第参幕 三
暗闇が蜂蜜のようにねったりと空間に広がった。
脳みその中枢がじんわりと痺れていく。ハンケチで覆われた左目が酒のせいで、すっと透ける。
見える、
みえるわ。
いっよおおっ、べべんべんべんべん。
へのへのもへじを顔にこしらえた小さな狐が三味線を抱え、バチを踊らせる。
だ、誰?
「あー、やっとお出ましね」金狐は待ちくたびれたといった具合に大欠伸。
「乾杯はカクテルドリンクにしようかしら? それとも、濃縮メタンフェタミン? 希釈していないやつは、田島茜が注射してきたやつよりもきょーれっつよ」銀狐はげーらげら。
サイコロのように寸分の狂いもなく、真四角に切り出された部屋にうちは立っていた。
床には真新しい畳がずららと並んでいて、周囲には格子に障子を張った襖が行く手を阻むようにして立ちはだかっていた。
ここはどこ?
妄想の世界?
ピエールはどこに行ったの?
数多の疑問符が脳裏を疾走する。
ああ、ハンケチ……と目元に手をやった。
が、ピエールが巻き付けてくれたハンケチは存在しない。
閉じろ、左目。
何度もまぶたに力を込めたが、柔らかな肉のフタは瞬間接着剤で眼球の裏側に貼り付いてしまったかのように動かない。
ぎゅーるる、左目が世界の一端を捕捉する。
逃げなきゃ。
通路に戻るの。
ピエールに助けてもらう。
現実を指し示してもらう。
それだけを口ずさみながら、
金と銀の狐を視界から外して、
襖を開ける。
敷居を滑走する音が響き、真四角の和室に逃げ道ができる。
向こう側には通路が……ないわ。
向こうの和室にはにった、にった、と嗤う、
金と銀の狐。
三味線を構える小さな狐、
とぼけた顔でこちらを見やる、
うちにそっくりな、
うち。
ど、どういうことなのよ。
こちらと瓜二つの部屋があるじゃない。
「田島茜、鏡と鏡を向かい合わせると、どうなるか知っている?」金狐が右手と左手のひらをぴたりと合わせた。
「鏡が鏡の中の世界を映すのだわ。それが延々と連なっていく」
銀狐が右手の人差し指をぴんと跳ね上げて、うちを指さした。
それを合図として、襖が敷居や鴨居をぱららら、と鳴らす。
四方八方の視界が開け、その光景にうちは愕然とした。
畳が延々と彼方まで広がっている。金や銀、小さな狐はもちろん、狼狽える自分の姿も寸分の狂いもなく、通路に並んでいた狐の照明のように等間隔に整列していた。
「う、嘘、嘘よ。ピエールは?」うちの声が折り重なって響き渡る。
「田島茜、これがリアル」正面の部屋から金狐がしゃべり。
「現実を見るのだわ、田島茜」背面の部屋から銀狐が呼応する。
狐たちの足下には人が倒れていた。
ででんとした肉々しい巨躯は、ピ、ピエールじゃない。
「ピエエエエル!」裏返った声は踏み潰したカエルの断末魔みたいに響く。
「ぎぎん、死んでいるのだわ」
「田島茜が殺したのよ。首を絞めてね」金狐が両手をぎゅっと絞る。
「うちは殺していないわ。ついさっきまで、そこにいたのよ。一緒に歩いて、話をしていた」千切れそうなくらいに首を全力で横に振る。
「アハハハ、お薬でそういう幻覚を見ていたのでしょう?」
「現実は見なきゃだめよ」
ピエールはいた。確かにいた。ここに……、うちはピエールの体躯を示すようにして、両手を大きく広げた。
その温もりや、
感触や、
息遣いや、
においが嘘なわけない。
いる、
居る、
ゐる。
金狐と銀狐が笑う。図太い悪寒が足下から後頭部までひた走る。
「痴情のもつれ。奥さんと別れてくれなくて、殺したのだわ」
「都内某所の空き家に呼び出して、えいやと殺した。死体はこれから埋めるのでしょう」
「ごんごんごごんごん、お手伝いをしましょうか?」
「死体が見つからなければいいのよ。最高の殺人、名探偵も、警察もいらない」
広げた掌におっぎゃあっと感触が生まれる。
喉仏を押し潰し、
気道を締め上げ、
抵抗しようともがく、
生の最期が、
ううううっと迫り来る。
う、うちは、ピエールを殺したのかもしれない……。
い、
いやや、
そ、
そんなことはないわ。
嘘、嘘よ。
これは幻覚。
偽りの感覚に、うちは騙されない!
腹の底から薄気味悪いムカムカがこみ上げてきて、
おぎょぎょぎょ。
えづきの後に、
絶句。
それは消化途中の食料ではない。
どす黒い赤をまとった肉塊だわ。
「よく見てみるといい」
「それは田島茜が欲しかったものよ。恋い焦がれ、夢を見て破れた、なれの果て」
ひらがなのひをたくさん袋に詰め込んだような、悲鳴を迸らせる。
頭がある。
手がある。
足がある。
「あ、赤ちゃん……」
「欲しかったのでしょう? 浦島ピエールとの子ども。抱き上げて、あやしてごらんなさいな」金狐の猫撫で声がぶきみ。しゃべるな、騙るなア。
「そんなはずはない。赤ちゃんが、口の中から出てくるはずはないわ」
うちは肉塊から目を逸らしながら言った。
気が狂いそうだった。
いや、もう狂っている。
幻覚を見ている、
幻想を巡らせている。
ひとつ、ひとつ、拾って、否定していく必要がある。
冷静になるのよ。
暴走をしちゃだめ。
ゆっくりでいい。
うちはだめな人間じゃない。
踏みとどまれる。
やり直しが利く。
深呼吸、過呼吸、ハッハッハッ。
違う。あり得ない。頼むから、うちの目の前から消えてくれッ!
肉塊が輪郭を薄くさせる。
消えろおおおお、赤ちゃんっ。
涙がぼろぼろ、こぼれる。
ほんとうは、本当は、消えてほしくなかった。ピエールの子どもが授かりますようにといつも願っていたから。ずっと、彼がそばにいてくれないのなら、せめて彼の面影が残る子どもを育ててみたかった。それを否定するのは、身が切り裂かれそう。
なんで、うちがこんな目に遭わなきゃならないのよ。
それでも、歯を食いしばって、凝視する。あれは真実ではない。望む形ではない。幻想を押しつけられてたまるものか。念力を込めて、視線を送るとようやく消えた。息を吐く、やっぱり幻覚だった。
「田島茜、すごいわ」
「あれだけの覚せい剤を体内に取り込み、立っているのさえやっとのはずだというのに、幻覚を叩き潰した」
狐たちが拍手を送る。
うれしくなかった。そんなの当たり前ではないか。誰もが、現実と非現実に区別をつけている。見える景色は現実以外の何ものでもないし、疑うことすらしない。
正常ってね、神様が生きやすく設計しているのよ。
「ねえねえ、浦島ピエールの死も幻覚かもしれないわよ」
「ぎーんぎぎんぎぎん、そもそも浦島ピエールという存在そのものが幻覚かもしれないわ。だって、名前からしていかにも胡散くさいじゃない」
「あらーん。困ったわね。どっちを信じればいいのかしら。浦島ピエールは実在するのか、生きているのか、死んでいるのか」
「田島茜の妄想によって、真実はいくらでも書き換えられる。あなたが望むようにしていいのよ。だって、あなたの人生。登場人物はどう料理してもいい」
銃をのろーりと上げる。
両眼から伸びた視線の範疇から射線が野犬のようにうろつくのが分かる。まるで、犯罪者の視点。いや、まるでじゃない。うちはもう、薬物をやっている犯罪者。わかっている、でもね、正義の方角にだけは手を伸ばしておきたい。
それだけは、譲れないセンだから。
「そんな物騒なものを向けてどうしたの、田島茜」
「まさか、わたしたち狐を撃ち殺そうって話じゃないでしょうね」
「ぎんぎんぎぎん、人殺しは犯罪ですよ」
「狐だから殺していいっていう話でもない。人格は認めよ」
「黙れ、黙れ。酒之助はどこにいった。茜ちゃんはどこにいった?」わめきちらす。見つけなければならない。茜ちゃんだけでも救出してあげないと。そのために、うちはここにやってきたのだ。
「それならここに」
銀狐がひょいと手首をくねらせ、何もない空間から理科室で使うビーカーを取り出した。両手で抱えなければならないほどに大きい。そこには透明な液体が波打ち、中央には胡桃の果実のようなしわと襞が織り込まれた、脳みそが仲良く浮かんでいる。銀狐はそれを畳の上に置いた。
「金魚に餌をあげるように」
「あたしたちは酒之助に酒をあげる」
「ついでに茜ちゃんにもね。彼女はアルコールによって、朗らかな夢を見ている。パパに愛される夢」
きゅっ、ぽんとコルクが弾け飛ぶ音。
金狐がわっしと掴んだボトルから抜き放たれたものだ。
砂糖を溶かし、弱火でじっくりと煮詰めたような濃い飴色。白いサンドブラストを吹き付けられ、刻まれた言葉は『山崎五十年』。そのウイスキーがどれほどの価値を持つか、うちはよく知っていた。新規醸造が許されず、年数が経っていないウイスキーでさえ、目玉が飛び出るような高値が付く時代なの。それが五十年、誰にも呑まれることなく、保管されてきたものならば、その価値はまさに青天井。
「こうやって、酒之助の脳みそに酒をぶちまけることによって、彼は動くの。途切れかかった輪郭がはっきりとした実線となって浮かび上がり、思考が構成される。あれを見た、これを思った、喜怒哀楽の感情がトランプのようにシャッフルされて山札になる」
「その挙動に一喜一憂する者がきっといるわ。こいつはこれからどうなるのだろう。どういう立場で、どういう行動をとり、どういう思想の持ち主なのか。興味関心を深々と滾らせている輩。そいつは、安全な場所から、こっちを見ているのよ」銀狐がぎろりと何もない宙空に視線をやって、挨拶でもするかのように軽く手を振った。
「そういう人たちを満足させるために、狐は存在している。そして、酒之助にもっと踊れと、酒を注ぎ続ける」
何が、誰が、どこが、狂っているのか分からない。うちは狂っている。世界も狂っているのか。だとしたら、何を信じればいいか分からない。白線の引かれていない、道路を歩くのは、甚だ難しい。
「妖頭芭蕉は酒之助なの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。田島茜がどうしても、相埜谷酒之助を妖頭芭蕉にしたいというのならば、そうできる」
銀狐は腰に下げていたものを抜き放った。鈍く光り輝くそれは、近代まで政治の趨勢を担っていた日本刀だわ。
彼女は手首をしなやかに動かして、下段の構えを取ると、ひいっと息を吐いた。
「あたしだってね、死にたくないのよ。銃を向けるというのなら、刃を見ることも覚悟しなきゃだめ」銀狐はだっと、矢の如く駆ける。
速い、人間の反応速度をはるかに超えた動き。
対峙する相手が銃を持っていたこともあるし、肉斬り包丁だったこともある。が、日本刀を相手にするのは初めてだった。
引き金を引く。スライダーが滑らかに動き、発砲音が木霊して、弾丸が射出される。その先には銀狐の姿はない。意図した方向とはまるで違う場所へと銃弾は消えていった。
「よく見なきゃだめよ。こういう風にね」
びゅっく、と風切り音が聞こえて、日本刀が肩口のすれすれを通過する。直感的に後退し、間合いの外に出る。
「やるねえ。左肩から腕をばっさりいく予定だったのに」
「本当にシャブをやっているの? 誰かの書いた稚拙な筋書き通りに振る舞っているんじゃない?」
そんな芸当ができるほど、余裕はないわ。でもね、修羅場を積んできた。裏打ちされた知識と経験は幻覚に対抗できる。
銀狐は驚異的な速度で動いていた。眼球による補足が追いつかず、銃口を彼女に向けられない。引き金を引いた頃にはとっくに背後に回り込まれるのは分かりきっている。
「背後からでも切りつけるわよ。あたしは武士じゃないから。義を貫くって嫌いなの。汗にまみれてくさそうじゃない」
体を捻り、筋肉と関節から尋常を排除する。
切れてもいい、折れてもいい、外れてもいい。
生き残れれば、それでよし。
間合いに踏み込んできた銀狐は鞠のように縮こまった肉体を伸び上がらせて、下段からの斬り上げを放つ。
避けられない、と分かった。
うちにとって、伸ばした右腕が最大の武器だ。
これを失ったら、死ななければならない。
ならば、左腕はいらない。
我が身を守る、盾となれえええ。
その判断と、左腕が千切れ飛んだのは、同時だった。
目を見開いた。
痛みはあったし、腕が消失したという虚無感もあった。
が、それはとかく美しかった。
飛び散った血の珠は桜吹雪のように、空に舞った。黒ずんだ骨の先端が僅かに顔を覗かせ、びゅるっと伸びた太い血管が肥沃な大地から姿を現したみみずのように踊り狂っている。
「ひゅううっ、銀狐やるう」金狐が拍手喝采。
「田島茜は左腕を捧げたわ。あのままの速度なら、肋骨の隙間から肺をぶち破れたのに」銀狐がびゅっと刀を振るって血飛沫を飛ばしながら言った。
「へえ、根性があるのね。そこまでして生きたいの?」
痛かった、
怖かった、
苦しかった、
しんどかった、
このままじゃ、
出血多量で死んぢゃう。
でも、今は生きている。
動ける。
それだけで充分よ。
右腕を振り上げる。
銃弾を最大速度で。
叩き付けろ!
負けるものか。
うちだってね、うちの人生の主人公なの!
薬物に溺れていても、生きているの!
簡単に退場していい命じゃないの!
舐めんな!
赤銅色に塗り染められた刀剣が空間を滑走する、速い。
だが、こっちはもっと速い。どんなに努力をしても、火薬の速度に追いつける生命体は存在しない。狐は猟銃に撃たれて死ぬ運命なのよ。毛皮くらいはマフラーにしてやってもいいわ。
銃はブレた。
それでも、狙いを定める。
寿命がぎゅんぎゅん縮むのが分かった。
でも、うちはこれから先の未来には興味がなかった。
今、この瞬間を生きる。
それが最大の救いだと、信じている。
「目を瞑れ、あかね。君を助けにきた!」
その声はサイレンのように鳴り響く幻聴やこめかみに疼く心臓の音を蹴破って、聞こえた。
左目が、魔法を解かれたかのように閉じる。
ああ、神様の声――。
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