬物中毒者が、お空を指さして、見えるのよねと言うとぎょっとしてしまう。
もしかしたら、異常な人だけが共有できる世界はあるのかもしれないわね。なんせ、世界は正常で常識のある人によって著述された法則で動いているから。だけれども、その世界だけが正しいとは限らないでしょ。
ペンライトの明かりは頼りなく、一メートルほど先を照らしただけで消失している。
入ったときは奥行きがないような感じがしたのに、腕を高く伸ばしても、左右にやっても、何も触れない。確かなのは足の裏に感じられる無機質なコンクリートの地面だけ。
このまま後退して、逃げ出すことも一考するべきね。撤退も勇気ある戦略のひとつよね。
「誰か、そこにいるの? 返事をしなさい。撃つわよ」
酒之助の話によれば、大勢の子狐がいたという。酒を酌み交わし、談笑を重ねていたらしい。それがそっくり消えてしまう。そんなおかしな現象が起こるわけないわ。
深呼吸、精神に染み渡る気づきの呼吸法、鼻を啄むのは淀んだ空気ではない。蜂が集めた蜜を連想させる色香。
これはなんのにおいだったかしら、名前を思い出せず、記憶を探るために銃とペンライトを握ったまま、頭に手をやって目を瞑った。
敵はそんな隙を探していたのかもしれない。
ん、ずうっと出現した殺気を感じて、目を開いた。
目玉の数センチ先にうみゃうと狐の面があった。ふんぐふんぐ、面越しに荒く息を吐いている。
「見ぃつけた」吐き気を催すようなパフューム。
距離を取るべし。銃は至近距離では無力。
が、足が動かない。
想定外の衝撃が頬を捉える。先ほど、酒之助の頬を叩いたよりも数段強く、殺意が込められていた。横っ飛びに吹き飛ばされて、地面へと倒れ込む。ペンライトと銃が掌から落ちて、あらぬ方向に光が向いた。
「さっき、酒之助が叩かれたぶーん」
左腕の感触が喪失する。折れてしまったかもしれない。
「田島くーん。大丈夫かい? 相埜谷くーんの調子が悪いらしい。やっぱり、病院に行ったほうがいいと思うんだけど」
ピエールの声。しかし、応答する余裕はない。助けてほしいが、体調が悪化した酒之助を放り出して、合流できないかも。
いいわよ。受けて立つわ。勇気に、炎を灯らせる。起き上がった。残念ながら、頼もしい友人である銃を拾い上げる気力はない。
肘をぎゅっと脇腹に付けて、戦う意思を示す。死ぬつもりなんて毛頭ないわ。生きて、謎に取り組み、真相を暴く。それが心地良いからこの仕事をやっているの。
「あたしが見えない? それどころか、手がかりになるような世界を描く、輪郭さえも掴めないようね。何も見えないのはどんな気分かしら? あたしね、あなたに撃たれてから色々調べてみたのよ。芭蕉様は優秀だから、個人情報を抜き取るのは簡単なの」
すべてを見られている、
知られている、
把握されている。
「警察の特殊部隊からお声がかかるほどに、長けた戦闘能力。正確無比で迅速に処理される事務処理能力、ちょっとした挙動で違法薬物所持を見抜き、逮捕できる人間観察能力。惜しむべきはノンキャリアってところ、大学くらい卒業しておかなきゃだめよう」
おしゃべりを続けながら、敵は移動を続けている。
声が四方八方から飛んでくるので、うちを中心にして円を描いているのか。闇雲に拳を振り抜くのは危険だわ。
どうすれば窮地を脱せられるかしら。脳みそを放電させる。
「そんな、ほぼ完璧な田島茜にも欠点がある。それはね、不倫をしていること。部屋の入り口を見てご覧なさい。心配そうに強欲を肥やした家畜がこっちを見やっているでしょう。あなたは、彼とひっそり付き合っている。堕落しきって、淫らで、醜い肉体の契りを結んでいる。あの男には家庭があって、愛すべき奥さんがいて、子どもがいて、醜い豚でありながら、幸せな家庭を築いている。それをね、あなたは喰い漁っている。ねえ、どんな味がするの?」
おい、言い方を考えろよ!
顔が燃え上がった。人の目があったのなら、灼熱で目玉が焼けていたかもしれない。隠してきたのだ。
女の子なら誰しもが持っている心の小箱に入れて、しっかり鍵をして、封印してきたというのに、どこから秘密を盗み取ってきたのかしら。
酒之助がしゃべったのかもしれないわ、つまり、酒之助は分かった上で仕事をしていたのね。
葬ってやる!
酒之助は記憶が飛ぶくらい殴っておこう。知られてしまった以上、合法的に処刑できるのは今しかない。司法の手に委ねているだけでは、甘っちょろくて、満足な罰を与えられないわ。
露見してしまったら、やめなければならないじゃない。
ほんの些細な逢瀬よ。女の子にとってね、恋はガソリンなの。愛を受けて前進できる。
そりゃあね、いつかはやめなければならないわ。健全な関係ではないし、不愉快に思う人はたくさんいる。ピエールが本省の課長に出世するのであれば、手を引かなければならない。彼は出先機関の長で終わるような器じゃないの。
が、それはもう少しだけ先の未来で良いと思っていた。
どちらかが異動になったら、終わらせようと思っていた。
「エゴよね。いつかやめよう、今日ではなく、脈々と続いていく日常の連鎖のいずれかで、ケリを付けよう。甘いわ。それってさ、麻薬常習者の台詞と同じじゃない。田島茜は不倫という薬剤を二の腕に注射しているの。心地よい絶頂で頭がいっぱいなの」
「やめて、傷つけないで。あなたが口汚く罵る度に、うちの尊厳は摩耗していく」
「だから、何なの? あたしには全く関係がない。ただ、事実をありのままに述べているだけよ。否定すればいいじゃない。でも、できないんでしょ。田島茜は気づいている。逮捕される側と逮捕する側は、薄皮を隔てた表裏で成り立っているのよ」
風切り音が確かな空気の振動となってやってくる。
かわす、と意気込んだが、どちらの方角からやってきたものか分からずに食らう。
強烈な蹴りが鳩尾に命中し、肺に破裂したかのような痛みが走る。
掠れる意識の中で、新型コロナウイルスに感染して、肺炎になったことを思い出した。コロナなんて、数ある風邪と同じもので、栄養のあるものを食べて、しっかりと睡眠を取り、職場へ幾ばくかの休みを申請すれば治るものだと思っていた。
しかし、現実には想像を絶する治療が待っていた。心臓や肺が急速にその機能を失って、体外式膜型人工肺の装着を余儀なくされたわ。苦しいという概念を超えていた。生きると、死ぬが、ブランコのように揺れてね。どちらかを選べと迫ってくるの。死は魅力的だった。だって、もう苦しまなくて済むのですもの。
あのときと同じ。
生きるか、死ぬかのサイコロが振られている。感情的になってはいけない。冷静さを呼び戻し、強さの刀を抜き放つしかない。
立ち上がろうとした。が、前進気勢を表現できなかった。
「あたしの左肩は悪くなってしまったの。手術をして、機能性は日常生活を送る上では支障がないと医者に言われたのだけど、もう前みたいに、竹刀を振るうのは難しいかもしれないと言われてしまったわ。どう落とし前を付けてくれる? 目には目を、歯には歯をで肩を撃ち抜こうかしら? でも、それって可哀想じゃない? だってさ、悪を取り締まる正義の味方なんでしょ? あたしだってね、治安が悪いのはゴメンよう。麻薬常習者が徘徊していたら、逮捕をしてほしいと思っているわ。だから、今回はこれで我慢してあげる。あたしって、とっても優しい」
敵はそう言い終えると静かになった。
動けず、
戦えず、
逃げられなかった。
何かを行うには光が足りなかった。
闇らみとしたまっくらの中で、
行われているであろう未知なる挙動を、
想像できなかった。
「さようなら、田島茜。ようこそ、田島茜。あなたはどんな光景を目にするのかしらね。聞かせてくれると、あたしも楽しめるんだけれど」
左肩に飛んできたのは銃弾でも、拳でもなく、ちくりとした小さな痛みだった。ああ、と感嘆を吐いて、汗と涙で塩辛く傷んでしまった瞳を閉じる。
この仕事をしていたら、それは何を意味するのか明白に分かる。
液体が切り裂くような悲鳴を放ちながら、体内に侵入してきた。
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