幕間  壱

 鳩貝左右衛門はとがいざえもんは指先でマッチ棒をつまみ上げると、角が丸くなっている煉瓦に擦りつけた。しゅっと、青や黄が混ざった火柱が吹き上がり、暗闇にわずかな明かりをもたらす。

「暴力のにおいがします」傍らに立つ女が喉笛を氷水に漬け込んだような声で言った。

「相変わらず鼻がいいねえ。俺には乾いた土煙のにおいしかしないが……。しかし、暴力のにおいとはどんなにおいなのだろうか」

「恋と愛の間にどれほどの隔たりがあるのか、説明するのと同じくらい難しい概念です」

「ふん、恋と愛に隙間なんでないというのが持論でねえ、ぴったりと密着しているもんじゃないのかい」鳩貝はにやあっと口角を広げると、「おっと、具体的には何が密着しているかは言わせないでくれよ。無粋というものだ」と言った。

 女は反応せず、太陽と影の領域を分かつ、境を踏み越えていく。

「これだから若い女は嫌だねえ。冗談のひとつも通じないんだから」と、ひとりごちながら、鳩貝は火が消えたマッチ棒を跳ね飛ばし、箱から新しいものを取り出す。先ほどと同じように煉瓦に擦りつけて火を点し、紙巻き煙草の先端に押し当てた。赤と白の箱に入っていて、吸い口が茶色のマールボロである。人差し指と中指で挟み込み、うっうっと獣のように小さく唸ってから、美味そうに煙を呑んだ。それから、女の背中を追いかけて暗闇の中へと足を踏み入れる。

「実働部隊は渋滞に巻き込まれて遅れているようです」

「じゃあ、じっくりと観察する時間はあるわけだ。奴らは、証拠を足で踏みにじり、消し去りながら捜査をするからな。あれじゃあ、警察が証拠隠滅をしているようなものだ」

「はとぽっぽが特殊なだけだと思いますが」

「特殊だなんて、褒めても何もでないぞ」

「褒めていませんが」

 鳩貝は、紺の制服の胸ポケットからスマートフォンを取り出した。液晶パネルに指を走らせ、背面のライトを点灯させる。強烈な白い光が暗闇を溶かすように長く伸びた。

「便利な時代だな。こんな小さな箱がライトにもなり、カメラにもなる。おまけに、メッセージも送信できるときた」

「毎日、おはようとおやすみのラインを送ってくるのをやめてくれませんか?」

「コミュニケーションは大事だろうが」

「警察に言いますよ。ストーカーがいますって」

「どれ、話を聞いてやろう。そのストーカーとやらはどこにいるんだ? 枕元で不寝番をしてやる」鳩貝はきょろきょろと辺りを見渡しながら言った。

 女は聞こえるように大きな溜め息を吐くと、自らもスマートフォンを取り出して、明かりを求めた。ふたつの白い線が暗闇の中を行き交う。

「酒類取締官の相埜谷酒之助から話を聞いたんだが、この中は違法酒を提供するバーだったらしいな。何でも、スピークイジーというらしい。バーカウンターには丸椅子が並び、壁には酒が所狭しと陳列してあった。おまけに、狐の仮面を被った連中がたくさんいたんだとさ。しかし――――」鳩貝は言葉を切って、煙草を口に運んでから言った。「そんなもの、どこにもありゃしない」

「はとぽっぽ、その話は本当ですか?」

「嘘を吐いても仕方ないだろう。坊やは間違いなく、そう証言していたよ」

「信じられませんね。酒類取締官の田島茜から聞いた話では、大都会に空いた洞穴のような空間が広がっているそうですよ」

「なるほど、俺たちが見ている光景と合致しているな」

「そこで狐の面を被った女に襲われたそうなんです。幸い怪我はなかったそうですが……」

「田島茜というのは武闘派で有名だろう。警察庁にも武勇伝が流れてくるくらいだ。それが襲われたというのであれば、敵も相当に腕が立つと見ていいな」

 女は空間のあちらこちらにスマートフォンの光を向ける。鋭く切り裂かれた傷跡のような眉を少し曲げて、真剣さを塗りたくった瞳で、光の残像を追いかけている。

 鳩貝はスマートフォンの光を地面に向けた。

「何か見つけたんですか」女の声に好奇心が混ざっている。

「ちょっとした傷だよ。砂利が靴底で擦り付けられて、コンクリートに模様を刻み込んだ痕跡さ」

「見せてください」女はしゃがみ込んで、スマートフォンの明かりを地面に押し当てる。が、しばらくして、首を傾げた。

「何も見えませんよ」

「そりゃあな。普通は見えない。でも、俺には見えるぜ。触ってみると、よく分かるね」鳩貝はスマートフォンを胸ポケットに入れて、煙草を咥え、両手を自由にしてから、コンクリートの地面に指先を這わせた。

 女も鳩貝の真似をして、指を動かす。女が、「傷なんてありますか? 砂利が指の腹で転がる感触しかありません」と言うと、「そりゃあな、お主には年齢も、経験も、階級だって圧倒的に足らん。まあ、その全てを持っていたとしても、俺に追いつくのは不可能だが」鳩貝は笑いながら返した。

「嫌なやつ」

「ふふん、今のは聞こえなかったな。その代わり、あとで尻を撫でさせろ」

「地獄に落ちろっ!」女は地面から指を上げて、中指を上に突き上げるが、鳩貝は見ようともしない。

「田島茜は女に襲われたって言ったのか」

「そうですよ。何でも、甘い花のにおいがしたらしい」

「花のにおいねえ。今は何にも感じないけれどなあ。香水か何かを付けていた可能性はあるな」鳩貝は何かをなぞるように、指先をずずっと地面の上で動かす。「へえ、一人じゃないねえ、何人かいる。若くて、体重があるが……、そんなに技量のある人間じゃない。こりゃあ、男だぞ。五、六人ってところか。田島茜もこれだけの人数に囲まれちまえば、抵抗するのは容易じゃないだろう。おまけに真っ暗だ。人間は感覚のほとんどを視力に頼っているから、急な暗闇には弱いもんだ」と、一息でしゃべりきった。

「本当ですか?」

「本当だけどよう、証明できないな。地面に薬品をかけて浮かび上がってくるわけじゃないし。あくまでも、頭の中でこねくりまわした推理のひとつだ」

「科学では検証できない探偵って呼ばれているのは知っていますか」

「そんな通り名があるのか、格好悪いじゃないか。もっと、相応しい名前を付けておくれ」鳩貝は右手の人差し指をくいくいと動かして、女に促す。

「じゃあ、昭和に取り残されたセクハラ探偵と呼びます」

「あとでショーツを脱いで部屋に来るんだ。お仕置きをしてやる」

「そういうところですよ。神様って二物は与えないんですね」

「イチモツなら生まれたときからあるぜ、見るか? ご立派だぜえ」

「ジジイ、舌を引っこ抜いて標本にするぞ!」

「ひゅう、今日もキレるねえ」

 女は咳払いをしてから、薄くて尖った鼻を猫のようにすんすんと動かして、人差し指と中指を広げてピースを作ってから、「吸ってもいいでしょうか?」と訊ねる。

「どうせ、ピースだろう。甘すぎねえか?」

「このくらいが丁度良いんですよ。赤マルは舌に苦みが残って嫌なんです」

 女は高級感がある群青の箱から白い紙巻きを取り出すと、ドスを利かせた赤のリップが塗られた唇で咥え込んだ。ライターを取り出そうとして、ポケットをがさごそとやっている間に丁度良く、女の目の前に火が付いたマッチ棒が突き出される。女は軽く頭を下げて、ピースの先端を焔に近づけた。

「そのうち、赤マルの味も分かるようになるさ」

「はとぽっぽも引退をする頃にはピースの味が分かるようになりますよ」女が息を吐いた。マールボロとピースの香りが暴力のにおいがする空間にとぐろを巻く。

「田島茜の証言が正しいんですか。じゃあ、はとぽっぽが聴いた相埜谷酒之助の証言は嘘なのでしょうか?」

「うーん。嘘を吐いているようには見えなかったがなあ。あれが、演技だというのならば、あの坊やに向いているのは芸能界だよ。ああ、顔が駄目か。流行の端正な塩顔じゃないからなあ」

「撃たれますよ。相埜谷酒之助は血の気が多いって聞いています」

「ははん、急所に当たらなければ反撃ができるさ。こう見えても、特殊部隊にいたんだ。性格の悪いやつがいてよう、すぐに辞めてやったが」

「似たもの同士ってやつですね」

「なんか言ったか?」

「別に」

 マールボロの煙をなびかせながら、鳩貝は移動する。靴底を地面に擦りつけて、その音に耳を傾け、煙が流れていく方向を注意深く観察しながら、空間の最奥へと立った。

「ここまでか」鳩貝は踵を返し、光が差し込む入り口を見やる。

「ずいぶんと深く掘られていますね」

「まるで、落とし穴に足を突っ込んだ気分だ。大岩か何かで、入り口を塞がれたらぞっとするな」

「意外ですね。覚えておきます」

「俺を閉じ込めようったってなあ、そうはいかないぞ。常に脱出する手段を用意しているからな」

「へえ、ここから誰にも知られずに脱出する方法なんてあるんですか?」女はだらんと長い髪を垂らしながら、小首をかしげた。混じりけのない黄金がさっとスマートフォンの明かりの中を駆けた。

「例えば、この壁を押してみるとか……」鳩貝は煙草を挟んでいない左手でコンクリートの壁を押し込んだ。怪物が爪で岩盤をひっかくような音がする。づるづると壁が角度をつけて、傾き始めた。

 壁の向こうからごろん、と何かが転がってきた。女が「ひゃっ」と甲高い声で叫ぶ。

「ほほーん、いい酒だ」

 鳩貝は革靴の先まで転がってきた瓶を拾い上げる。

「ジョニーウオーカーじゃないですか。初めて見ます」

「海外に行けばいくらでも呑めるぞ。だが、日本じゃ無理だな。輸入もんは全部、港で止まっちまう。まあ、妖頭會がいくらか噛んで、少しは市場に流しているみたいだけどよう」

 鳩貝は酒瓶が転がってきた、壁の向こう側をのぞき込む。そこにはテレビの撮影現場に見るような美術セットでございとばかりに、バーカウンターがあった。転がってきた酒瓶は、小道具の一種らしい。

「こりゃあ、ずいぶんと手が込んでらあ。誰を騙そうとしたんだか」

「壁の向こう側から明かりが漏れてますね。抜けられるようになっているのかしら」

「そうらしいな。ああ、気分が良くなった。やっぱり、狭い空間はだめだねえ。あとは若いのに任せて、さっさと出よう」

 火種が紙巻きを燃やし、マールボロとピースが短くなる。鳩貝と女が足を揃えて空間の出口へと歩き出す。

「どっちかが、妖頭芭蕉だな」

「やっぱり、そう思いますか。田島茜が怪しいと思います」

「根拠は?」

「目が変でした。黒い部分があっちにいったり、こっちにいったり、忙しなく動いていたものですから、嘘を吐いているんじゃないかと」

「ふーん、そうか。今度、顔を拝んでやろう。俺は断然、相埜谷酒之助が怪しいね。こんな美術セットを作るなんて、正気の沙汰じゃない。奴には、目を背けたくなるような、深淵なる暗闇が心の中で広がっているような感じがする」鳩貝は煙草をフィルターのぎりぎりまで吸うと、人差し指をピンと弾いて、吸い殻を跳ね飛ばした。女はそれを律儀に拾い上げ、携帯用灰皿に押し込む。

「壁に裏側なんてなかった、報告書にはそう書いておけ」

「仰せのままに」


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