第弐幕 二

 ピエールは喘ぎながら、肉に圧力をかけてしゃがみ込み、地面に転がっている死体に顔を近づけている。右手でしきりに十字を切っている姿は、死者の安寧を祈っているのかもしれないが、呪わないでくださいという保身のようにも見える。

 きっと、後者だ。

「また、子狐の死体ですか」血が付いた狐の仮面が地面に転がっている。

「可哀想に、まだほんの小さな子どもじゃないか」

 背格好から察するにまだ学生服を着ていてもおかしくはない。

「これで、五件目ですよ。妖頭會は邪魔になった手下を殺す組織として有名ですが、最近はそのペースが上がっているような気がします」そのうちの一件はピエールが見逃してやったあの小僧だった。知っている顔が死ぬのは悲しい。

「急所をひと突きか……」

 死体はうつ伏せになっており、硬直している。服装は紐付きで灰色のパーカーに、ダメージが著しいジーンズを穿いているが、そのほとんどが血で汚れてしまっている。

「顔が潰されてしまっているわね。これじゃあ、誰だか判別できないわね」

 有給休暇を終えて戻ってきた茜は、皮を着替えてきたかのように人が変わっていた。整髪料を使って、念入りにマッシュの形に整えていた髪は荒れ地のようだし、魅惑的に広がっていたシャドウに代わって、血が浮かび上がったクマがパンダのような模様になっている、頬はげっそりと痩せこけ、骨張っている。

 生理でもこじらせたか、妊娠でもしたのだろうか。が、一線を弁える僕のような紳士が無神経に訊ねない。いずれにしても、心配である。

「DNA検査をやれば身元は割れるさ。うーん、ピエールたちの領分じゃあないね。警察にお任せって感じかな」出た、ピエールお得意の外部委託主義。

「肝心なDNA検査も役に立ちませんよ。妖頭會が小僧ばかり使うのは、経歴に傷が付いておらず、まっさらだからです。きっと、警察のデーターベースにも載っていませんよ」

「うちの酒類取締台帳を洗ってみるしかなさそうね」

 茜は神経質そうに両肘に手をやって、感触を確かめるように擦り合わせている。寒気でもするのだろうか。まさか、コロナじゃないだろうな。茜は前にも感染しているからなあ。

 濃厚接触者になってしまうと思ったが、保健所はあまりにも感染者が多く、接触や足取りを把握していない。社会は毒を捲かれたように機能不全に陥っているというわけだ。コロナは人を殺し、社会を殺す。

「ほお、酒類取締課だね。最近、妖頭會がらみの殺人ばかり発生しているからねえ。お宅らとはよく顔を合わせるな」

 がらがらと車輪を路面に転がしたような声が聞こえる。

 視線をやると、若い警察官を子分のようにぞろぞろ、引き連れた鳩貝が退いた退いたと言わんばかりに、右手を振ってやってきた。目尻は恵比寿様のように、にいっと垂れ下がり、あごにはちょび髭が蓄えられている。右頬には墨を練り込んだような黒子があり、遠目からでも鳩貝と分かる目印になっている。

「また、情報がないんなら、さっさと帰ってくれって言うんでしょう?」

 ジャブを放つ茜の言葉に、鳩貝は垂れ目をシャッターレンズのようにこじ開けて、蝮のような眼光を向けると、ぺっと唾を吐いた。それから、右手の人差し指と中指に挟まれている火が点された紙巻き煙草を咥えて、胸一杯に吸い込む。

 ピエールが羨ましそうに唇をあむあむさせている。

「俺は雌犬の喧しく吠える声が嫌いなんだ。反吐が出る。落ち着きがなく、力もなく、無知で、愚鈍。ピエール、お前の子飼いなんだろう? しっかり、躾けなきゃだめじゃないか」

 煙をピエールの顔にひゅーると吐きかけながら、鳩貝は笑う。

 右手の拳を強く握る。

 ぶん殴ってやる。茜は、お前よりも優秀で頭が切れるんだ。が、拳は振り上げない。茜が察したように、僕の手をぎゅっと握ったからだ。

「鳩貝警視正殿。そろそろ、お見えになるところだと思っておりました」

 ピエールは顔にかかった煙なんぞ、存在しないかのように振る舞い、頭を垂れる。

 その姿に僕はさらなる憤りを覚える。どうしてもっと噛みついてやらないんだ。だから、いつも格下に見られて、犯行現場からさっさと厄介払いされるんだ。

「俺を待っていたか。ピエール、お前のような忠実な姿勢は嫌いではない。坊やとは出来が違うようだ」

 坊や? 鳩貝の野郎、いつも舐めやがって、もう一度口を開いてみろ。口の中に銃口をねじ込んでやる。熱湯のような感情を脳みそが即座に察知し、相手を威嚇する言葉を錬成する。しかし、発声するまでには至らなかった。臆病が絡んだわけではなく、茜が握り潰さんばかりの力を込めてきたからだ。

 茜の顔を見る。

 唇を剥いて、歯を僅かに見せて、警戒心を露わにしている。暴走しようとするのを制止してくれる、頼もしい姉御のはずなのだが、違和感を覚えた。

 いつもの茜ではない。握られている掌は氷のように冷たく、脂汗が僕の掌まで染みこんでくる。彼女のチャームポイントといえる白い歯はどこか黄色く、往年の汚れを纏っているかのようだった。歯茎は目を背けたくなるほど黒ずんでいる。一体、どうしたというのだろうか。何が彼女を蝕んでいるんだろうか。

「黙っているのは及第点としておこうか。いいか、現場検証というのはこうやるんだぜ。目をかっぽじって見ておけ」

 鳩貝はそう言うと、火の付いたままの煙草を人差し指で地面に弾き飛ばす。

 ブーツの底で吸い殻を踏み潰してから、両手をすっと持ち上げた。黙ったまま直立不動で傍らに控えていた警察官が、わらわら、ゴム手袋をはめる。両手を開閉させてから、鳩貝は死体の傍らにしゃがみ込んだ。

 両手をぴたんと合わせてぶつぶつとぼやく。一応、死者への敬意は忘れないらしい。

 それから死体の両肩を握って力を込めると、うつ伏せから仰向けへと体位を変える。

「何をやっているんだ。現場保全が何よりも大事じゃないのか」現場を損壊する警察官があっていいはずない。

「鑑識も入ってあらゆる箇所の遺留物を拭い、写真も撮った。あとは、やっこさんを現場から運び出し、この場所を正常な道路っぱたに戻してやんなきゃならねえ。もちろん、司法解剖もやるさ。だがな、メスを持つお医者様は医学的な見地でしか物事を発見できねえんだ。そりゃあ、医学は様々だ。俺だってな、心臓病の薬で世話になっているからな。でもよう、真実の解剖は、メスなんていらねえんだ。こいつで充分」

 鳩貝はまぶたの下をべえっと引っ張って、目玉をぎょろりと動かす。

「倒れていた場所は酒のタンクを卸す問屋が入ったビルの前だったんだろ。恐らく、醸造所や海外から輸入された酒を割り振る仕事を受け持っていたんじゃないか。結構重要なポジションじゃあねえの。妖頭會の名簿はねえのか」

「秘密主義の組織でしてねえ。実態は未だ掴めずにいるんですよ」ピエールは右手の人差し指で頬を引っ掻きながら言うと、鳩貝は驚いたように「へえ」と息を吐いた。

「うちのマル暴は、頭から首、胴体に至るまで、おおよそ名の知れた輩の素性はびっちし抑えているんだが、酒類取締官は何も分からんというのか? それって、お宅らの職務怠慢じゃないのか?」

「ちゃんと働いているさ。口を挟むな」噛みつく。茜の掌が万力のように強くなった。

「ピエール、こいつをぶん殴っても良いか、歯が飛んで、あごが粉々に砕けるまでな。なあに、懲罰は食らわないさ。おい、もしも俺がこいつを殴ったらどうする?」

「自分がやりました。鳩貝警視正閣下に、乱暴を働こうとしたので、公務執行妨害で取り押さえる際の正当防衛です」

 棒のように突っ立って微動だに動かない警察官の一人が、声を張り上げた。

「調教……じゃなかった、教育がちゃんとできておられますなあ」ピエールがずりずりと足を動かして、のろのろと僕の右足を踏みつける。空気を読んで応対しろという合図なのは分かっているが、体重をかけないでほしい。あごが砕ける前に、足が砕けて歩けなくなる。

 僕は唇を懸命に引き結んだ。

 全力疾走はいかん。

 ここは手綱を引いて、相手の出方を窺う。将来は厚生労働省勤務として、キャリアと肩を並べ、バリバリと働きたい。そこに至るまでには政治的な駆け引きなどいくらでもあるだろう。恐怖に戦き、嘶いていては、現場でいつまでも酒や薬を追いかけている羽目になる。

「まあ、反骨心は嫌いじゃないかな。俺も若い頃はそうだったし。だが、先達の言葉には耳を傾けておくものだぞ。さて――」

 鳩貝は胴体の中枢に刺し貫かれた傷跡を覗き込んだ。

「この傷は装飾だな」

「な、なんだと? これが致命傷ではないのか?」

「ああ、これは死後に付けられたものだ。どうせ、司法解剖に回せば分かる。動いている心臓に刃物を突き刺せば、もっと血があふれ出る。目も眩むような鮮やかな紅がわなわなと踊り出すほどにな」

「一体何のために」驚愕に彩られた茜の声。きっと、彼女もナイフ痕こそが致命傷だと思っていたに違いない。

「そりゃあ、徹底的に隠すためさ。妖頭會というのはそういう連中なのだろう。見た目を欺き、法螺を吹く。すっとこどっこいと踊って、視線をそらすのさ。一体なんのために、そりゃあ、暴かれては困るからだ。人を殺し、有り余るほどの秘密を守り通したいのさ」

 煙草の灰のせいか黒ずんだ唇を軟体動物のように開き、粘つくような笑いを披露する。「刺し傷が致命傷でないと仮定する。まあ、ほぼ間違いはねえだろう。じゃあ、この人相も分からぬほどに、崩壊した顔が致命傷か」

 顔を構成している皮は溶け出して液体になっている。露出した肉片には、ぶちぶちと千切れた毛細血管が浮かび上がっている。一部は骨が見えていた。

 最も印象的なのは瞳。言葉にはならぬ、恐怖と苦しみが綯い交ぜになって肥大し、今にも破裂しそうな、白い球体がぼんよりとこぼれそうだった。

「紙に描いた顔を消し去るのは簡単だ。消しゴムで消すか、紙を破ってしまえばいい。でも、肉の顔を消そうとするのは難しい。人間の皮は強靱に作られているからな。高い再生能力も持っている。破り捨てて、おしまいというわけにはいかねえ。おい、ピエール。この顔はどうやって破壊されたか分かるか?」

「そうですなあ。刃物で削ぎ落としたのではないでしょうか?」

「ははーん。さては、お前は料理をしない性質だな? 調理されたジャンクフードを食らい、ぶくぶくと成長している」

「うーん、そんなに太っているかなあ」おお、神よ。彼に現実を与えたまえ、太っているという自覚を降り注ぎたまえ。

「刃物で肉を刻むのは難しい。時間と、膨大な手間がかかる。それなのに、我々はどうして肉を刃物で刻むのかというと、食うためだからさ。調理の一環なのよ。でも、この顔面は食う必要はねえだろう? そりゃあ、かなり猟奇的な奴で、人肉がお好きって可能性もある。だが、食うなら顔だけじゃなくて、全部食うだろ? 食ったことはねえが、内臓なんか美味いはずだ。だから、刃物はねえよな」

 鳩貝はそう言い終えると、手袋をむしり取った。そして、顔の肉片に人差し指をつっこむ。

「やっぱり、ぬるぬるとした粘つきがあるな。おおよそ、水酸化ナトリウムといった線ではないか? 分からねえや。おっと、こんなところに酒類取締官様、ご一行がいらしたではないか。君たちは薬学に詳しいのだろう。ならば、薬物の鑑定もお手の物じゃないか」

「僕たちは得体の知れないものを素手で触ったりしない」プロ意識として当然のものだ。

「はっはっはあ。そりゃあ、失敬。だれか、水を持ってきてくれないか。このままじゃあ、指が骨になっちまう」いっそ、全部溶けてしまえと心中で野次を飛ばしておく。

 鳩貝はミネラルウオーターのボトルを傾けて、指先を洗ってから、再び手袋をはめた。

「生きている顔に水酸化ナトリウムをぶっかけて殺す。それはどうだろうか?」

「難しいでしょうね。苛性ソーダは劇薬だけれども、瞬時に溶けるわけじゃないから」

「嬢ちゃん、そのとおりだよ。ならば、この薬品も装飾だろうなあ。顔を消して捜査の矛先を変えたいっていうのはあるだろうけどよ。殺しの原罪ってわけじゃあなさそうだ」

 鳩貝は人差し指を跳ね上げた。「俺が犯人だったらこうするね」と言って、死体のあごをくいっと上に持ち上げた。そこには首があるべきはずだが、損傷が著しく、頸椎と筋肉の線が僅かに残るばかりとなっている。

「ひどいなあ。集中的に首が狙われているね」ピエールはそう言うと、茜はハッと声を上げた。

「絞殺ね」

「ご名答! 思ったより切れるねえ、お嬢ちゃん。警察に出向してこないかい?」

「すると、この紐が凶器かしら」茜は質問を軽くいなしてから、灰色のパーカーを指さす。

「俺だったら別な紐を用意するね」

「さすがは鳩貝警視正殿。相変わらずの名推理ですなあ」ピエールが掌を打ち鳴らす。

 しかし、鳩貝は全く嬉しそうな様子を見せず、舌を出して顔を厳めしくひん曲げると、「推理なんてもんは科学捜査の前ではおままごとでしかない。お察しのとおり、全ては推測の下で成り立っているんだ。ああ、誰か俺を絶海の孤島の洋館や吹雪で行く手を阻まれた山小屋へと招待状を出してくれんかなあ。喜び勇んで行くのによう」にゅっし、し、しと舌を擦り付けた奇怪な笑い声を撒き散らす。

「すると、犯行現場がこの場所というのは少し無理があるかもしれない」僕は詰めていた息を少しずつ吐き出しながら言った。

「そうだな。恐らくは別の場所だろう。そいつは科学捜査の手に委ねつつ、俺はのんびりと煙草でも燻らせながら、犯人を一歩ずつ追い詰めるよ。なあに、逮捕はそう遠くはないだろう。犯人は頭のネジがすっ飛んでいるが、用心深く、趣向を凝らす人間だ。そういう奴はなあ、思いも寄らぬミスを犯すもんだ」

 鳩貝は長年染みついたヤニを浴びて淀んだ瞳をすっと細めた。蝮が鎌首をもたげて毒牙を露わにして、威嚇しているように見えた。

「おっと、ここにも傷があったな」鳩貝の手が死体の左肩に伸びた。

 ぽっかりと楕円を描いた肉の凹みが痛々しいが、こちらは古傷らしい。歪に再生した皮膚組織がこんもりと丘を作っている。

「少し前に銃で撃たれた傷かな。銃撃戦だなんて、物騒だねえ。仏さんは外国にでも行っていたのかな」鳩貝は銃創と思しき箇所に指の腹を押し当てる。左のまぶたが何度か痙攣をしていた。「なるほど、なるほど」とぼやきながら、首を何度か縦に振った。

「何か分かったのか?」僕の言葉に、鳩貝はすっと顔を上げた。心の中を見透かすような居心地の悪い視線だった。

「なあんも、分からん。指先の感覚だけで、何かが分かったら、苦労はしねえだろ?」鳩貝はそう言うと、にやっと笑った。

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