第参幕 二
金属の格子をひとつひとつ確かめるようにして、足で踏みしめ、全て降りきるまでにはかなりの時間がかかった。
穴の底からは木製の通路が続いている。通路の端っこには狐の輪郭を形作る木枠に囲まれた照明たちが配置され、古風な日の丸の雰囲気を演出している。
うちはペンライトの明かりを消した。ぞわぞわとした尻の穴を撫でつけるようなヤマトモドキの明かりは、ふうっと吐く息で暗闇の中に溶けてしまいそう。
ピエールが先頭に立ち、通路を進んでいく。照明のろうそくは真新しい。まるで、やってくるうちらを見越して、誰かが新しいものに取り替えたかのようだわ。誰かいますかぁと声を出したら、狐がひょっこりと顔を出すかも。用心しなきゃね。
「茜。大丈夫かい?」こちらを探るようなピエールの声。
「大丈夫よ」
「そうか。しかし、すごい造りだね」
「金と手間がかかっているわね」
「これだけ、立派な設備だと、どこかに酒がありそうだなぁ」
「保管庫、あるいは醸造所なのかも」
「覚えているかい?」
「何を?」
「相埜谷くーんの実家。あれの地下にも同じ施設があったでしょう」
思い出したわ。
相埜谷酒蔵の地下は恐ろしいほどに入り組んでいた。酒類取締法から逃れる術なのだろう。蟻の巣のように広がった地下通路は、酒を造るための手順通りに、区分けがされており、驚くほどに秩序だっていた。元々、防空壕で使われたところを改造して酒造施設にしたらしい。
「ああ、あったわね。全容を解明するのに時間がかかったのよね」
「酒を扱う輩はみんな同じようなことを考えるのかもねえ。しかし、これだけのものを作ってしまうと言い逃れはできないだろうなあ。酒はさ、たまたま持っていました、初めてなんですと、言い訳をする人が多いけど、これは動かぬ証拠だもんね」
「わからないわよ。全てを亡き者にする仕掛けが施してあるかも」
「ひええっ、通路を粉々に吹っ飛ばす爆弾とかかい? そうしたら、ピエールたちは下敷きになってお陀仏じゃないか」ピエールは両手を上にやって、どっかーんと爆発音を口にした。
「でも、そのくらいのことはやりかねない組織よ。一体、妖頭芭蕉は誰なのかしらね」
ピエールが足を止める。
「どうしたの?」と声をかけると、彼は振り返って、うちを見た。何やら難しそうな顔をしている。何よ、理屈っぽいものは苦手よ。
「妖頭芭蕉の正体は大体目星がついているんだ」へぇ、自信がかなりありそうな口ぶりね。なによー、少し探偵っぽいじゃない。
「ええ、本当に?」
「うん。あれはいつのことだったかなあ。明日から酒類取締法が施行するって日があったじゃん」ピエールは目を細めて遠くの方を見やった。
「ああ、最後の宴会をやった日でしょう? 酒類取締課の顔合わせも兼ねた懇親会だったわね」
「そうそう。本省からお偉方も来てさ。頑張れって訓示があって……」
「ピエールは腹踊りをやっていたわね」真っ白な腹を出してきゅうきゅう。はい、西洋のイルカです! と言うと爆笑の渦に包まれたのよねえ。ふふん、あのお腹はなでなですると結構気持ちが良いのよ。
「よく、そんなしょうもないことを覚えているな。そこでさ、相埜谷くーんと少し話をしてね。彼のスマートフォンがちらっと見えたんだ。白鐘……って、表示されていたんだ」
「白鐘って……銀狐の……」
「そうだよ。でも人違いの可能性もあるから、調べてみたらね。面白い事実が分かったんだよ」ピエールは顔を綻ばせながら言った。
「ええ、教えなさいよ」ピエールの間合いにずいっと一歩踏み込む。彼の背中がぴんと伸びた。
「うーん、どうしようかなあ。これはね、捜査機密なんだよねえ。お偉いさんにもさ、口止めされているんだ」ピエールが人差し指を付き合わせて、もじもじしている。ああ、いつもの癖ね。結構気に入っている仕草なの。可愛いじゃない。というか、拳銃はどこにやったのよ。ちゃんと構えなさいと指摘をする。
「ごめんごめん。狐が飛び出してくるかもしれないからね。それに、茜にはちゃんと話しておかなきゃって思っていたんだ。相埜谷くーんを逮捕しなきゃいけないから」
「逮捕? どういうことなの?」ピエールの首根っこを引っ掴み、前後にがたがたと揺らす。
「ああ、揺らさないで。かつらが取れちゃうから」
「嘘だ! 残りも全部、引っこ抜くわよ」
「ぎゃあ、ただでさえ少ないんだから勘弁してよね」
「つるっぱげでも好きよ?」ねっとりした『おんな』をセロファンに包ませて、言葉の節に潜ませる。すると、ピエールの顔がだらしなく緩んだ。あー、ちょろ。
「うーん。そう? スキンヘッドも悪くないかなあ。でも、毎日剃るの面倒なんだよね」
「脱毛レーザーでも打つ? 紹介があれば半額よ」
「うそー。凄いじゃん。紹介してよ」
「ねえ、ピエール。茶番をやっている暇なんてないの」真剣さを取り戻して、ピエールの顔を睨み付ける。
「何を言っているんだい。調子に乗ったのはお互いさまじゃん? でもさあ、ジョークでも飛ばさないと、怖いじゃん。ここ」ピエールは銃口を下に向けて、ミルキーな素肌のようにヤスリがかけられた床板を指さした。
「……」ぶつんとテレビのスウィッチを切ったような静寂が訪れる。静かだと、頭の中で声を作り出すのよね。
誰かの笑い声や、
誰かの悪口や、
誰かの呪詛、
こんこんこんこんこん。
耳とお髭と尻尾が揃ってやってくる。
「あかね。あっちの世界に逝きそうだよ。ついに、右目もダメになったかい? 両目をハンケチで巻き付けようか?」
「それには及ばないわ。平常心、平坦、地べた、ここはどん底、登るだけ」銃を握っていない左手で十字を切る。生きて帰って、七面鳥を食べるの。
「もうすぐ、クリスマスだもんねえ。ホールケーキもたくさん用意しておかないと」
「たくさんって発想が理解不能だわ。それで、面白い事実ってなんなの?」
「相埜谷くーんのお母さんの実家なんだけどね。白鐘っていうんだ」ピエールは再び、通路の行く手を探るようにして慎重な足取りで歩き始めた。
「冗談でしょ。じゃあ、銀狐って何者なのよ」
「相埜谷くーんの妹だよ」
「……嘘、よね? だって、妖頭會って秘密の組織じゃないの。全容はほとんど解明できてないって……」衝撃が走る。あの銀の仮面に、酒之助の顔が重なった。
「茜には黙っていたんだけどさ、結構分かっているんだ。相埜谷酒蔵と、妖頭會はね、表裏一体の組織なんだよ。相埜谷酒蔵が酒を流通させ、妖頭會が汚い仕事を受け持つ、この仕組みは酒之助のお父さんである、酒造さんが作ったんだ」
「信じられないわ! じゃあ、酒造さんが妖頭芭蕉ってことなの! ええっと……ということは……あのとき、うちらが逮捕しに行ったのは間違っていなかったってわけね」酒之助の父親を撃ち抜いた感触が掌に蘇る。動きを止めるために、急所は外したはずだった。
だのに、あんな結果になってしまったことは屈辱だった。
「そうだね。自殺されちゃったけどさ。匕首で自分の喉元を刺し貫くなんて、なかなか肝が据わっている人だよ」
「酒之助が跡を継いだってことかしら」
「あるいは、銀狐が妖頭芭蕉なのかもしれない。詳しいことは本人に聞いてみないとね」
「でも、うちらさあ、公安職でしょ。身辺調査は他の公務員よりも入念に行われるわよね。妖頭會と酒之助は繋がりがあると認められたら、採用されなかったでしょ?」
「鋭いね! 暴力団や麻薬密売組織との関係性は徹底的に調べられるよ。でもね、コロナが流行る前に酒が取締の対象になるとは思わないじゃないか」
「確かに……でも、わざわざ酒之助を酒類取締課に配置するなんておかしいわよね。利害関係者はできるだけ外すのが方針でしょ」
うちの主張にピエールはしばらく口を閉ざした。通路はカーブを描きながら、緩やかな下り坂になっている。いつか、地下鉄にぶち当たっちゃうんじゃないかしら。そろそろ、扉のひとつやら、狐の一匹がお出ましになってもおかしくはないけれど、どちらも拝めずにいる。
「これは推測なんだけどね」ピエールは前置きをしてから、話を続けた。「泳がせていたんだと思う」
「泳がせる?」
「囮だよ。酒類の取り締まりは賛成派と反対派で二分しているのは知っているだろう?」
「国会で『麹菌を見る会』をうんざりするくらいやっているものね」
「厚生労働省でも意見が割れているんだ。酒の取り締まりを強化したい派閥と、抜け穴を作りたい派閥で、ばちばちやり合っている」
「ピエールはどっち派なの?」素知らぬ顔を作って訊ねてみる。
「大きな声では言えないけどね……ピエールは抜け穴を作りたい派閥なんだ」
「……そんなの知っているわよ」
「でも、部長が取り締まり強化派だから、板挟みにあっている」ピエールは心底困ったような声を出す。
「難しい立場ね。だから、酒之助の立場も曖昧になっているのね」
「理解が早いなぁ。でも、妖頭會がらみの殺人が起きてから、すぐにピエールは相埜谷くーんを逮捕するように言ったんだ。でも、逮捕令状は下りなかった。誰かが止めたんだろうな」
「止めた? 殺人が起きているのよ。犯人は酒之助だって明白じゃない」理解が追いつかない。殺人鬼を野放しにしたってこと?
「そうなんだけどね。相埜谷くーんが逮捕されたら、酒の流通が一気に止まるじゃん。それって、困る人が多いでしょ」
「困って当然でしょ。違法なんだから」
「そりゃあ、そうだけどさあ。納得できない人たちが団結して、暴動でも起こされた日にはどうしようもないじゃないか」酔っ払いめ、しゃらくせえと言いながら、あいつもこいつも逮捕だと部下に指示を飛ばす鳩貝の姿が目に浮かぶわ。
「だから泳がせていたわけ?」
「そうだよ。へへへ、映画みたいでしょ。実はピエール、スパイなんだ」ピエールは腰に手を当ててポーズを決めて、ドヤっと胸を反らす。平然と嘘をつく男、ピエール。ちょっと、うざい。
「次、嘘をついたら、コンドームに穴を空けるから」
「うっわああ、ごめん。上からさ、相埜谷くーんの勤務態度や様子を報告するように逐一言われていたんだ。ああ、これは秘密だよ。守秘義務があるからね」全く、守秘義務って言えば、免罪符にはならないのよ。
「酒之助が呑んでいるって報告もしていたの?」
「したよ。そうしたら、注意はせずに様子を見ろってお達しだった。彼の扱いは本当に大変だよね。異動希望を何度出そうと思ったことか……」
うちはピエールの右肩を鷲掴みにした。「うわっ! 狐ッ」と女々しい悲鳴が上がったが、無視をする。
「異動……するの?」自分で言っておいてなんだが、かなり病んでいる台詞ね。
「し、しないよ。茜と離れちゃうじゃん」あわあわと口が大きく広がり、震え出す。おもしろー。
「もう、うちのことをいらないって思っているんでしょ」
「そんなことないよー。目の中に入れても痛くないよ」
「じゃあ、今度、寝ているときに目の中に指を突っ込むから」
「痛いから、やめてよね」
カラカラとした笑い声が口から漏れる。
ああ、笑えたわ。
久々にお腹を凹ませ、喉仏をくつくつと鳴らした。
「本当はもっと早く逮捕するべきだったよね。でも、妖頭會って大きいからさ。全てが相埜谷くーんの一存で動いているとは思えないんだ。白鐘銀狐についても調べなきゃいけない。根こそぎ、潰すには全体像を把握する必要がある。だけど、まさか茜ちゃーんを誘拐するとは……」ピエールはむうと唸り声をあげる。
「安全に助け出す方法を考えましょう。まずは、交渉よね。酒之助のことだから、話せば分かってくれそうだけど」
「それは甘いよ。もうね、彼の脳みそは不可思議、奇天烈に暴走をしている。ピエールたちが考えつかないような世界で生き、その世界の正義とやらを信じているんだ」
「まるで薬物中毒者ね」ふん、笑えないわ。
「あっちゃあ、これはどっちかなあ」
顔を上げ、下がりかけていた銃口を再び、真正面に向ける。
曲がりくねりと続いてきた道はふたつに分裂をしていた。それらは寸分違わぬ同じ顔をして居座っている。
等間隔に置かれた狐の照明の数もそうだし、
緩やかな下り坂になっているのも変わらない。
まるで、迷路ね。どれかを選んで進んでみて、失敗だったら戻ってくればいいのだが、うーん、なんだか試されているような気がする。
「フレミングの左手の法則って知っている?」
「あれでしょ。親指と人差し指と中指を広げて、磁場内において電流が流れる導体力が発生する現象の向きを表すんでしょ」あの形、独特で好きなのよね。
「よく覚えているなぁ。でも、不正解。あれはね、いくつかの不確定要素が存在する場合、その空間において電流が流れる導体力が発生する現象の向きを特定する手法なんだ。知っているかい? すべての電流はね、正義とされる方向へと流れていくんだよ。つまりは、フレミングの左手の法則を使えば、正義を体現しているピエールたちが進むべき方角が自然と分かるということなんだ」ピエールはそう言うと、左手を銃把から離し、フレミングさんの形を作ってみせた。
「うーんこっちだね」ピエールは左を指さすと、堂々と歩き始める。
「すごいわね。それって、大学で習うの? 初めて聞いたんだけど」
「そりゃあ、初めて聞くだろうね。今、考えたから」
「……」うちはね、ピエールのこういうところ、嫌いではない。
てくてくてくてく、足音をいくつ重ねただろうか。
うちはいつものように和やかさを演出してくれるピエールに寄りかかるようにして、おしゃべりを楽しんでいた。
捜査中であるということを忘れてしまいそう。
幸せがぢるぢる、脳みその中枢から湧き出す。
いつまでも、
お話をしていたい。
お家に帰らないで欲しい。
あなたのスモーキーな声を耳の中で馴染ませておきたい。
そう言って、うちはよくピエールを誘う。
彼もまんざらではない微笑みを頬に蓄えて、ほいほいとついてくるのよ。ああん、この捜査が終わったら、デートとしゃれ込もうかしら。いいわね、そろそろクリスマスだし。
「でさあ」とクリスマスプレゼントは何を贈り合おうか話をしていると、不穏な突起物が、足の裏を押し上げた。やばっと、足を払いのけたが、少し遅かったような気がする。
「ピエール、何か踏んじゃったかも」
「茜! やばいじゃん。こういう通路で何か踏んじゃったら、どうなるか分かるよね」
「大玉が転がってきたり、銃口が壁から生えてきたりするんでしょ」
「そうだよー。ああ、どうしよう」ピエールは頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまう。これで転がり始めたら、大玉ピエールの完成だわ。
銃把を両手で握りしめ、発射点の安定性を図ってから、周囲を注視する。大丈夫、自分の尻くらい自分で拭けるわ。通路の幅はピエールがふたり行き交っても、余るほどのゆとりがある。
ぴちゃっと何かがつむじに落ちたのが分かった。銃把から右手を離し、つむじにじわっと染みこんだそれを指先で攫う。ふわっと鼻先で扇ぎ、においを嗅いだ。酒のにおいだわ。うちは天井を見上げた。微量なろうそくの明かりは届いていない。うちはペンライトのスウィッチをオンにした。はっと息を呑んだ。赤黒い雫たちが点々と氷柱のように、その身を押し下げている。
「ピエール、ちょっと見て」
「なんだい、大玉が来たのかい? いくら、ピエールでも、支えることは難しいよ」穴でもあったら入りたいとばかりに、巨大な尻をもぞもぞと動かしている。
「そうじゃなくて、天井を見て」
ピエールは恐る恐る、脂肪に埋もれている首をもたげて、天井を見やった。タイミングよく、ぴちゃりと液体が落ちて、ピエールの眼鏡に当たった。
「ヒイ」
「ただのお酒よ。アルコールのにおいがする」
ピエールは眼鏡を外して、しげしげとレンズの上に広がった液体を観察する。
「見た目は果実酒っぽいかな」
「ワインかも」
「その可能性はあるね。舐めてみる?」
「ピエールが舐めて感想を教えて」
「死んだらどうするんだい」
「骨まで食べてあげるわ」
連鎖的に雫が降り注ぐ。珠として落下していた液体はやがて、線を描くようにして長く伸びた。
ざあっと濁音が響く。
「わああ。酒の雨だ! 飲み放題だぞ」
ピエールが嬉しそうな声でそう言った途端に、照明たちがふっつりと熱を冷ました。
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