第弐幕 一
机の上にはアクリル板があって、僕と僕以外の誰かの間を遮断している。
こざかしい壁は、ウイルスの行き来を防ぎ、透明さをもって、相手の表情やら口元をのぞき込めるから、しばらくは机上の占拠を続けるのだろう。
嫌な時代になったもんだ。どうやって、相手の温もりを感じればいいのか分からないじゃないか。
「妖頭芭蕉、金狐や銀狐を知らないというんだな」
僕の問いかけに、アクリル板の向こうに腰掛けた小僧は首を縦に振った。その瞳には複雑に絡み合った怯えが含まれている。なんだよ、そんなに僕が怖いか。
妖頭芭蕉の逮捕は暗礁に乗り上げていた。僕が罠を仕掛けて、颯爽とスピークイージーに乗り込んだというのに、女たちに良いようにかき回されて、煙のように消えてしまった。周辺を捜索して、狐の面を持つ人間を何人か捕らえたが、末端のチンピラが関の山で、舵取りをしている幹部連中までは手が届きそうになかった。
「課長、どうします?」
「釈放だね。証拠がないから。彼の容疑は呼気から若干のアルコールが検出されたこと。年齢から察するに、罰金刑にすらならないだろう」
ピエールは煙草を弄くり回している手を止めて、尋問をしている被疑者の顔をじっと見やってから、扉の方を指さして、「行ってよーし」と言った。
小僧は荷物をまとめると、部屋から出て行く。
「逮捕しても、どいつもこいつもあんな餓鬼ばかりですね」
「妖頭會が神経をすり減らして気を遣っているからねえ。そう簡単には尻尾を出そうとしないさ。ところで――」ピエールは煙草を箱の中に戻すと、たっぷりと肉が詰まったあごをぞりぞりと触りながら言った。
「部屋というべきか、洞穴というべきか、あの場所で何があったのかね」
僕はスピークイジーで起こったあらましを話していく。
「警察によって行われた現場確認とは、まるで違うのはどういうことだろうか。相埜谷くーんの話を整理すると、あの場所はスピークイジーと呼ばれる違法酒を提供する酒場であり、内装がきちんと整えられたバアのような様相であったのだろう」
「ええ、コンクリートの打ちっぱなしであったのは地面だけで、バーカウンターには丸椅子、呑みきれないくらいの酒瓶の山が陳列された棚がありました」
「証拠になるような写真は撮らなかったのか?」
「あそこでカメラを取り出せませんよ。課長と茜先輩を呼び出して一網打尽にするくらいしか思いつきませんでした」
ピエールはポケットからライターを取り出すと、何度か擦って、火花を散らし、炎を灯らせる。喫煙に未練があるのだろうが、なかなか意志が強いらしく、煙を呑んでいるところは見たことがなかった。
「田島くーんが何かを見たのかもしれんな。あの日から、休暇の申請があって、仕事を休んでいる」空気の中にいる茜を探すかのように、目が細められる。
「有給休暇を一度も取得していない、茜先輩らしからぬ行動ですよね」
「電話をかけても繋がらんし、一度、家に行ってみようと思うのだが、相埜谷くーんも来るかね」
「是非、ご一緒させてください」
「手土産は首都ばななにしておこうかな」首・都・ば・な・なと節を付けて口ずさむ。
「それは、自分で食べるフラグですね」
「食べないよー。田島くーんは結構、甘いものも好きなんだよ」
感覚が研ぎ澄まされている。
音やにおいや味や光といったものが、水面を目指す鯨のように浮上を続けている。敏感さは美徳だと思っていたわ。相手の思考や行動を先回りして読み、先手で自分の考えを置いて、成果を上げていくやり方は計算だけでは成り立たないから。
けれどね、精神があまりにも高度に複雑化してしまうと、手に負えなくなってしまう。育まれた魂は、誰かを出し抜くのではなく、精神を囲っている肉の自分を出し抜こうとしてしまうの。
裸のまま、ベッドに横たわって、天井を見上げる。
円形のシーリングライトから、LED電球が強烈な光を放っている。それが二重三重になって膨らんで、円形は歪んだ楕円になっていた。
真っ白なはずの光は小便を垂らしたような色味を帯びている。
「どうなっちゃうのかしら」
行き場のない不安感、
膨張している猜疑心、
奈落の底に続いている崖の縁に立って、
深呼吸をしているような。
そんな気分。
これが逮捕するべき意識の根源なのね。検挙してきた薬物中毒者が頭の中で巡らせていた化学反応の一端に接続されてしまった。脳脊髄液がぎゅるりと渦を巻く。
どうにかして、自分を取り戻さなきゃ。
悪魔に握られた、人生のハンドルをしゃかりきになって奪わなきゃ。
脳みその隅っこに僅かに残った理性がそう叫ぶが、簡単ではない。絶対に応援は来ない、目には見えない、孤立無援の闘い。今なら、数字として捉えてきた薬物中毒者に優しい言葉をかけられるわ。けれどね、もう遅いかも。
「ねえ、試しにもう一発打ってみるのはどうかしら? そのために余分にあげたでしょう。末端価格で幾らすると思っているの? あなたの給料で買えないほど大量に処方してあげたわ」
ふうっと花のにおいが漂う。
なんていう花のにおいなのかしら。
ここは厚生労働省が管轄している官舎の中で、強固なセキュリティシステムで守られている。いくら、妖頭會が暗黒社会に顔を利かせる存在であったとしても、うちの部屋まで乗り込めない。
つまり、幻覚。
薬物が織り成す模様としわのコラボレーション。
名前は銀狐、横浜港でうちが撃ち抜いた狐。
銀狐の声なんて聞こえやしない。
汗をかいて濡れた銀髪の短く刈り上げた部分や、
耳たぶに開けられた鮮やかなオーシャンブルーの小石がはめ込まれたピアスや、
左目に茶革の眼帯を付けた狐の面や、
左頬に殴り書きされた『Silver Fox』の文字など。
そういったリアリティのある写実は一蹴するべきだ。
「田島茜が否定するほどに、あたしの存在は大きくなっていく。あなたの心の中にあたしは埋め込まれてしまった。そういう人の前にはいつだって気軽に顔を出せるの。いいわね。お友達になれそう」
「ふざけるな。耐えてみせる。薬物を抜いて、健康な体を取り戻してみせる。まだ、たった一度きりよ」
「たった一回だけ、ちょっとした出来心だったんだ。田島茜が逮捕してきた薬物中毒者は揃って同じことを口にしていたわよね。それで、あなたはなんて言ったのかしら?」
「二度と戻れない」自分から遠ざけるように言葉を弾き飛ばす。
違う、
違う、
二度と戻れないのは自分ではない。
「よく分かっているじゃない。ご褒美にもう一本注射してあげようかしら」
「出て行ってちょうだい!」うちは玄関の方を指さして怒鳴った。
「どうやって出て行けばいいのよ。だって、あたしはあなたの幻覚なのよ。ならば、その実態はない。だから出て行けないわ」
どうすれば、幻覚を打ち破れるのかしら。幻覚は脳みそが作り出している。ならば、脳みそを破壊すればいい。
そうしよう、素晴らしい考えね。
早速、ベッドから飛び上がり、キッチンへと向かって、包丁をしゃるる、逆手で抜き放つ。右手を回転させる。砥石を使って刃先を尖らせ、野菜や肉を簡単に切断できるように調整している刀身が空間を削り取りながら、弧を描く。
ひょいっと正面に向けて、振りかぶった。視界に映る銀狐を切り裂き、幻を終わらせてやる。うちだって、反抗心はあるの。
が、包丁は空を切るばかりで、手応えはない。刻んで小さくしようとしても、狐の面はべったりと眼球に貼り付いてしまったようで、はがれる気配はなかった。
「脳みそをえぐり取ってしまおうってわけね。狂っているわ、常軌を逸している。そんなおかしいことをしたら、あなたは薬物に負けてしまって、そういう目で人々から見られるけど、それでいいの?」
「うちの脳みそが、理性の支配下にないのは分かっているわ。自分を傷つけるために包丁を持ちだし、頭から脳みそを引きずりだそうとするのは最善策でない。でもね、どうしたらいいか分からないのよ。うちにはやりたいことがたくさんあるの。昇進だってしたい、結婚だってしたい、子どもだって産みたい。幸せを手に入れようと頑張ってきた」懸命に、全力で、努力の経歴を振り絞る。
「助けを呼べばいいじゃない。ほら、あの太っちょ。ピエールでも呼んでさ、どうすれば薬物を体から抜けるか、相談してみるのはいいんじゃないの」
「それはダメえええ。彼には何もできない。器用な人間じゃないから。きっと、上司に相談して、逮捕して、牢屋にぶち込んで終わりよ。だって、うちは本命じゃないの。うちよりも、奥さんや子どものほうが大事なの」
「別れてくれ、うちの方を向いてくれ、体を貪り、快楽だけを共有するなんて、そんな都合の良いことはやめてくれ。あなたは叫んだ。地団駄を踏んだ。ピエールはそんな姿を見て、困ったように首筋を掻いていただけだった」
暗闇の中でぱっと光が焚きしめられ、愛の残像が浮かび上がる。
感じたにおい、
熱、
感触、
心の触手で感じ取った些細な変動、
鮮やかに。
きっと、薬物が体の中に入っていなかったとしても、そのときの光景を思い出して、ずぶずぶに涙をこぼしていたに違いない。
幸せになりたい、
特別じゃなくてもいい、
一番でなくてもいい、
誰もが手を伸ばせば、
自然と掴める幸せ。
そういったものは自分にはなかった、うちはそういう星の下に生まれている。
呼び鈴が鋭く、耳を叩いた。悪寒を感じる。壁に掛けられたモニターには、人影が映っていた。ピエールと酒之助だ。心配をして自宅に駆けつけてくれたのだろう。
腹が立った。なによ、もう、住む世界は違うわ。彼らはセーフティゾーンにいて、うちはデッドゾーンにいる。息を呑み込み、口を塞ぎ、生きているという証しを気取られぬようにした。いないふり、死んだふり。ふり、ふり。
もう一度呼び鈴が鳴る。反応してはダメ。生半可な優しさはさらなる泥沼を生む。
やがて、ピエールと酒之助は何やら言葉をかけあうと、扉の前から去っていった。止めていた息を吸った。酸素が肺に染みて、生きているという感覚が弾ける。
危うかった。右へ左へ、大きく揺れ動きながらも、中央に引かれた線の上をどうにか歩いていた。
大丈夫、まだ歩けている。確かに、足が……。
「いい加減にやめたらどう? あなた、死ぬわよ」
「何を言っているの?」
「その右手に握っているものを手放しなさいって言っているのよ。これ以上は面倒を見られないわ」
銀狐の呆れたような口調が生々しく響いた。
うちは右手を観察し、握られているものに恐怖した。
それは脳みそを削り取ろうとしている包丁ではなかった。
先端を見ただけで戦慄が走るような注射器であった。
ベッドの上には注射器が小山になって、絡み合っていた。
未使用のものも、
使用済みのものも、
産卵期を迎え、
くねくねと交尾に勤しむ蛇の塊のよう。
長い悲鳴――――。
あああ、喉が引きちぎれる。
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